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入れ子人形「マトリョーシカ」のルーツは「日本の七福神」なのか…慶大教授が徹底調査したロシア土産の謎

プレジデントオンライン / 2023年11月3日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/demidoffaleks

ロシア土産として有名な「マトリョーシカ」は、誰がいつ発案したのか分かっていない。その起源をめぐっては、「日本の入れ子七福神」がルーツだという説もあるという。慶應義塾大学の熊野谷葉子教授(ロシア民俗学)の著書『マトリョーシカのルーツを探して』(岩波書店)より、一部を紹介する――。

■100年ちょっと前に生まれた民衆風木工品

ロシアのお土産として誰もが知っているマトリョーシカ。ずんぐりしたフォルムの女性の人形で、両手で持ってひねるとキュキュッという音を立てて上下に分かれる。中からは一回り小さい人形が顔を出し、それを開けるともう一つ、またもう一つ……と次々に出てくるのがユーモラスで、何だか笑いを誘う。

描かれている女性がロシアの民族衣装である「サラファン」(肩ひも付きロングスカート)と「プラトーク」(スカーフ)を身に着けていることもあって、マトリョーシカは昔からある民衆工芸品だろうと思われがちだが、実はその存在は19世紀末までしか遡れない。

しかも農民が自分の子どものために手作りした素朴な民衆玩具などではなく、最初から都会の店で販売することを目的として考案され、腕利きの木工職人が高速回転する木工ろくろで木屑を散らしながら削り出していた、いわば民衆風木工品である。

■木を削り、女性の姿を描いたのは誰なのか

ということは確かなのだが、実はマトリョーシカ誕生の詳しい経緯は謎につつまれている。誰がいつ考案し、誰が最初に木を削ってあのフォルムを作り出し、誰が女性の姿(かたち)を描いたのか。たった120年ほど前のことだというのに、そしてこんなに有名な工芸品だというのに、実はそんなことも分からないとは驚きだ。

そこで私は、ロシアへ行くたびに少しずつ、マトリョーシカ誕生に関して言われているさまざまな事柄を探ってみた。また日本では、後述する「マトリョーシカ日本起源説」の証拠を求めて各地を訪れたり、専門家や蒐集家に話を聞いたりもした。

その結果――マトリョーシカ誕生をめぐる謎は未だ完全に解けてはいないのだが――木工芸を軸とする日本とロシアの歴史、挽物(ひきもの)(*)に関する日露の共通点や差異について、いろいろ面白いことが明らかになった。本書はそれを紹介していく、いわばマトリョーシカの謎探訪記である。

*挽物とは、木工ろくろを使い、回し削って作られる木工品のこと。椀や鉢なども挽物である。

■「マトリョーシカ日本起源説」の起源は?

マトリョーシカ日本起源説はいつからささやかれていたのだろう。日本語では、1964年刊行の長谷川七郎『形と文様ロシアの民芸』に次のような文章が見られる。

19世紀の末、モスクワ郊外のアブラムツェヴォに領地をもつ美術工芸の保護者として著名なマモントワ夫人が日本の“入れ子”人形といわれる、つぎつぎにあけると第二、第三といったふうにより小さな人形がはいっているものを海外から持ち帰った。

マモントワはこの“入れ子”人形にロシア的性格をもたらして普及させるために古くからの人形玩具の中心地のザゴルスクのろくろ師ズベズドーチキンに形を、また画家のマリューチンに上絵を依頼した。

マトリョーシカ人形はロシア人の素朴さ、誠実さ、信じやすさ、善意を表現したものとして急速に普及し、1900年からは国外にも輸出されるようになった。[長谷川1964:107]

■もともとはソ連で言われ始めた?

この文を書いた長谷川氏には、この本に先立って『現代産業美術』(東和書房、1941年)、『ソビエト繊維デザイン』(相模書房、1962年)といった著書がある。また彼は1957年、60年、64年にロシアへ視察に行っており、そこで入手したと思われるロシア語文献約70点を巻末に挙げており、このマトリョーシカ日本起源説も、そのいずれかの情報ソースを信頼し、確信をもって書いたものだろう。

1964年以前にソ連でマトリョーシカ日本起源説を唱えたのは誰か。セルギエフ・ポサードの住人で「真説マトリョーシカ」というサイトを運営するイーゴリ・ブリュム氏は、ソ連の作家ユーリー・アルバートが1961年の本『六つの金の巣』に書いた「おとぎばなし」がその後の日本起源説の元だと主張する。

