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織田・豊臣・徳川の間で「将棋の駒」となった…母親は信長の妹「淀君、お初、お江」3姉妹の残酷な明暗

プレジデントオンライン / 2023年11月8日 10時15分

淀殿(茶々)(画像=奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

織田信長の妹であるお市の方の3人の娘(茶々、お初、お江)は、それぞれ波瀾万丈の人生を送った。英語学者・評論家の渡部昇一さんの著書『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)より、一部を修正して紹介する――。

■信長の姪として生まれた「茶々、お初、お江」

淀君の父親は浅井長政で、母親は織田信長の妹お市の方である。浅井長政が信長に攻められ近江小谷城が落ちる際、お市の方は茶々(後の淀殿)、お初、お江の3人の娘を連れて城を脱出、お市の方輿入れから帯同してきた藤掛三河守に守られ、信長の陣に避難した。

この3人の女子は信長の弟信包に養育され、清洲城で暮らした。そして、本能寺の変(1582年)が起き、その後の清洲会議において、「信長の跡継ぎをどうするか、領地をどう処分するか」などが論じられた。その時、三男信孝の案で、お市の方は柴田勝家と結婚することになり、3人の女姉妹は越前北ノ庄に向かった。

■母・お市の方は夫の勝家とともに自刃した

ところが、天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いで勝家は秀吉に敗れてしまう。お市の方は勝家に逃げろと命じられたが、「一緒に死にます」と自刃する。戦国の世、やはり仲の良い夫婦は一緒に命を終えたし、それが夫に殉じる女の道だったのであろう。

また、お市の方としても、そんなに何度も嫁に行かされるのは嫌だという気持ちもあったかもしれない。当時の女性はまるで将棋の駒のように扱われており、もううんざりだったとも考えられる。

残された3人の娘は秀吉が引き取った。

次女のお初は、近江の京極高次に嫁ぎ、化粧料として秀吉から二千五百石を与えられた。お初19歳、京極高次25歳。京極高次の母は浅井長政の妹だから、いとこ同士の結婚であった。

■次女・お初は大坂冬の陣を終わらせた立役者

京極家は足利時代の名家で、室町時代には近江の北半分の守護職、侍所の所司も任されていたとはいえ、次第に勢力は衰えてきていた。信長時代には五千石が、秀吉時代のお初の輿入れの頃には一万石が、さらに大津六万石が与えられた。

関ケ原の戦いの際、お初は夫高次に対して、「東軍につきなさい」と忠告をするなど、非常に目先の利く女性であった。高次は大津城を守ろうとしたが、守り切れずに高野山に逃げた。

しかし、一応西軍の足止めをしたことによる論功行賞で、家康から四十万石を提供されたが、高次はそれを辞退、若狭小浜に八万五千石を与えられた。夫の死後、お初は剃髪(ていはつ)して常高院となった。

常高院
常高院(画像=常高寺所蔵、福井県立若狭歴史民俗博物館寄託/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons)

慶長19年(1614)大坂冬の陣の際、家康の命令によりお初は家康の側室阿茶局と一緒に大坂城に入り、実姉の淀君と秀頼を説得して、大坂冬の陣を終わらせるという大手柄を立てている。

■お江の3度目の結婚相手は徳川秀忠

次は三女のお江である。お江のことを小督(おごう)の方と呼ぶ人もいる。お江は14歳の時に尾張大野城の佐治一成・五万石と結婚する。夫佐治一成の母親は信長の妹で、やはりこれもいとこ同士の結婚であった。従って、茶々、お初、お江の3姉妹の中で、お江がもっとも早く嫁いだことになる。

お江
お江(画像=『戦国大名浅井氏と北近江』長浜市立長浜城歴史博物館・編/養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

秀吉は一成配下にある歴戦の佐治水軍が欲しくてお江を輿入れさせたといわれているが、ある時から一成の豊臣家への出入りをストップさせ、2人を強引に離婚させる。次にお江は、秀吉の姉ともの子供の羽柴秀勝と結婚するが、秀勝は朝鮮に出兵して病死してしまう。

そして、3度目の結婚相手が家康の後継者の徳川秀忠であった。これもやはり秀吉の差し金だった。秀忠17歳、お江23歳で、お江のほうが年上だった。慶長10年(1605)、秀忠が二代将軍になった時、秀忠は27歳、お江は33歳ということになる。

この夫婦は仲がよくて、家光、忠長の2人の男子と5人の女子、計7人も子供をつくった。7歳の時に11歳の豊臣秀頼と結婚させられた長女の千姫は、大坂城が滅びた時には助かっている。

男子については、家光は春日局が、忠長はお江自身が育てた。ところが、春日局の直訴により、家康が家光を嗣子(しし)と定め、三代将軍問題は落着する。お江の末娘和子は後水尾天皇の中宮、後に東福門院となった。

■30歳年上の秀吉と結婚、なぜか戦陣で妊娠

このように浅井長政の3人の娘のうち、まず三女から結婚させ、次に次女を結婚させたのは、秀吉が茶々を側室にするための長期戦略であった。こうなると、嫌がっていた茶々にしても、これはやはり時の権力者である秀吉になびかざるを得ない。

