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だから「枕草子」より「源氏物語」のほうが世界中で人気になった…清少納言にはなく紫式部にある意外な能力

プレジデントオンライン / 2023年11月4日 9時15分

出典=『嫉妬と階級の『源氏物語』』

来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部はどんな人物だったのか。古典エッセイストの大塚ひかりさんは「人の気持ちを読み取る共感能力が高い女性だった。上流貴族の出身でありながら、家庭教師という身分に落ちぶれた自身の経験が、影響しているのではないか」という――。(第1回)

※本稿は、大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

■清少納言より権力に近かった紫式部

先の系図を見てほしい。道長や妻の源倫子、紫式部や夫の藤原宣孝の血筋の「近さ」が改めて痛感される。

こうした「近い」血縁内で、主従関係が出来上がっているのが当時の貴族社会の常とはいえ、紫式部は清少納言以上に権力に「近かった」ということをまずは頭に入れておきたい。

その前提を得ると、宮仕えに対する清少納言とのスタンスの違いも理解しやすい。清少納言は、

「宮仕えする女を浅はかで悪いことのように言ったり思ったりする男なんかはほんとに憎らしい」(“宮仕へする人を、あはあはしうわるき事に言ひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ”)(『枕草子』「生ひさきなく、まめやかに」段)

と主張したものだ。

一方、紫式部は、

「しみじみと交流していた人も、宮仕えに出た私をどんなに厚顔で心の浅い人間と軽蔑するだろうと想像すると、そう考えることすら恥ずかしくて連絡もできない」(“あはれなりし人の語らひしあたりも、われをいかにおもなく心浅きものと思ひおとすらむと、おしはかるに、それさへいと恥づかしくて、えおとづれやらず”)(『紫式部日記』)

と、宮仕えに対して複雑な思いをにじませている。

貴婦人が親兄弟や夫以外の男に顔を見せなかった当時、男に顔を見られるということは、体をゆるすことを意味していた。それもあって、仕事柄、多くの人に顔を見られる宮仕えは、良家の子女がすべきではないという考え方があったのだ。

■上から目線で人間を観察する

実際、女房は公達の気軽な性の相手となりがちだ。これに関しても清少納言と紫式部はとらえ方が違っていて、公達が女房の局(つぼね)を訪ねる沓(くつ)音が内裏では一晩中、聞こえることに、清少納言が“をかし”と風情を感じているのに対し、紫式部は“心のうちのすさまじきかな”(心の中が荒涼とするよ)と嘆いている。

が、歴史物語の『栄花物語』を見ると、当時は大臣クラスの娘でも宮仕えに出ていた時代である(巻第八、巻第十一など)。紫式部の気持ちは態度にも表れていたのだろう。彼女はともすると、「あんた何様?」と見られていた。『紫式部集』には、

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上なのに、ずいぶん上流ぶっているわねと、女房が言っていたのを聞いて」(“かばかりも思ひ屈(くん)じぬべき身を、「いといたうも上衆(じやうず)めくかな」と人の言ひけるを聞きて”)詠んだという詞書(ことばがき)のついた歌が載っている。

「こんなにも落ち込んでもよさそうな身の上」(“かばかりも思ひ屈じぬべき身”)の解釈については、「紫式部自身が、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」「他人が紫式部を、ふさぎ込んで当然の身の上と思っている」の二説あるが、いずれにしても、紫式部は「何様?」と人に思われていた。「上流ぶっている」「お高くとまっている」と。

■どんなに高貴な人にも苦悩はある

清少納言と紫式部は、女主人に対する見方も対照的だ。

清少納言ははじめて定子のもとに出仕した時、緊張に打ち震えながらも定子の美しい手が袖の先からのぞくのを見て、

「このような方もこの世にはいらしたのだ」(“かかる人こそは、世におはしましけれ”)と、目が覚めるような気持ちで見つめずにはいられなかった(『枕草子』「宮にはじめてまゐりたるころ」段)。
菊池容斎「清少納言」
菊池容斎「清少納言」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

