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信長でも秀吉でも信玄でもない…「徳川家康にもっとも影響を与えた戦国大名」の数奇な生涯【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2023年11月4日 12時15分

今川氏真肖像画(図版=静岡県編『静岡県史』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

2023年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年5月4日)
徳川家康にとって、少年期から青年期を過ごした今川家はどんな存在だったのか。歴史学者の黒田基樹さんは「戦国大名としての手本となり、大きな影響を受けた。特に、4歳年上の今川氏真は、一度は敵対したものの、生涯にわたり交流を続けた特別な存在だった」という――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■家康の人生に大きな影響を与えた今川氏真

よく世間一般では、家康に最も影響を与えた人物は誰か、という問いかけがなされる。その際、織田信長、羽柴秀吉、あるいは武田信玄の名があげられることが多い。近時のテレビ番組や歴史雑誌でもそうした論調が強いであろう。

しかし本書を書き終えてみると、それは今川氏真であった、といっても過言ではないように思える。そもそもそのような問いは、歴史学的には適切ではないが、それを措(お)いたとしても、家康が大規模戦国大名に成長し、その存立を遂げていくうえで、氏真からうけた影響は大きく、あるいは氏真から継承したものは極めて多かったと認識される。家康という存在の基礎、もしくは根幹には、今川家という存在があったことは間違いないといえよう。

そもそも家康は、岡崎松平家の当主として、戦国大名・国衆(くにしゅう)という領域国家の主宰者として必要な、武将として、また政治家としての教養を修得したのは、今川家のもとでのことであった。天文18年(1549)、もしくは同19年に、8歳か9歳の時から、今川家の本拠であった駿府に居住した。それらの教養は、そこで修得したのであった。それはいわば、今川家によって育成されたことを意味しよう。

■今川家は「戦国大名家のトップランナー」

そして今川家の嫡男として存在したのが、今川氏真であった。家康よりも4歳年長であった。家康は、今川家御一家衆・関口氏純の婿になって、今川家の親類衆として存在した。したがって氏真は、その宗家にあたる存在であったといいうる。

弘治3年(1557)に氏真が今川家当主になると、家康はそれに従う関係にあった。そして宗家とその親類衆ということから、親密な関係を形成したことであろう。

当時の今川家は、駿河・遠江・三河3カ国を領国とした、海道筋随一の大規模戦国大名であった。しかも室町幕府を主宰する足利将軍家の御一家として、高い政治的地位とそれに相応する文化・教養をもとに、近隣の甲斐武田家・相模北条家よりも優越する地位にあった。

周辺の戦国大名家をリードする、いわば戦国大名家のトップランナーともいうべき存在であった。家康はそのもとにあって、少年期から青年期を過ごしたのであり、今川家からうけた影響は、計り知れないものがあったことは間違いない。家康にとって、今川家こそが、戦国大名家としての手本に他ならなかったであろう。

■9年の軍事抗争を経て、2人は和睦

永禄3年(1560)の尾張桶狭間合戦で、今川義元が戦死したことで、三河・尾張情勢は急変し、それに応じて家康は、尾張織田信長と同盟したうえで、今川家に敵対する。そこから家康は、足かけ9年におよんで氏真と軍事抗争を展開した。

よろい姿で馬に乗る人のシルエット
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

しかし家康が果たしえたのは三河一国の統一であり、遠江経略をすすめることはできなかった。同11年に、氏真と武田信玄の関係悪化により、家康は織田信長を通じて信玄と同盟を結び、氏真に対して協同の軍事行動を展開し、遠江経略をすすめた。

氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城した。家康はそれを攻撃するが、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結び、その際に氏真・氏政と入魂(じっこん)にするという誓約まで結んだ。家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う。

これにより家康は遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河2カ国の戦国大名になった。本書では、家康による領国統治の具体像については、全く触れることができていないが、家康の遠江・三河統治のあり方は、支城制の採用といい、在地支配の仕組みといい、今川家のそれを踏襲するものであった。家康にとって今川家は、やはり戦国大名としての手本であったといいうる。

■北条家のもとを離れた氏真が頼った先

懸川城から退去した氏真は、駿河大平城、次いで相模小田原に居住し、北条家の庇護をうけながら、武田家を撤退させて駿河に復帰することを図った。しかし元亀2年(1571)、妻早川殿の父・北条氏康の死去を契機に、北条氏政は武田信玄と再同盟した。これにより氏真は、北条家のもとで駿河復帰を果たすことはできなくなった。家康はその翌年から、武田信玄から領国への侵攻をうけ、領国の半分以上を経略されてしまう。

しかし天正元年(1573)4月に、武田信玄が死去したことで情勢は好転する。家康は反撃し、領国の回復活動を開始した。これをみた氏真は、駿河復帰の夢を家康に託すことにし、北条家のもとを離れて、家康を頼り、遠江浜松城に移住した。

家康は当時、織田信長に従属する関係にあったから、それは信長の承認を必要とした。氏真は信長とは、それまで敵対関係にしかなく、しかも氏真にとって信長は父義元の怨敵にあたっていた。そのため氏真は、出家して信長に対して降参の作法をとって、敵意はないことを明示したうえで、家康の庇護をうけた。

