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泣き叫ぶ子供を母親から引き離し、容赦なく屠り去った…晩年の豊臣秀吉の狂気を示す「三条河原の惨劇」

プレジデントオンライン / 2023年11月6日 17時15分

豊臣秀吉像(重要文化財・一部)。慶長3年(1598年)賛 京都・高台寺蔵。(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

なぜ豊臣家は滅亡したのか。その背景には、豊臣秀吉の「身内殺し」がある。歴史作家の河合敦さんの著書『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)より、一部を紹介する――。(第2回)

■子宝に恵まれなかった豊臣秀吉

足軽の家に生まれた豊臣秀吉は、織田信長のもとでたびたび武功を上げ、やがて長浜城主となった。足軽から城持ち大名へと、驚くべき出世である。

この頃から側室を多く抱えるようになるが、彼女たちが秀吉の子を産むことはなかった。天正十三年(1585)、秀吉は関白に叙され、朝廷の威光を背景に豊臣政権を樹立した。だが、相変わらず子に恵まれず、姉の子や気に入った大名の子を、次々と養子にしていった。

ところが天正十七年(1589)、側室の淀殿が鶴松を生んだのだ。狂喜した秀吉だったが、鶴松は2年後に夭折、仕方なく秀吉は甥の秀次を後継者とした。しかし文禄二年(1593)、再び淀殿が秀頼をもうけた。

すると秀吉は、秀頼を後継者にしようと秀次に謀反の罪を着せて切腹させた。が、自分も三年後に死去し、豊臣家は家康に天下を奪われたうえ、滅ぼされてしまうのだ。

■落書きに激怒し、113人を処刑

長年、実子に恵まれなかっただけに、わが子に対する秀吉の愛情は深かった。というより、異常だった。

たとえば、淀殿が秀吉の最初の子を妊娠した天正十七年(1589)、京都の聚楽第(秀吉の邸宅)の門に貼りつけた落書きが見つかった。落書きの文言は記録に残っていないが、どうやら「淀殿の子の父親は秀吉ではない。多くの側室がいながら、これまで子供に恵まれなかったのに、急に子ができるのは怪しい」といった類いの内容だったようだ。

すると秀吉は、門番をしていた十七人の武士の落ち度を責め、彼らの鼻と耳をそぎ落としたうえで磔(はりつけ)に処したのである。尋常な怒りではない。

磔のくぎ
写真=iStock.com/kevinschreiber
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kevinschreiber

やがて、落書きの犯人たちが大坂天満の本願寺に逃げ込んだことが判明する。秀吉は本願寺の門主・顕如に彼らの引き渡しを命じ、自分自身も大坂へ乗り込んで行った。仕方なく顕如は、関係者の尾藤道休を処刑し、その首を差し出した。

だが、それでも怒りが収まらない秀吉は、犯人をかばった僧侶数人を捕えて殺害。さらに道休が住んでいた家を町ごと焼き払い、近隣の人々を連行して六十人以上を六条河原で処刑したのである。犠牲者のなかには八十歳を超える老人や七歳に満たない子供もいた。

その後も逮捕者が続き、最終的に百十三人がこの事件で命を落とした。たかが落書きなのに完全に常軌を逸している。ひょっとしたら、淀殿の腹にいる子が本当にわが子かどうか不安があり、そこを指摘されたことで怒りが爆発したのかもしれない。

■やっと生まれた男児も3歳で亡くなる

生まれた子は男児であり、鶴松(棄)と名づけられたが、このとき秀吉はすでに五十三歳だった。だから鶴松を孫のように溺愛した。翌天正十八年(1590)、小田原平定のため秀吉は遠征に出向いたが、京都に凱旋(がいせん)するとすぐに淀殿に手紙を出している。

そこには「鶴松は大きくなったか。身体を冷やさないようにしてやれ。近くそちらに行くので家族三人で一緒に寝よう」と記されている。鶴松が二歳の頃には踊りの師匠をつけ、英才教育をしている。

だが、この子は病弱だったようで、翌十九年正月に病にかかり、いったん回復したものの夏に再び病になった。秀吉は諸社寺に祈祷(きとう)させたものの、その甲斐なく八月五日に三歳で亡くなってしまった。秀吉は悲しみのあまり、翌日、髻(もとどり)(頭のてっぺんで束ねた髪)を切ってしまった。これを見た多くの大名たちも、同じく髻を切って喪に服した。

