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「肌がきれいね」と突然二の腕をさすられた…50代半ばの男性医師が「診察でモヤモヤした瞬間」を考察する

プレジデントオンライン / 2023年11月4日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/andrei_r

■肌はスベスベではなく、むしろ毛深いほう

あなたは、自分の身体を他人に触られることに不快を感じないだろうか。
あなたは、他人の身体を触ることに何ら躊躇いを感じないだろうか。

こんな疑問を持ったのは、先日診療していた折に、高齢の男性患者さんの妻に突然「先生、肌がきれいね」と二の腕の素肌をさすられてしまったからだ。

相手が家族や気の知れた間柄であればまだしも、赤の他人にいきなり身体を触られることを不快に感じるのは私だけなのだろうか、他人の身体を躊躇なく触る人の心理とはいかなるものなのだろうか、とつい考えてしまったのである。

過去にも似たような経験は患者さんから幾度かあったが、そのたびに同様の不快を感じつつも「やめてください」と強く言えない自分がいたのも事実ではある。

もはや年齢も50代半ば。肌がスベスベなわけでもない(むしろ毛深いほうだ)。もちろんイケメンでもない。そのような私の身体を触る女性のほとんどは、私の親と同年代ほどだ。息子のように思って、つい触りたくなるのかもしれない。

同じ疑問は、テレビを見ていても感じることがある。

■芸能人や力士の体をペタペタさわる人たち

以前あるドッキリ番組で、若い男性芸能人が仕掛け人となって、彼のファンである一般女性の目の前に突然登場しびっくりさせる、といった企画を見て気分が悪くなった。彼の母親ほどの年齢の女性は歓声をあげると、すぐさま駆け寄り、なんのためらいもなく一方的に彼の腕や体をペタペタ触ったうえ、ハグまで求めたからだ。彼は苦笑しつつ、ただ要求に応じるままとなっていた。

大相撲で花道を引き上げる力士の肩や背中を、枡席から身を乗り出して手を伸ばしピタピタと「さわる」観客も男女問わず存在する。これに力士たちは皆、無言で花道の奥へと消えてゆく。すっかり見慣れてしまったが、これも冷静に見れば、なかなかシュールな画だ。

芸能人も力士も、初対面の人にいきなり一方的に触られてどう思っていたのだろうか。むろん彼らの本心はわからない。純粋に、喜ぶファンの存在を嬉しく思ったかもしれない。不快に思っても、プロ意識から我慢したのかもしれない。

「プロなんだからそんなことくらい、いちいち気にしてどうする」
「減るもんじゃないし、それくらいのファンサービスは当然だろう」

という意見もあるだろう。読者の皆さんのなかにも、他人からボディタッチされても「別に気にしない」という人もいるかもしれない。

■相手をモノのように扱っていないか

ただ、人にはそれぞれの事情もある。じつは私には、もっと若かった過去に、親ほどの年齢の女性患者さんから数年にわたって執拗(しつよう)なストーカー行為を受けたというつらい経験があり、そのトラウマが今も心の奥底に沈澱している。

以来、年上の女性患者さんなどから少しでも好意的な気配を感じとっただけでも、つい身構えるようになってしまう自分がいるのも事実だ。しかし触られてしまう場合の多くは突然だから、未然に防ぐことはいつも不可能に近い。

「女性にさわってもらえるなんていいじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、決してそんなことはない。50代の男性であっても、突然人にさわられることは怖くもあるし、不快でもあるのだ。

そもそも「他人の身体に自分の手を接触させる行為」は、安易におこなわれるべきでないケースのほうが圧倒的に多い。

とくに「さわる」という行為は、「さわる側」がなんらかの意図を持ったうえで、相手に配慮する以上の意志をもって一方的におこなわれることが多いのではなかろうか。いわばそれは、相手をひとりの意思を持った人間ではなく、モノのように扱っているに近い行為であるともいえる。

痴漢やセクハラは、その典型だ。相手の不快感など一切配慮することなく、我欲のままにおこなわれる行為だからだ。そこには対象を尊厳ある人間として扱う気持ちは微塵もない。この場合の「さわる」は、「さわられる側」からすれば、まさしく「暴力」である。

