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私は間違ったことはしていない…石田三成が関ヶ原の戦いまでに多くの武将に見捨てられた根本原因

プレジデントオンライン / 2023年11月12日 12時15分

絹本著色 石田三成像(模本)(写真=宇治主水/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

石田三成とはどんな武将だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「実務に長け、胆力も備えた優秀な人物だった。だが、主君・秀吉の遺命に忠実であろうとし続けたため他の武将と対立し、豊臣政権崩壊のきっかけを作ってしまった」という――。

■豊臣政権下で分裂が始まったワケ

石田三成は慶長4年(1599)閏3月4日、豊臣秀吉恩顧の有力な武将、加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興の7人に襲撃された。その日は、独断専行が目立つようになった徳川家康との融和に努めていた前田利家が死去した翌日だった。しかし、家康が反発を買っているのかと思えば、豊臣系の武将たちが襲ったのは家康ではなく三成だった。

この事件は結局、家康のとりなしで和睦に至り、三成が政務から退いて居城の佐和山(滋賀県彦根市)に隠居することで決着をみた。

NHK大河ドラマ「どうする家康」の第40回「天下人家康」(10月22日放送)では、こうして隠居する三成が家康にあいさつしての別れ際、「私はまちがったことはしておりませぬ。殿下(秀吉)のご遺命にだれよりも忠実であったと自負しております」と、みずからの正統性を主張した。この言葉は、襲撃事件が引き起こされた原因、ひいては三成という人間を、たしかに象徴しているように思う。

三成の襲撃事件は、豊臣政権内の矛盾が噴出した結果として発生したもので、関ヶ原合戦の萌芽とも呼べる。そして、それは三成が「殿下のご遺命にだれよりも忠実」であろうとしたために誘発され、三成がこうして「忠実」であるほど、豊臣政権内の分裂が深まったといえる。

■武功派の武将たちを激怒させた三成の告げ口

では、なぜ三成は襲われたのか。笠谷和比古氏は『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書)で、2度目の朝鮮出兵である慶長の役の際に、朝鮮半島から捕虜として連行された朱子学者である姜沆(きょうこう)の『看羊録』に記された内容を重視する。

姜沆によれば、朝鮮半島で戦う諸将が、明と朝鮮の軍を追撃できる状況なのにしなかったことを、軍目付の福原長堯(ながたか)が三成をとおして秀吉に訴えたという。それを聞いた秀吉は激怒し、加藤清正、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政らが譴責(けんせき)され、一部の武将は領地まで奪われ、それが福原への恩賞に充てられた。そこで清正らは帰国後、福原を討とうとしたが、三成が妹婿である福原を擁護したので、武将たちは三成を襲撃した――。『看羊録』の記述はそんな内容である。

諸将が明と朝鮮の軍を追撃しなかったのは、いわゆる蔚山(ウルサン)の籠城戦のときのことだ。明と朝鮮が5万の大軍で包囲するなか、清正や幸長は蔚山城に籠城し、飢餓地獄を味わいながら、蜂須賀家政や黒田長政らの救援を得て九死に一生を得た。そんな状況では、心身ともにとても相手を追撃する余裕などなかっただろう。

だが、福原長堯は、常に積極的な戦いを要求する秀吉に「忠実」で、三成もその姿勢に理解を示したために、「武功派」と呼ばれるような武将たちとのあいだに、拭いがたい軋轢が生じたといえよう。

■こういうことに忠実な人間は危うい

それ以前にも「武功派」の武将たちとの軋轢が生じる事件があった。いわゆる秀次事件である。秀吉の甥の豊臣秀次は関白の座を追われた挙句、文禄3年(1594)7月15日に切腹した。その後、8月2日には、秀次の3人から5人の実子のほか、正室、側室、妾や女中ら三十数人が、京都市中を引き回されたのちに三条河原で首を斬られた。それも衆人環視のもと、三宝に載せられた秀次の首を拝まされ、時間をかけて惨殺された。

このとき残虐をきわめた処刑の現場を仕切ったのが、三成のほか増田長盛、長束正家、前田玄以の、いわゆる四奉行だった。これは歴史学を離れた筆者個人の感覚だが、こういうことにも「忠実」になれる人間には危うさを感じざるをえない。

しかも、藤田達生氏は、秀次事件を「仕掛けた側の石田三成ら秀吉側近グループによる豊臣一門大名の除去をめざしたクーデター」ととらえる(『天下統一』中公新書)。すなわち、事件は7月3日に三成らが、秀次に謀反の疑いがあるとして糾弾したところからはじまり、凄惨(せいさん)な粛清劇の結果、「石田三成や増田長盛ら秀吉側近グループは畿内要地を預かる大名へと躍進した」と記す。

ひたすら秀吉に「忠実」で、集権的な政権の樹立に邪魔なものは排除しつつ、自分たちの権利を拡大する、という三成らの姿勢がほかの大名たちの反発を買い、豊臣政権内の派閥抗争が表面化した、ということである。

■胆力の備わった能吏という評価

ここでいったん、中野等『石田三成伝』(吉川弘文館)をもとに、三成の経歴をたどっておきたい。桶狭間合戦が起きた永禄3年(1560)に近江(滋賀県)の坂田郡石田村(長浜市)に生まれたとされ、20代前半にはすでに、秀吉の家中でよく知られる存在になっていた。越後(新潟県)の上杉氏との交渉をゆだねられ、天正13年(1585)に秀吉が関白になると、20代半ばにして従五位下治部少輔に叙任した。

JR長浜駅前にある「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」
JR長浜駅前にある「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」(写真=立花左近/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