力を落とした秀吉は、京都を離れて有馬温泉で傷心を癒やしたが、政治に対する意欲も失せたのか、関白職を豊臣秀次に譲ってしまった。

■実子を諦め養子の秀次に関白職を譲る

秀次は永禄十一年(1568)、三好吉房と秀吉の姉・智の子として生まれたが、のちに叔父の秀吉の養子となった。天正十二年(1584)には長久手の戦いで大将として三河へ進攻するが、徳川軍に大敗を喫し、秀吉の叱責(しっせき)を受けた。

翌年には近江国などに四十三万石を貰い、八幡山に城を構えた。天正十八年(1590)、小田原攻めの先陣として伊豆国の山中城を攻略した功で、尾張国と北伊勢五郡を与えられ、清洲城主となった。この翌年には、秀吉の命で徳川家康とともに奥州一揆を鎮圧する。

なお、秀吉には多くの養子がおり、秀次もそのなかの一人にすぎなかった。ところが秀吉は鶴松の死後、もはや実子は望めぬと考え、甥の秀次を内大臣に抜擢、さらに関白職を委譲したのである。二十四歳という若き関白の誕生であった。このとき聚楽第も秀次に譲られ、秀次はここを拠点として政務をとることになった。

大阪城豊國神社の豊臣秀吉公像
写真=iStock.com/coward_lion
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coward_lion

■秀次に与えた「五カ条の教訓状」

豊臣の家督を譲るにあたって、秀吉は秀次に五カ条の教訓状を与えた。

以下、意訳して紹介しよう。

「国が静謐になったといっても、軍事に油断なく、武器や兵糧を整えておけ。私がおこなったように、出陣するにあたっては兵糧を出して長陣を覚悟するようにしろ。法律をしっかり定め、背く者があれば依怙贔屓せずに糾明し、兄弟や親族であっても成敗しろ。

朝廷を敬い、奉公をつくせ。奉行は能力によって選び、人材を大切にせよ。武将が戦いなどで亡くなった場合、必ず跡目を立ててやること。ただ、跡継ぎが十歳以下のときは、名代を出させなさい。子供がいなければ兄弟に家督を継がせよ。

茶の湯、鷹狩り、女遊びに熱中してはいけない。私がやっているからといって真似はするな。ただし、茶の湯は慰みでもあるので、茶会を開いて人を招くのはかまわない。鷹狩りは鳶鷹や鶉鷹などを使ってたしなむ程度ならよい。召し使う女は屋敷のなかに置きなさい。五人でも十人でもかまわない。ただ、外でみだりに女狂いはするな」

甥への愛情がにじみ出ていて微笑ましい。

こうして秀次に関白を譲った秀吉は、隠居の城として伏見城をつくり始めるが、この頃には意欲を回復し、朝鮮出兵を断行、その指揮をとるようになった。

■57歳のときの生まれた秀頼を溺愛

文禄二年(1593)五月、秀吉は再び淀殿が妊娠したことを正室のねねから手紙で知らされた。それに対して秀吉はねねに「淀殿が懐妊したとのこと、めでたいことである。ただ、私は子供を欲しいとは思わない。私の子は鶴松だけだったが、もう遠くへ行ってしまった。だから今度生まれてくる子は、淀殿だけの子である」と返信している。

正室への遠慮もあったのだろう、あえて喜びを抑えているが、五十代後半になっての側室の懐妊の知らせが、うれしくないはずはなかろう。しかも、八月に生まれた子は男児であった。そう、のちの豊臣秀頼(拾)である。

秀吉は淀殿に宛てて「秀頼に乳をたくさん飲ませなさいね。あなたも母乳がよく出るように、飯をたくさん食べなさい」と記し、また別の手紙では、「秀頼はたくさん乳を飲んでいるか。なるべくたくさん乳を飲ませなさいね」などと書いている。

秀頼本人に宛てた手紙も紹介しよう。

「本当に愛おしい。やがてお前のもとに行って、口を吸ってあげたい。私の留守中に、他の人に口を吸わせてはだめだよ」

この手紙から、秀吉は、息子の秀頼に会うたびに接吻していたことがわかる。五十七歳で誕生した子が、可愛くて仕方がなかったのである。

■秀次を高野山に追いやり切腹を命じる

やがて秀吉は、どうしても秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになってしまう。そこで関白秀次に対して、日本全土を五つに分け、そのうち五分の一を秀頼に与えてほしいとか、秀頼を秀次の娘と結婚させ、その婿養子にしてほしいと言い始めたようだ。