■家康と信長が「元敵」の氏真を庇護した理由

家康が、さらに信長が、氏真を庇護することを承知したのは、武田家との抗争にあたり、元駿河国主の氏真を擁することで、武田家に対し駿河支配の正当性を獲得できるからであった。氏真は、信長・家康から、駿河経略のうえは同国を与えられることを約束されたとみなされ、その後は駿河国主予定者として、国主相当の政治的立場を復活させている。

天正4年には駿河への最前線拠点であった牧野城の城主に任じられた。これは氏真が駿河経略の先鋒を務める姿勢を表明したものであった。

ところが実際には、氏真は牧野城にはあまり在城せず、基本は浜松城に在所した。理由は判明していないが、家康から何らかの役割を求められていたためと考えられるように思う。戦国大名家としての教養の指南にあたっていたのではなかったか。

■家康の嫡男・秀忠の養育を担った今川家

天正7年に家康の三男で、のちに嫡男にされる秀忠が誕生すると、その「御介錯上臈(ごかいしゃくじょうろう)」、すなわち後見役の女性家老に、氏真妹の貞春尼(ていしゅんに)が任じられ、また後見役の乳母に今川家旧臣の娘「大姥局(おおうばのつぼね)」が任じられた。

これは秀忠の養育が、今川家の関係者によっておこなわれたことを意味する。それにともなって徳川家の奥向きの構造も、今川家の作法で確立されていったことであろう。さらに同年に家康が北条家と同盟を形成するにあたっては、氏真家臣がその使者を務めた。氏真は北条家と旧知の間柄にあったため、北条家との関係を取り持つ役割を果たしたのである。

そして家康にとって、北条家との同盟は、武田家との抗争において攻勢にでていく契機をなし、駿河への侵攻を開始するのであった。

■駿河復帰の夢は叶わず、表舞台から姿を消す

ここまで氏真は、家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに助力していたとみることができる。かつての経験や教養が、十分に家康に寄与し、それを支えていたといえよう。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons)

しかし同10年に信長により武田家が滅亡し、駿河が家康に与えられて以降、氏真の動向はあまり確認されなくなる。家康は信長に、かねての約束から氏真に駿河半国を与えられるよう申請したらしいが、信長からは却下された。これにより氏真の駿河復帰の夢は完全に絶たれることになる。

以後は家康のもとで、その家臣として生涯を過ごすほかはなくなった。それでも氏真の存在は、高い教養と政治的地位から、対外関係において貢献したことであろう。

■氏家が京都に移っても、2人の交流は続いた

家康は駿河を領国化すると、本拠を駿府に移した。これは当時の領国全体を統治するうえでの利便性によるであろうが、その一方で海道筋3カ国を領国とするようになり、いわば今川家に取って代わった存在になったことで、かつての今川家の本拠であった駿府こそが、その本拠に相応しいという観念もあったことであろう。

少年期から青年期に、今川家の最盛期を駿府で過ごしたかたちになる家康にとって、駿府こそが、理想の本拠という認識があったかもしれない。

しかし同18年に北条家滅亡をうけて、家康の領国が関東に転封されたのを機に、氏真は家康の側から離れて、京都で生活することになった。家康からは所領を与えられていたらしいから、家康から離れたわけではなかった。しかも翌年から、家康は、当時の政権の羽柴(豊臣)政権に従う「豊臣大名」として、嫡男秀忠ともども京都・大坂での居住を基本にした。

これによりむしろ、家康は、日常的に氏真との交流を維持したとみることもできるであろう。そして何よりも秀忠の上臈として氏真妹の貞春尼が存在し続けていた。徳川家と今川家は、日常的に繋がっていたのである。

■故郷・駿府で実現した家康と氏真の面談

氏真の京都での生活の全容は判明しない。それでも家康とは、引き続いて交流していたことであろう。家康は慶長11年に江戸に下向(げこう)し、同12年に駿府城を本拠にしてから、ほぼ上洛しなくなる。

家康が再び自身の本拠に駿府を選んだのは、やはり同地に対する愛着によるように思う。しかしこれによって家康と氏真は、しばらく面談できない状態になった。

慶長17年4月に、氏真はついに徳川家の本拠・江戸に移住する。その途中で駿府を訪れると、ただちに家康は氏真と面談におよんでいる。家康にとって、氏真がいかに特別の存在であったかが、端的に示されている事実といえるであろう。

■戦国を生きる「盟友」だったのではないか

その2年後に氏真は77歳で死去し、さらにその2年後に家康が75歳で死去する。両者の交流は、60年以上におよぶ長期のものであった。

黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)
黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)

しかも両者は、ともに戦国大名家・国衆家当主として領域国家を主宰する国王の立場にあり、少年期からともに過ごしてきた間柄にあったことを想えば、長い人生のなかで両者の立場には変化がみられたものの、互いに戦国を生きる盟友として認識しあっていたのではないかと思わずにはいられない。

そして家康は、「天下人」として戦国争乱を終結させる存在になったが、その過程において、領国統治や奥向き構造など、今川家の教養・文化に支えられていた。このようにみてくると、家康という存在は今川家あってのものであった、といってもよいほどであろう。家康と氏真が、死去の直前まで交流を続けていたことも、そう考えると納得できるように思う。

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黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。

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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)

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