一方の紫式部は、皇子を生んで国母(こくも)と崇められる彰子の姿を、

「このように“国の親”(国母)ともてはやされるような端麗なご様子にも見えず、少し苦しげに面せて、おやすみになっているお姿は、ふだんよりも弱々しく、若く可愛らしげである」(“かく国の親ともてさわがれたまひ、うるはしき御けしきにも見えさせたまはず、すこしうちなやみ、おもやせて、おほとのごもれる御有様、つねよりもあえかに、若くうつくしげなり”)(『紫式部日記』)

と描写している。

清少納言にとって女主人は絶対的な存在であるのに対し、紫式部にとっては同じ人間としての苦しみを持つ存在だった。

これはあとで見るように、紫式部の類いまれな共感能力のなせるわざで、それが作家としての才能にもつながったわけだが、この姿勢が、どんなに高貴な人にも苦悩はあるという『源氏物語』の設定を生んだのである。いずれにしても、厳しい身分社会だった当時、女主人に、ややもすると上から目線で人間としての苦しみを見たのは、紫式部に相応のプライドがあったからに他なるまい。

■源氏物語に大きな影響を与えた親王

こうした前提で以て、再び紫式部の出自に目を向けると、彼女の父方祖母の姉妹の孫には具平(ともひら)親王がいる。

具平親王は当時、最も尊敬されていた文壇の中心人物だ。道長は、この親王の娘に長男・頼通を縁づけているのだが、その時、紫式部を、

「親王家に縁故のある人」(“そなたの心よせある人”)

と見なして相談していた。

紫式部の父・為時はかつて具平親王の家司(けいし)であったらしく、紫式部もこの宮に仕えたことがあったらしい(新編日本古典文学全集『紫式部日記』校注)。紫式部はそれにつけても、

「心の中ではさまざまな思いに暮れることが多かった」(“心のうちは、思ひゐたることおほかり”)

と書き、彰子の皇子出産とその後の華やかな祝いの有様を綴っていた『紫式部日記』は、この記事を境に暗いトーンに転ずる。

実は、紫式部の父方いとこの伊祐(これすけ)の子の頼成(よりしげ)は、具平親王の落胤(らくいん)である。そう同時代の藤原行成の日記『権記(ごんき)』(寛弘八年正月条)に書かれている。

ちなみに具平親王は、『古今著聞集』によると、“大顔”と呼ばれる雑仕女(ぞうしめめ)(下級女官)を“最愛”して子をもうけ、大顔は月の明るい夜、親王に伴われて行った寺で“物”(物の怪)にとられて変死しており(巻第十三)、『源氏物語』の夕顔のモデルとされている。

■紫式部と親密な間柄だった権力者

大顔のような下級女官がお手つきとなって継続的に愛されるのは珍しいだろうが、女房クラスの女が愛されることはありがちで、紫式部も道長の“召人(めしうど)”といわれる。

召人とは、主人と男女の関係になった女房のことで、妻はもちろん、恋人とすら見なされていなかったものの、普通の女房よりは上の立場である。

紫式部は夫と死別後、まだ幼い子を抱え、道長の娘・彰子の家庭教師として仕えるが、南北朝時代にできた系図集『尊卑分脈』には“御堂関白道長妾云々”とあり、道長の召人でもあったことはほぼ通説となっている。

しかも紫式部と道長の6代前の先祖は同じ左大臣藤原冬嗣であり、道長の正妻の源倫子の母・藤原穆子は、紫式部の父・為時の母方いとこに当たる。

作者不明『紫式部日記絵巻』の藤原道長
作者不明『紫式部日記絵巻』の藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■元上流貴族ゆえのプライドの高さ

紫式部のプロフィールをまとめると、

1紫式部の祖父や父、夫は受領階級(中流貴族)に属すが、自身も夫も先祖は上流に属し、血縁には高貴な人々が少なからずいた。
2曾祖父は娘を天皇に入内させ、一族からは皇子も生まれていた。
3紫式部は文壇の中心人物と昵懇で、最高権力者である藤原道長のお手つきだった。
4夫と死別した紫式部は先祖を一にする藤原道長やその娘に仕えていた。

ここから見えてくる紫式部像は、

「先祖は上流だったのに、祖父の代には落ちぶれて、自身も夫を亡くし、家庭教師という特別待遇ながらも、人に仕える立場に成り下がっていた」

である。そんな紫式部に“上衆めく”振る舞いがあったとしても不思議はあるまい。

土佐光起「紫式部図(部分)」
土佐光起「紫式部図(部分)」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■水鳥にさえ自分を重ねる高い共感性