■遠慮なくさわってくる人は、なぜさわるのか

私自身、患者さんやその家族に幾度となくボディタッチを受ける身として、人の体に抵抗なくさわる人の心境を自分なりに考えてみた。

医師として診察するにあたり、こちら側から患者さんのパーソナル・スペースに立ち入ることは日常だ。たとえば医師による「触診」は、症状の把握や診断には必要不可欠なものだし、生活習慣を確認するために食べているものや好きなことを聞くこともある。しかしそれはあくまで「業務」であるし、立ち入る際には当然ながら同意を得る。

もちろん仏頂面では患者さんを怖がらせてしまうから、穏やかな表情で接することを心がけてもいる。もしかすると、その物理的・心理的な距離の近さを「親密さ」の表現であると誤解されてしまっているのかもしれない。また「先生が触ってくるのだから、触りかえしてもかまわない」と思われている可能性もある。

もちろんそこに「悪気」がないことくらいは理解できる。むしろ私にたいする好意の表れと受け止めれば良いだけなのかもしれない。患者さんやその家族には、嫌われるより好かれたほうがいいに決まっている。ついそのように考えてしまうものだから、むげに「やめてくれ」と言えないのだろうと、とりあえずの自己分析をしている。

■性別を逆にしたら、これは事件になる

ただ、これまで例示したのは男性が「さわられる側」だが、性別を逆にした場合でも同じことが言えるだろうか。

もし同様のテレビ企画のドッキリ番組で、若い女優にたいして男性ファンが一方的に身体に触ったり抱きついたりなどすれば、これは放送事故ではすまない事態となるのではないか。じっさい先日、ライブ会場で韓国の女性DJがファンに胸を触られるという事件が発生し、大きな問題となったことは記憶に新しい。

医療・介護の現場においても、男性の看護師や介護士、医師が職場で異性の患者や利用者、スタッフから性的嫌がらせを受けている実情は大きく取り上げられることはないが、男性の患者や被介護者による女性医師・看護師・介護士へのボディタッチは「おふざけ」では許されない「性暴力」として、今や大きな社会問題だ。

年配の女性を助ける介護者
写真=iStock.com/Ridofranz
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ridofranz

ここで誤解してほしくないので念のために申し添えておくが、当然ながら私は「女性は加害者となっても許されるのに、なぜ男性の場合は許されないのか」と述べたいわけではない。

「女性であっても男性であっても、承諾を得ないまま勝手に相手にさわるという行為はすべきではない」と言いたいのだ。加えて、この行為は同性にたいするものであっても当然ながら許されない。それはジャニー喜多川氏による「性暴力事件」からも明白だ。

■人に触れざるをえない医療・介護の現場ではどうするか

さらに言えば、それが明らかな性的な意図を持った行為であろうとなかろうと、触る部位が身体のいかなる部分であろうと同じだ。「さわられる側」が不快と感じるならば、それはすべて許されない行為である。

行為者に「悪気がなかった」としても、それもまったく言い訳にはならない。芸能人や力士に触る人たちも、もちろん嫌がらせではなかろう。「記念に触る」というのは身勝手な我欲に他ならないが、「応援してますよ」という好意の表現であるとは信じたい。

だがいくら好意の表現であろうと、「さわる」という行為自体が、つねに「さわられる側」にとっては「暴力」として受け止められかねないものであるということを、男女を問わず認識しておかねばならないのである。

一方で、当然ながら医療や介護の現場では、この、人を不快にさせかねない「さわる」「ふれる」という行為が必要となるケースは日常的にある。むしろ人を快適に導く効果が期待できる場面さえ少なくない。

医師による「触診」をはじめ、看護師によるケアや介護士による介助も、患者さんや要介護者を「さわる」ことなしにおこなうことは不可能である。

■認知症患者のケアに「さわる」技法が使われている

また近年注目されているケア技法として「ユマニチュード」というものがある。認知症の人に接する際に、相手をひとりの人間として大切に思っているとの気持ちを伝えるもので、認知症の人の心を開き、症状の改善に有効とされるが、これにも身体に「さわる技法」が組み込まれている。

これらも、医療者側からの一方的な行為であってはならないことは言うまでもない。いくら「さわられる側」のために良かれと思っておこなわれるものであっても、急を要する処置の場合であっても、予告なく同意も得ぬまま「さわる」という行為は慎むべきである。他人の身体に「さわる」場合は、いかなる場合でも「相手の承諾を得る」ことが大前提なのだ。