翌年、堺奉行に任ぜられたが、これは九州遠征の際、兵站物資を補給するために堺の経済力を利用するための措置で、中野氏は「秀吉が三成に高い期待を寄せた結果」とみる。九州では、秀吉の代理として島津領国に入ってさまざまな交渉を行った。小田原征伐後は奥州で、地域を統治するための実務を重ねたが、こうして敵地に乗り込んで仕事をこなすことができたのは、「それなりの胆力を備えた剛直な人物」だったからだと中野氏はみる。

唐入りに関しても、天正19年(1592)6月、秀吉の渡海が延期になると、代わりに軍令を執行するために朝鮮に渡り、戦闘も経験した。また、北関東の佐竹領や南九州の島津領の検地を主導し、秀次事件ののちには京都所司代を務めた。

その一方、みずからの領地や管轄地の村々には村掟の条々を発したが、中野氏は「当時の大名のなかで、自己の所領内にこれほどまでにきめ細かく綿密な規定を発した例は他になく」と記す。胆力の備わった能吏であるうえ、領主としての手腕もあったようだ。

このように秀吉の命に忠実に実務をこなしながら、三成は自信を深めていったのだろう。三成ら四奉行は「秀吉がもたらした天下の安寧を秀頼に引き継ぐことが出来るのは彼らのみであるという強固な自負心を持っていた。四奉行は相互に連携性を強めるなかで、諸他の勢力には排他的に臨むことで、政権内における立場をより強固に安定化させることを目指した」と中野氏は記す。

だが、その「自負心」と「排他性」こそが、先述した軋轢につながっていく。

■挙兵計画は順調だったはずだが

自信家であればこそ、冒頭に記した隠居は三成にとって挫折だった。中野氏は「天下の政治から排除されるという事態は、譬えようもなく無念なことであり、三成にとってはこれ以上ない屈辱であっただろう」と記す(『石田三成伝』)。

しかも、自分が政治に関わることができないあいだに、家康は自身にどんどん権力を集中させている。上杉討伐に至ってついに放置できなくなり、慶長5年(1600)7月10日ごろに会津へ向かう大谷吉継を佐和山城に呼び寄せ、家康を倒すために挙兵する計画を打ち明けた。

その後は、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の力を借りて三奉行を抱き込み、茶々(および幼い秀頼)も同調させ、家康の非道を13カ条にわたって書き連ねた「内府ちがひの条々」を、三奉行連盟の添え状をつけて全国の大名に送るまでに至った。すなわち、三成らは豊臣公儀の正規軍として承認され、家康らは正規軍が討伐すべき反乱軍とされてしまったのである。

これは普通に考えれば、家康にはきわめて不利な状況である。しかも、家康にとってはその後も誤算続きだった。

■無理強いしても人は従わない

三成の挙兵を知った家康は小山評定を開いて、自分につき従っている諸将に、このまま上杉討伐に向かうか、三成を討つかを質し、三成を討伐する方針を決めた。

しかし、その時点では伝わっていなかった「内府ちがひの条々」の存在が知らされる。家康が従えているのは主として秀吉恩顧の大名たちであり、彼らが「反乱軍」呼ばわりされてまで家康に従うかどうか、読めなくなってしまったのだ。

だから、家康は1カ月近くも江戸城にこもって動かなくなってしまう。すでに尾張(愛知県西部)の清須城に集結していた諸将はしびれを切らすなか、家康が使者を送って促すと、われ先にとばかりに進軍し、たちまち長良川を渡って、織田秀信が守る岐阜城を落としてしまった。

三成が8月6日付で上田城(長野県上田市)の真田昌幸に宛てた書状には、家康に付き従っている武将たちも、秀吉の恩を忘れ、秀頼に粗略な振る舞いをすることなどできないはずだ、大坂に残して人質になっている彼らの妻子を無視できないはずだ、という記述がある。

しかし、ただ「忠実であれ」と号令し、妻子の人質という強引な手段に訴えても人は従わない。三成はそのことに最後まで気づけなかったのだろう。

■人の心の機微が読めなかった

家康は多くのジレンマを抱えていた。下手に出陣しても、すでに自分たちは反乱軍なのだから、豊臣系の武将たちの裏切りに遭うかもしれない。だが、様子を見ているあいだに、豊臣系の武将が前進して戦いを決してしまえば、今後の政局に家康が出る幕はなくなってしまう。あるいは、西軍の総帥に擬(ぎ)せられた毛利輝元が秀頼を連れて戦場に現れれば、味方はたちまち西軍になびいてしまう。

だから、決戦を急ぐ必要があるが、徳川の精鋭部隊を率いて中山道を進軍している嫡男の秀忠は、上田城の真田氏の抵抗を受けて前進できておらず、決戦に間に合わないかもしれない。

そこで家康は、馬印や旗、銃隊などを隠して、岡山(岐阜県関ケ原町)の陣所にひそかにたどり着いた。まずは三成側が秀頼を戦場に担ぎ出す余裕をあたえないまま、戦場に到着したのである。だが、それでも豊臣系の武将たちの裏切りに遭っていたら、家康は到底勝てなかっただろう。

結局、家康に付き従った豊臣系の大名たちには、反乱軍扱いをされようとも、三成側を倒すことこそが秀頼のためだという強い意思があった。そして、彼らの「意思」は三成らへの反発から醸成されたのである。だが、三成には、秀吉の命令に「忠実」なあまり、他者に厳しく当たることが招く結果、自負心をもって排他的にふるまうことが招く結果を読めていなかった。

晩年の秀吉は、唐入りはもちろんのこと、秀次事件をはじめ理不尽な判断を重ね、人心を遠ざけた。そんな秀吉にどこまでも忠実であったこと。三成が関ヶ原合戦で負けた原因の根幹はそこにある。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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