茶々が側室になったのが、秀吉52歳、茶々22歳の時のことである。懐妊した時に子供を産む場所として建てられたのが淀城ということで、その後は淀殿と呼ばれる。お産用に城をプレゼントされた女性は日本史の中で、彼女が初めてだろうといわれている。

そして、23歳の時に長男鶴松を産む。この頃淀殿は小田原の陣にも随行していた。子供を産んだ淀殿が大坂城へ移ると、正室の高台院は大坂城から去っていった。

ただし、この鶴松は3歳で病死してしまう。次の懐妊は文禄の役の時であった。この時も淀殿は肥前名護屋まで秀吉に随行していた。なぜか彼女は戦陣で妊娠するのである。

大坂城で秀頼を産んだ淀殿は、伏見城の広丸という西の丸に住み、秀吉からはおふくろ様と呼ばれた。秀吉の死後は大坂城に入る。

■淀殿は難攻不落の大坂城を落城させた張本人

そして、淀殿は49歳であのような死に方をする。秀頼は23歳であった。しかし、歴史上これほどまでに見事に消滅した立派な家系はなかなか見当たらない。だいたいはどんな名門が滅びても、誰か助かるのが歴史の常なのだが、豊臣家は助からなかった。ただ、家康が別格として扱った高台院の実家の木下利次のみが残った。

淀殿はきわめて傲慢だったという説がある。

しかし別説によれば、「方広寺鐘銘事件」で呪いをかけたなと家康側から言い掛かりをつけられた時、豊臣家を弁護する片桐勝元が淀君を関東に人質に出そうとしたことがあるぐらいだから、それほど傲慢(ごうまん)だったわけでもないという説もあるが、実際のところは不明である。

ただ講談種になったような資料などからすると、淀殿は真田幸村などの忠告を聞かずに大坂城を落城させた張本人であったようだ。なぜならば、大坂城は本当に難攻不落だったからで、冬の陣の時はむしろ攻めあぐんで、徳川側はお手上げ状態だったのである。それで概説したように、淀君の妹のお初(常高院)や家康側室の阿茶局などを大坂城内へと送り込み、和議に持ち込んだのだ。

■母と同様、滅びる城を見ながら死んでいった

そのうえ、大坂城を攻めている軍勢の大部分は豊臣恩顧の大名連中であった。2年間も城を囲んだとすれば、みんなバラバラで統制がとれなくなり、徳川家の大失敗となったであろう。大坂城は10年ぐらいは戦える武器、食糧を備えていた。つまり抜群のロジスティクス能力を備えていたわけで、たった2カ月も戦わないうちに和議などに応じてはならなかったのである。

だからあの時に、淀殿は「和議に応じてはなりませぬ」という真田幸村を筆頭とする武将の言うことを聞いておけばよかったのだ。結局、淀殿は自分の母親同様、城の滅びるのを見て死んだわけである。

『真田幸村』を読む者からすると、彼女に同情することはなかなか難しい。

■「豊臣家を滅ぼすために生まれてきた女性」

ただ、家康は器量の大きい人だから、そう無闇に豊臣家をつぶそうとしたわけではなかったようである。秀吉にしても、信長の子供を大名に登用したり、自分のお伽役にもしている。

渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)
渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)

実際、淀殿と秀頼についても、大坂城にいて浪人を集められては困るが、「和泉の国あたりで六十万石の大名でどうか」という打診が家康側からなされていたのである。仮にそれに満足していれば、豊臣家は保たれたことになる。それを蹴ったのは淀殿に違いないわけだから、やはり、豊臣家を滅ぼすために生まれてきたのが彼女という結論に落ち着く。

大坂の戦いの異常なのは、和戦の交渉の中心が女性たちだったことである。家康は阿茶局や常高院を使い、大坂方は大蔵卿局(淀君の乳母、大野治長の母)、正栄尼(渡辺内蔵助の母)、二位局(渡辺筑後守の母)などを交渉役にし、主役は淀君である。徳川家には女性を使う家康がいたが、大坂方には女性を使う女性(淀君)がいただけであった。

ある心理学者が「淀殿には小谷城を落とした秀吉に対しての深い恨みが潜在意識的にあって、豊臣家をつぶしたのだろう」との説を述べているが、むろんそれは考え過ぎであろう。

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渡部 昇一(わたなべ・しょういち)
英語学者・評論家
1930年10月15日、山形県生まれ。上智大学大学院修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。Dr.phil.(1958)、Dr.Phil.h.c(1994)。上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。その間、フルブライト教授としてアメリカの4州6大学で講義。専門の英語学のみならず幅広い評論活動を展開する。1976年第24回エッセイストクラブ賞受賞。1985年第1回正論大賞受賞。英語学・言語学に関する専門書のほかに『知的生活の方法』(講談社現代新書)、『古事記と日本人』(祥伝社)、『「日本の歴史」』(全8巻、ワック)、『知的余生の方法』(新潮新書)、『決定版 日本人論』『人生の手引き書』『魂は、あるか?』『終生 知的生活の方法』(いずれも扶桑社新書)、『「時代」を見抜く力』(育鵬社)などがある。2017年4月17日逝去。享年86。

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(英語学者・評論家 渡部 昇一)

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