この大前提は「さわる」だけでなく「ふれる」にも同様に適用される。

ただ「ふれる」は「さわる」とは異なり、自分の手を接触させる対象を「物質」ではなく、ひとりの人間として扱い、その対象者の意思すなわち「人の内面」を配慮したうえで、その人の感情を掌(たなごころ)で感じつつおこなわれるものと理解される。

そしてそのおこないは、「ふれる側」と「ふれられる側」双方の感情が響き合うものに昇華する可能性すら包含している。[この「さわる」と「ふれる」について、さらに深くを考察したい方は、伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)をぜひお読みいただきたい]

■触れる際は、まずは衣類で被われているところから

ユマニチュードにおける「触る技法」も、その意味では「さわる」ではなく「ふれる」に近いものではないかと私は実践しながら感じている。

方法としては、まず背中や肩など衣類で被われている部分から手のひらをそっと当て、相手の目を見ながら反応を確かめながら次のステップに進む。相手の不快を感じさせないよう、驚かせないよう細心の注意が求められるが、そうすることで、単なる言葉による会話以上のコミュニケーションを導き出すこともできるのである。

しかし、新型コロナの流行によって、こうした有用な「さわる」も一緒くたに、「人と人との接触」はできるかぎり避けるべきとされてしまった。

高齢者医療の現場、とくに高齢者施設においては感染対策のためとして、家族との面会はZOOM、あるいはリアルに会えてもアクリル板越しの十数分に制限された。肌と肌の「ふれあい」は“危険なもの”として完全に排除されてしまったのだ。

ふだん家族になかなか会えない施設入居者こそ、こうした「ふれあい」が必要であるにもかかわらず、である。人生の最終局面、残された時間を家族とふれあう必要があったろうに、それがかなわなかった人たち。私の知るだけでも数人レベルではない。

■「さわってもいいですか」と聞くだけでも違う

そうした状況も、少しずつではあるが以前に戻りつつある。4年に及ばんとするコロナ禍に、多少なりとも変化が生じてきた今、かつての人と人との「ふれあい」が、やっと再開されつつある。

これは非常に喜ばしいことだが、そうであるからこそ、今あらためて「他人の身体に自分の手を接触させる行為」について、皆が丁寧に考え直すべきと私は思うのだ。

私たち人間は、せっかく手を媒体とした「ふれあい」という貴重な手段を持っている。これをお互いの幸せと快適のために活用しないのは非常にもったいない。

だが、せっかくの貴重な手段も、我欲のまま相手の許可なく一方的に「さわる」という暴力を行使してしまう人が存在すれば、すっかり台無しとなってしまうのである。芸能人に遭遇して興奮する気持ちは理解できるが、「握手してもいいですか」「さわってもいいですか」と一言たずねるだけでもかなり違うはずだ。

外で楽しむ若者たち
写真=iStock.com/pixelfit
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pixelfit

■不快だと思ったら「苦手」と伝えていい

まさに「老若男女」を問わず、「他人の身体に自分の手を接触させる行為」をおこなう際には、それによって相手が不快にならないかを十分に考えたうえで、相手にその行為の意図と目的を丁寧に伝え了承を得てからおこなうことが、必要不可欠なのだ。それを今あらためて確認しておくべきだろう。

そして「さわられる側」も不快と感じる場合には、いかなる事情があろうとも我慢せずに拒んで構わないのだ。相手が患者さんなど、なかなか言いづらい局面もあるけれど、私も次に同様な状況に直面した場合には、「あなたが嫌なわけではなく、突然さわられることが苦手なのだ」と正直に伝えることにするつもりだ。

私たち人間は「ふれあい」という貴重な非言語コミュニケーションの手段を持っているとともに、言語を用いてもコミュニケーションできる類いまれな生き物だ。「さわる側」「さわられる側」双方がお互いを尊重しつつ、この両者を上手に組み合わせて使うことで、私たちの生活はより快適に豊かになるのではなかろうか。

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木村 知(きむら・とも)
医師
医学博士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。1968年、カナダ生まれ。2004年まで外科医として大学病院等に勤務後、大学組織を離れ、総合診療、在宅医療に従事。診療のかたわら、医療者ならではの視点で、時事・政治問題などについて論考を発信している。著書に『医者とラーメン屋「本当に満足できる病院」の新常識』(文芸社)、『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)がある。

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(医師 木村 知)

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