ブリュム氏が自分のサイトに切り貼りしたアルバートの文章を見ると、確かに、アブラムツェヴォのマモントワ夫人が日本から入れ子人形を持ち帰り、それをもとにマトリョーシカを作らせたというくだりがある。

しかしこの本は長谷川氏の参考文献一覧には入っておらず、長谷川氏が一覧に入れたユーリー・アルバートの書籍『民衆工芸』(1963年)には、マトリョーシカは日本の「こけし」を見て作られた、とあるにすぎない。(http://artyx.ru/books/item/f00/s00/z0000054/st001.shtml 2023年閲覧)

立ち並ぶマトリョーシカ
写真=iStock.com/ManuelVelasco
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ManuelVelasco

■「温厚な禿げ頭の老人の人形」がモスクワへ?

マトリョーシカ日本起源説がもともとソ連で言われ始めたものであることは、民俗学者・大木伸一氏による1973年のエッセイ「マトリョーシカとこけし」でも明らかだ。

大木氏はこのエッセイの冒頭で長谷川氏とほぼ同じ日本起源説を紹介したのち、自分がその話を当のセルギエフ・ポサード(当時は「ザゴルスク」)で博物館員にした、と書いている。すると博物館のガイドは「ソビエト芸術の威信に触れでもしたかのように」否定したため、大木氏は食い下がって「でもソ連の民族学者が言っているのですから……」と言っているのだ[大木1973:76]。

大木氏は出典を示していないが、1969年にはロシアで小さな本『マトリョーシカ』が出ており、著者モジャーエヴァ氏はその冒頭で「フクルマ」の名前も出している。

1890年代に、A・マーモントフのモスクワの玩具工房「子どもの教育」に日本から温厚な禿げ頭の老人の人形が持ちこまれた。その人形は賢人フクルマを表しており、常に思考していた彼の頭は上に長く伸びている。フクルマは開くようになっており、その中にはさらにいくつかの人形が入れ子になっていた。これらの人形は気に入られ、我々のマトリョーシカの原形となった。
[Можаева 1969]
七福神の入れ子人形。道上コレクションより,七福神No.230(道上克氏蔵)
七福神の入れ子人形。道上コレクションより、七福神No.230(道上克氏蔵)

■おもちゃ博物館によると「推測レベル」

著者のモジャーエヴァ氏がおもちゃ博物館(*)の職員とされたことから、この記述はおもちゃ博物館の公式見解として伝わり、その後ソ連の新聞や雑誌、一般向けの書籍などで繰り返されることとなった。

*ロシア革命以前に創設され、ソ連時代を通じてずっと世界の玩具を収蔵・展示してきた博物館。同館には、現存する最古のマトリョーシカと言われる、通称《雄鶏を抱いた娘》も収蔵されている。

しかし当のおもちゃ博物館の現在の館員に確かめると「推測のレベルの話」だと言い、根拠はないという(2009年9月におもちゃ博物館館員ナターリヤ・ポリャコヴァ氏が筆者のインタビューに答えて語ったもの)。しかし日本ではロシア語の分かる大木氏のような著者を通して日本起源説が広まり、次第に学術的な記事にも見られるようになる。

■入れ子七福神は蔵王産?それとも箱根産?

1979年発行の加藤九祚氏の編纂によるロシア美術案内『エルミタージュ博物館』には、研究者でありジャーナリストでもある小川政邦氏が「女の子になった福禄寿」を書いている。そこでは長谷川、大木両氏とほぼ同じ記述に加えて、入れ子七福神が東北の蔵王の産かもしれないという可能性を示唆している。

蔵王山東麓では「五つだるま」や「三つだるま」、また「七福神」「三福神」の入れ子細工が作られていたのである[小川1979:85―86]。七福神をはじめとする日本の木地(きじ)玩具については、本書第II部「日本篇――入れ子七福神を探して」で詳しく検討することにしよう。

さて、その後、自由な調査はおろか渡航も簡単ではなかったソ連時代に、おもちゃ博物館の七福神の入れ子人形を写真で確認し、それを箱根のものであると断定したのは小田原在住の作家・大南勝彦氏だった。

