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大学生が走るだけなのに、なぜこれほど人気なのか…箱根駅伝が「正月の風物詩」になった恐るべき理由

プレジデントオンライン / 2023年11月5日 12時15分

第99回東京箱根間往復大学駅伝競走(写真=Dick Thomas Johnson/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

今や正月の風物詩となった箱根駅伝も、1987年に日本テレビが生中継を始めるまでは「関東のローカル駅伝」に過ぎなかった。なぜ箱根駅伝は人気になったのか。スポーツライターの生島淳さんの著書『箱根駅伝に魅せられて』(KADOKAWA)より一部を紹介しよう――。

■箱根駅伝は「ラジオで聴くもの」だった

昭和50年代の日本のお正月は静かなものだった。お店はすべてお休み。宮城県の気仙沼なんて、シーンとしていたものだ。日本全国、いつから元日でもお店を開けるようになったのだろう? 静かなお正月が懐かしかったりする。

わが家は食堂で、大晦日までお店をやっていたし、滅多になかったけれど、望まれれば元日にも出前に行ったりしていた。自分も正月からラグビーや駅伝の取材に行くのが苦だと思わないのは、母親の背中を見ていたからかな、と感じる。好きな仕事、求められている仕事であれば、お盆もお正月も関係ない。

そんな環境で育ち、私は昭和52(1977)年のお正月から箱根駅伝を聴き始めた。

当時も東京の民放局は中継をしていたようだが、ラジオの中波(といっても、もう若い人には通じない)は電波の性質として昼間は遠くに届かず、宮城では夜にならないと東京の放送局は聴けなかったから、もっぱらNHK第一で聴くのが毎年の楽しみになった。

■早稲田大学の瀬古利彦

小学校低学年の時から、私はすでに東京六大学野球、ラグビーの「耽溺の沼」に足を踏み入れていたが、1974年に法政大学に進んだ次兄が「今度、早稲田に瀬古というすごい選手が入ったんだ」と教えてくれた。一浪して1976年に早稲田に入った瀬古さんは、大学1年の箱根駅伝で一時は順位を大きく上げたが、後半に失速して順位を落とした。それでも「瀬古」という響きがとても良くて、私の記憶のなかに瀬古利彦という名前が刻まれたのである。

のちに、瀬古さんに大学1年生の時の話を聞いたことがある。

「あの時は苦しかったよ。最初はいい調子で入れたんだけど、2区が25.2kmもある時で、最後の権太坂で足が止まってしまったんです」

瀬古さんが、解説席で2区の走りについて、序盤はわりと慎重に入るランナーを好むのは、自分の経験が影響しているのかなとも感じた。それは渡辺康幸監督も同じだ。

瀬古さんは、このあとの2月に京都マラソンに出場して2時間26分00秒で10位に入り、新人賞を獲得している。

「箱根駅伝も苦しかった。京都マラソンはもっと苦しかった。もう二度とあんな苦しい思いはしたくない。それでいっぱい練習しなくちゃいけなかったんだ」

瀬古さんはそう振り返っている。そして1977年の福岡国際マラソンで5位に入り、日本中に名を知らしめた。エンジに「W」のユニフォームがなんともカッコ良かった。

瀬古さんは年が明けて箱根駅伝の2区を走っている。この時は法政の成田道彦(のちに法政の監督になる)に区間賞を譲った。なんだか悔しかったのを覚えている。それでも瀬古さんは気にしていなかった。

■箱根は「ついでに走るもの」だった

私がインタビューした時に「箱根? あれはついでに走ってたからね」というひと言に度肝を抜かれた。1980年はモスクワ・オリンピックの代表に内定してから箱根に登場した。この年、NHKはラジオばかりではなく、新春列島中継的なもので2区から3区の映像を流した。これは田舎に住んでいた私には画期的なことで、食い入るように見た。瀬古さんは当時のことをこう振り返る。

「日テレさんもまだ中継していなかったし、箱根はそこまで大きな大会じゃなかった。もしも、私が箱根でケガでもしたら、たいへんな騒ぎになっていたと思うよ。オリンピックの方が大切なのに、大学のレースでケガをしてしまうのかって。それくらい、大会の価値がいまとは違いましたよ」

当時は、NHKラジオも完全中継ではなかった。1区から2区は生中継だったが、3区以降は毎時0分のニュースのあとに5分ほどの速報があり、通過順位をレポートするだけだった。小学生だった私は、必死にノートに順位を書き留めながら、ラジオから伝わってくる箱根駅伝の風景に想像をめぐらせた。

ラジオからでも聴き取れる沿道のざわめき、早稲田・中村清監督の早稲田大学校歌。

いつか、東京で暮らせたらな。そう思っていた。

アンティークなラジオ
写真=iStock.com/bocco
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bocco