紫式部は“上衆めく”一面のある一方で、苦悩を抱える最底辺の人々に、自分を重ねてもいる。

これまた、「似つかわしくないもの。下衆の家に雪が降っているの。また、月が射し込んでいるのも残念だ」(“にげなきもの下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし”)(『枕草子』「にげなきもの」段)

と、下衆に対して冷たい視線を送って見せていた清少納言とは対照的だ。

紫式部は、

「めでたいこと面白いことを見たり聞いたりするにつけても」「憂鬱で心外で、嘆かわしいことが増えていくのがとても苦しい」と『紫式部日記』に記し、優雅に泳ぐ水鳥もその身になってみれば苦しいのだろう、自分も同じだ……と嘆く。彰子の実家に一条天皇が行幸するという、女主人にとっての栄誉の日にさえ、天皇の御輿を担ぐ駕輿丁(かよちょう)が“いと苦しげに”突っ伏している姿に、「私だってあの駕輿丁とどこが違うというのか」(“なにのことごとなる”)

と言い切る。

「高貴な人との交流も、自分の身分に限度があるのだから、まったく心が安らぐことはないのだよ」(“高きまじらひも、身のほどかぎりあるに、いとやすげなしかし”)

と。

紫式部が、高貴な女主人に同じ人間としての苦しみを見るだけでなく、賤しい駕輿丁にすら自分を重ねるのは、先にも触れたように、希有な共感能力ゆえだろう。

見てきたように、彼女は、人ならぬ水鳥にさえ我が身を重ねていた。この「なりきり能力」があらゆる立場・身分の人物をもリアルに描く『源氏物語』を生んだわけだが……。こうした感想が出てくるのは、それだけ自分が対等でない、人間扱いされていないという実感があったからだろう。プライドが高いからこそ、それに見合わぬ低い現状とのギャップが苦しいのである。

■自身にあったいくつものif

このような土壌の上に生まれたのが『源氏物語』である。一部は宮仕え前から書いていたとされ、その評判から道長にスカウトされたと言われているが、いずれにしても、時代設定とされる醍醐天皇の御代は、紫式部の先祖が最も輝いていた時節に重なる。

曾祖父・兼輔の娘・桑子が生んだ章明親王がもしも政治的に成功していたら……

もしも彼が出世していたら……

彼の娘が天皇家に入内して生まれた皇子が東宮にでもなったら……

大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)
大塚ひかり『嫉妬と階級の『源氏物語』』(新潮選書)

あるいはもし、紫式部自身が道長の娘を生んで、その娘が高貴な正妻に引き取られ、天皇家に入内したら……

といった仮定をベースに、過去の人物だけでなく、皇后定子や敦康親王等々、紫式部と同時代に生きていた人々をもモデルにしながら、いくつものifを心に浮かべ、紡いでいったのが『源氏物語』ではないか。

作者と作品を結びつけて考えることについては異論もあろう。『源氏物語』の登場人物や設定に典拠を求める中世以来の研究には批判もある。しかし『源氏物語』については、作者と作品を結びつけて初めて見えてくるものがあると私は感じる。

『源氏物語』は、紫式部の先祖にまつわる「ifの物語」と見ることもできる、と。

■なぜ光源氏の母は最低ランクの階級だったのか

その第一歩として彼女は、主人公である源氏の母を、先祖筋の桑子と同じく「更衣」という天皇妃の最低ランクの階級に設定した。

さして重い家柄ではないにもかかわらず、ミカドの寵愛を一身に受ける女。

それゆえ人々の嫉妬を一身に浴びる女。

女はこれからどうなるのか。

世代を重ね、移り変わるにつれ、女の子孫はどうなっていくのか。

長い大河ドラマの始まりである。

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大塚 ひかり(おおつか・ひかり)
古典エッセイスト
1961年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。古典を題材としたエッセイを多く執筆。著書に『ブス論』『本当はエロかった昔の日本』『女系図で見る驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』など多数。また『源氏物語』の個人全訳も手がける(全6巻)。趣味は年表作りと系図作り。

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(古典エッセイスト 大塚 ひかり)

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