大南氏は1984年にソ連大使館広報部を通じておもちゃ博物館の七福神とマトリョーシカ第一号の写真を入手し、自身が子どもの頃に親しみ、戦時中に焼失した箱根七福神と同じものであると確信した。さらにその写真を持って箱根細工の関係者をまわり、おもちゃ博物館の七福神が箱根の湯本茶屋で作られたものであるとする論文を書いた[大南1984]。

■日本とロシアのテレビ番組が広報役に

この論文は当時のソ連の広報誌『今日のソ連邦』に掲載されたもので、これに興味を持ったモスクワ放送が1990年に箱根で取材した様子をさらにNHKが取材して「ニュース21」で放送した。こうしてメディアが広く報道したことで、おもちゃ博物館収蔵の七福神が箱根の産であり、さらにマトリョーシカ誕生のアイデア源となったのではないかという説は、日本でもロシアでも広く知られるところとなった。

この後、日本ではより多様なマトリョーシカ日本起源説が飛び交うことになるが、それらの多くは前述のいずれかの引用である。独自の見解を示しているものもあるが、執筆者を特定できない非公刊物での発言であったり、土産物に添えられたカードであったり、インターネット上の無署名の投稿であったりするため、ここでは詳述しない。

ただ、これらも含めて1990年代までの日本におけるマトリョーシカ誕生に関する典型的な言説をまとめておけば、次のようになるだろう。

■マトリョーシカと七福神人形について言われていること

①明治期、日本に来たロシア人が、入れ子の箱根七福神人形を気に入って持ち帰った。
②アブラムツェヴォのマモントワ夫人が、それをもとにした人形を作ることを発案した。
③ろくろ師ズヴョーズドチキンが型を挽き、画家マリューチンが絵付けをしてマトリョーシカが誕生した。
④その後マトリョーシカは1900年のパリ万博に出品され、メダルを獲得して有名になった。

このうち、④についてはここまで紹介しそびれたが、例えば1997年にモスクワで出たアルバム『マトリョーシカ』には「1900年、マトリョーシカは、パリ万国博覧会に展示されてメダルと世界的な名声を獲得しました」[サラヴョーヴァ2010:22]とあり、同様の記述が日本でもロシアでも随所に見られる。

だがそれならメダルや賞状の写真が残っていそうなものなのに、これが見当たらない。この問題については本書の第六章で検討する。

■日本とロシアの橋渡し役は見つかっていない

4つの言説のうち日本人が想像をたくましくしたのは①だった。②③④については外国のことなので検証すべくもないが、七福神人形を入手しロシアへ運んだのは誰か、についてなら考える余地があったからである。

熊野谷葉子『マトリョーシカのルーツを探して』(岩波書店)
熊野谷葉子『マトリョーシカのルーツを探して』(岩波書店)

事実、七福神の故郷と目される箱根は横浜に近く外国人に人気の保養地であったし、日本ハリストス正教会の避暑館もあった。それをもとに、「誰が七福神を日本からロシアに運んだか」についてさまざまな推測がなされた。

いわく、マモントワ夫人本人が日本へ来たのだろう、神田にニコライ堂を建てたニコライ神父か正教会の関係者だろう、松山の収容所に収監されたのち帰国した日露戦争のロシア人捕虜ではないか、プチャーチン提督の娘オリガが来日した際に持ち帰ったのかも……。

しかし、残念ながらこれらの人々が日本で七福神人形を買った、あるいはロシアに持ち込んだ、という記録は見つかっていない。「誰か」が日本とロシアの橋渡しをしたに違いないのだが……という期待感だけが今も持たれている状況である。

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熊野谷 葉子(くまのや・ようこ)
慶應義塾大学法学部 教授
千葉県出身。1991年早稲田大学第一文学部卒業後、東京大学文学部ロシア語ロシア文学科学士入学、1992年ロシア連邦プーシキン大学政府交換留学。1995年よりロシア連邦アルハンゲリスク州ほかで民俗学フィールドワークを行い、1999年東京大学大学院人文科学系研究科欧米系言語文化研究専攻博士課程単位取得退学、2002年同専攻博士号(文学)取得。専門はロシア民俗学、口承文芸学。2009年度NHKラジオ「まいにちロシア語」講師。単著に『チャストゥーシカ ロシアの暮らしを映す小さな歌』(東洋書店)、『マトリョーシカのルーツを探して 「日本起源説」の謎を追う』(岩波書店)がある。

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(慶應義塾大学法学部 教授 熊野谷 葉子)

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