■ラジオだからこそ膨らむ「箱根駅伝」の情景

映像ではリアルすぎて、ここまで妄想は広がらなかったかもしれない。音だけだったからこそ、小学生の私は「箱根駅伝」への妄想を膨らませることが出来たのだ。

振り返ってみると、小学生の時からラジオを聴きつつ、区間ごとの通過順位をノートにつけていたのだから、いまの仕事の内容とやっていることは変わっていない。私は小学生の時からまったく同じことをしているだけだ。

1986年、私は受験生だったが、それでも箱根駅伝を聴いていた。この年は早稲田の3連覇がかかっていた年で、金哲彦さんが4年生だった。早稲田は往路優勝したが、往路で6分32秒差もつけていた順天堂大に10区で逆転された。日本テレビの中継が1年早く始まっていたとしたら、ものすごいレースが見られたはずだが、ラジオで順天堂が早稲田に追いつく様子は、とても聴いていられなかった。悔しい思いをしつつ、私は「赤本」に向かったような思い出がある。金さんとはのちに、2017年のロンドン世界陸上の時に、一緒にロンドン市街をジョギングさせてもらった。

ラジオから聞こえる箱根駅伝に思いを馳せたのは私だけではない。大八木監督もそのひとりだ。「私は福島でラジオを聴いてました。瀬古さんは福岡国際を走ってから箱根の2区を走ってたわけで、あれが普通のことだと思ってました。そしたら、自分が指導者の立場になってみたら、あんなことは瀬古さんしか出来ないことだと分かりましたよ。瀬古さんは、とんでもない人だった」

■日テレの中継とラジオ放送が箱根を成長させた

現在、ラジオでの中継はNHKラジオ第一、文化放送、ラジオ日本で行われているが、昔とは違って各局とも日本テレビの映像を見ながら実況している。アナウンサー、解説者で番組のトーンを演出し、各中継所のレポートで独自色を出していく。1週間は追っかけ再生もできるので、勝負どころの実況がどんなものだったのか、自分が知らない情報はなかったか、レース後のレポートを聴くこともある。映像素材を見ながら話す前の時代は、文化放送はジープでコースを先回りしながら、生実況とレポートをしていたという。

いまは、仕事でつながりが出来た文化放送の事前番組「箱根駅伝への道」をよく聴いている。インタビューがテレビとはまた違っているので、いろいろと参考になる。

日本テレビの中継がなければ、これだけの大会に成長しなかったわけだが、それでもずっと中継を続けてきたラジオ局があったからこそ、私はこの仕事をしていると断言できる。

ラジオは箱根駅伝の窓であり、想像を広げてくれる装置だった。

■最初は何度も生中継を却下された

私が早稲田大学に入学したのは1986年のことである。この年度は、箱根駅伝にとって大きな意味を持つことになる。

その年の暮れ、サークルの先輩の草間さん(千葉・市川高出身)と、同級生の松元(鹿児島高出身)が「年末年始は箱根でバイトだよ」と話しているのを聞いた。それが日本テレビの箱根駅伝のバイトだと知ったのは、後になってからのことである。

1987年、日本テレビは箱根駅伝の生中継を始めたことで、日本のスポーツ中継の歴史を変えることになる。それまで箱根駅伝をテレビで見られるのは、テレビ東京が1月3日に最終10区を中継するなど限られた機会しかなく、宮城県で生まれ育った私には高校時代まではラジオ中継を聴く以外に箱根駅伝に触れる手段はなかった。視聴者には想像すべくもないが、5区、6区の中継を実現するための技術的なハードルは想像を絶するものがあったという。生中継の生みの親である坂田信久プロデューサーは当時のことをこう振り返っている。

「最初は役員会で猛反対され、何度も却下されました。山中からの中継という技術面の問題に加え、『関東のローカル駅伝で全国の視聴率が取れるわけがない』『資金面はどうするんだ』など、色んな課題を突き付けられました」

視聴率は中継初年度に往路は18.7パーセント、復路が21.2パーセントと大台に乗った。役員会で「視聴率が取れるわけがない」と言っていた人は、なにを考えていたのだろうか? その後の視聴率は20パーセント台後半で推移していたが、2003年に駒大が優勝した時に復路で初めて30パーセントを超えた。

箱根駅伝の中継車
箱根駅伝の日本テレビ中継車(写真=Project kei/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons、2004年1月3日)

箱根駅伝のコンテンツとしての強さは21世紀に入ってからも続き、2021年に10区で駒大が創価大を大逆転した時は復路で33.7パーセントを記録し、これは過去最高視聴率となった(いずれもビデオリサーチ社関東地区視聴率)。