当然、秀次は面白くないし、自分の権力をうばわれるのではないかと警戒もしたようだ。文禄四年(1595)七月三日、秀次のその予感は当たってしまう。突然、自身が住む聚楽第に石田三成ら秀吉の奉行がやって来て、謀反計画の有無を問いただしてきたのだ。

驚いた秀次はこれを否定し、誓紙を差し出して無実を主張した。それから五日後、秀次は秀吉のいる伏見城に来るように言われた。そこで、仕方なく出向いたところ、城内ではなく城下の木下吉隆の屋敷に案内された。そして秀吉から「高野山へ登れ」と命じられたのである。罪を犯しても高野山に入ることで、すべて許されるという慣行があった。

身に覚えはなかったが、秀次は秀吉に逆らわずおとなしく高野山に入った。しかし、それを追いかけるように、福島正則ら使いの者が現れ、秀次に切腹を命じたのだ。こうして秀次は、自刃して果てた。

一説には、秀次が抗議の意味を込めて、勝手に腹を切ったともいわれる。

高野山 金剛峯寺
写真=iStock.com/coward_lion
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coward_lion

■秀次一族を惨殺し、遺体を穴に投げ捨てた

ところで、本当に秀次は謀反を企てたのだろうか。

通説ではでっち上げだといわれるが、謀反の可能性もゼロではない。ただ、世に喧伝されているように、殺生禁断の地で鹿狩りをおこなったり、多くの人間を試し斬りしたというのは、のちに秀吉や豊臣政権が捏造(ねつぞう)した逸話だと思われる。

ともあれ、通説どおりなら、我が子に政権を譲るために、じゃまになった甥の秀次に罪を着せて抹殺したわけで、なんとも身勝手なことである。さらに悲惨だったのは、約四十名に及ぶ秀次の妻妾とその子供たちだった。

秀次の死後、彼女たちは聚楽第から三条河原に引き出された。河原には刑場が設けられたが、なんと塚の上には、秀次の生首が置かれていたのである。その首の前で、処刑人たちは泣き叫ぶ子供を母親から引き離し、容赦なく心臓に刃を突き立て、続いて女たちを屠(ほふ)り去っていった。あたかも地獄絵を見るようであった。

そして大きな穴を掘り、遺体をすべて穴へ放り込んだ。慈悲の心がみじんも感じられない残虐な所業である。こうして主がいなくなった壮麗な聚楽第は、あれほど金をかけ贅を尽くして建てたのに、秀吉の破壊命令によって建築物もすべて撤去され、立派な石垣は完全に崩され、七メートルの深い堀も埋められ、何もない更地になってしまった。

秀吉は、それから三年後に六十二歳で死去した。

■わが子への愛情が豊臣家の崩壊を招いた

跡継ぎの秀頼はまだ六歳だったので、本人が政務をとれるはずはない。それは秀吉も重々わかっていたので、死ぬ間際、秀吉は徳川家康など五人の有力大名(五大老)を枕元に呼び寄せた。そして「秀頼事、たのみ申し候。五人の衆たのみ申し上げ候(略)いさい五人の者に申しわたし候。なごりおしく候。以上。秀頼事、成りたち候やうに、この書付の衆として、たのみ申し候。なに事も、此のほかには、おもひのこす事なく候」と書いた遺言状を与えたのだ。

河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)
河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)

また、自分の死後について秀吉は、秀頼が成人するまで信頼する五大老と五奉行に合議制をおこなわせようとしたといわれている。なお、近年は家康を天下人とし、秀頼が成人したのちに、天下を豊臣に返すという約束が成立していたという説がある。

ただ、そんな遺言は守られるはずはなく、秀吉が亡くなるとすぐに豊臣政権は分裂し、やがて家康が武力で天下を奪い、その後、秀吉最愛の息子である秀頼を死に追いやり、豊臣家を滅ぼしたのである。

もし秀吉が、秀次とその一族の処刑を思いとどまっていれば、関白秀次が立派に後継者として成長し、豊臣政権は盤石になった可能性もある。そうなれば、家康が天下を握る機会は訪れなかっただろう。

秀吉はわが子を深く愛したように見えるが、それは単なる自己愛、利己心であり、それが秀頼を死に追いやり、豊臣家を滅亡させたのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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