■箱根中継生みの親が後輩に言い残した3つの教訓

なぜ、中継としてこれだけの強さを発揮できるのだろうか? 坂田氏は自身が中継から退く時、後輩たちにこう言い残したという。

1 テレビ中継が箱根を変えてはいけない
2 チームと選手にエールを送る放送に
3 中継“している”ではなく“させて頂いている”という感謝の気持ちを持つ

この精神は、いまだに受け継がれているように思う。特に、競技に関してはテレビが箱根駅伝の競技そのものを変えたという痕跡はない。

そのかわり、日本テレビの中継は駅伝を取り巻く社会を変えた。いま、箱根駅伝は学生スポーツでナンバーワンの社会的影響力を誇っている。ちなみに学生スポーツの歴史では、大正時代から昭和50年代前半までは東京六大学野球が圧倒的な力を持ち、数々の名選手を生んできた。長嶋茂雄(立大)を筆頭に、星野仙一(明大)、田淵幸一(法大)、江川卓(法大)、岡田彰布(早大)……。

そして1980年代は大学ラグビーの絶頂期で、雑誌には大学ラグビーの特集が組まれた。松任谷由実が『NO SIDE』を作ったことからもそれはうかがえる。早稲田、慶應、明治、同志社といったラグビー強豪校のブランド価値にラグビーは少なからず影響を与えていた。

そしてそこに箱根駅伝が加わり、年々、影響力を増してきた。コンテンツとして大きな魅力を持っているということは、様々な波及効果を及ぼす。この大会の社会的影響力を、大学経営陣は見逃さなかった。

■大学も「陸上長距離」の強化を始めた

テレビ中継が始まって間もない時期、そして21世紀を前に、少子化の時代を迎える日本で、各大学は生き残り戦略を立てざるを得なくなった。大学の統合、そして女子大学新規募集停止などは、時代の流れの一部である。

新世紀を迎えるのをきっかけとして、長距離ブロックの強化に乗り出した学校もあった。

なかでも成功を収めたのは、青山学院だろう。青学大の経営陣は、強化指定部だった野球部、ラグビー部に対する投下予算を減らしてまで、陸上競技の長距離に特化する戦略を採った(現在も野球、ラグビーともに健闘を見せている)。

この集中投資は、言うまでもなく大成功を生んだ。

面白いもので、青山学院の選手たちは、青学の都会的な雰囲気を醸し出していた(東京都出身の選手はほとんどいないにもかかわらず)。原晋監督は言う。

「やはり、ブランドイメージは大切です。青山学院という学校が持つブランド力、発信力を選手たちも体現しないといけない。私は、青学にふさわしい選手に声をかけさせてもらっています」

青学大に限らず、強化に本腰を入れた学校がこれほどまでに増えたのも、日本テレビの中継があったからだ。競技、大会の本質を変えずして、社会を変えたのは大きな功績だと思う。

■唯一中継で名前が読まれるホテル「小涌園」

私は、大学に入って箱根駅伝の楽しみ方がラジオからテレビに変わって、ずいぶんと衝撃を受けた。憧れの大会が、10時間以上テレビで見られる時代が来るなんて――。

そしてスポーツジャーナリズムの世界に入り、日本テレビの中継で初代総合ディレクターを務めた田中晃さんと知己を得た。田中さんは在職中に巨人戦の中継では「劇空間 プロ野球」などのコンセプトを打ち出し、テレビとスポーツの関係性を追求された大先輩である。そしてまた、私に中継の裏話を教えてくれた。

生島淳『箱根駅伝に魅せられて』(KADOKAWA)
生島淳『箱根駅伝に魅せられて』(KADOKAWA)

「第1回の放送、全国の系列局からの応援を受けて配置した人員が約650人、うち300人が5、6区を担当ですよ。万全の準備が出来たと思っていたら……箱根のホテルを誰も予約してなかった。その時、ホテルのホールを提供してくださったのが、小涌園さんなんです」

中継のチェックポイントのなかで、ホテル名が呼ばれるのは「小涌園前」だけだ。それはこの時の恩があるからだという。

「食事は13食連続で冷たいお弁当。過酷な状況を乗り切れたのは、どの放送局もやっていないことにチャレンジする高揚感、使命感があったからだと思うね」

■「走ることで元気を出そう」という意志が歴史を紡いだ

そして田中さんは、箱根駅伝の価値をこう話してくれた。

「生島君もご存じだろうけど、現代のスポーツイベントはメディア・スポンサーが果たす役割が大きいわけです。でも、箱根駅伝は違う。長い歴史を紡いできたのは学生たちの意志と情熱。これなんです。太平洋戦争で中断しても復活できたのは、学生たちに『走ることで元気を出そう』という固い意志があったからですよ」

田中さんはいま、WOWOWの社長を務めている。WOWOWが十八番としているテニスだけでなく、パラスポーツのドキュメンタリー、そしてラグビー中継が増えたのも、田中さんがいるからだろうな……と私は勝手に想像している。

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生島 淳(いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト
1967年、宮城県生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。博報堂を経て、ノンフィクションライターになる。翻訳書に『ウサイン・ボルト自伝』(集英社インターナショナル)のほか、著書多数。

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(スポーツジャーナリスト 生島 淳)

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