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なぜ日本のマスコミは「マイナンバーは危険」と繰り返すのか…むしろ危険を高める「監視社会批判」という病

プレジデントオンライン / 2023年11月17日 9時15分

佐々木俊尚氏(画像提供=徳間書店)

日本のマスコミではマイナンバー制度などをめぐり「監視社会は危険」という主張が目立つ。ジャーナリストの佐々木俊尚さんは「過度な『テクノロジー恐怖症』はテクノロジーの進化を止めてしまう。実利に目を向けて、後押しを進めるべきだ」という――(第2回/全3回)。

※本稿は、佐々木俊尚『この国を蝕む「神話」解体』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

■「監視社会は危険」と声高に主張するマスコミ

マイナンバーカードや監視カメラ、特定秘密保護法など、ちょっとでもプライバシーに触れるような技術や法整備の話が出るたびに、マスコミは「監視社会は危険」論を声高に言い出す。

「個人情報が政府に筒抜けになって危険だ!」
「国民は監視されていることを恐れて自主規制し、自由がなくなる」
「プライバシーが政府にばれたら、反権力だと思われて圧力をかけられるかも」

念のために言っておくが、そういう懸念はけっして「ゼロ」ではない。たとえばアメリカでは、エドワード・スノーデンが暴露したことで有名な「プリズム」というインターネットの監視システムや、世界中の無線通信を傍受している「エシュロン」というシステムがある。日本でも、公安警察や公安調査庁が監視対象の人物の個人情報を収集している。

しかしだからといって、政府や企業が個人情報を取得することを全部一緒くたにして「監視社会だ!」と叫ぶというのは、あまりにステレオタイプである。わたしたちはそういう古くさい批判から脱却して、バランス感覚のある考え方を持たなければならない。

個人情報のテキスト
写真=iStock.com/y-studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

では、どのようなバランス感覚が必要なのだろうか。論点として以下の三つを挙げよう。

第一に、監視することは、平等な社会をつくることにもつながる。
第二に、監視することが、公正さを保つ助けにもなる。
第三に、監視することが、テクノロジーを後押しすることもある。

以下、三点それぞれについて見ていこう。

■マイナンバーは「監視社会につながる」は誤り

まず、第一の「平等な社会」について。

題材にするのはマイナンバーである。ポイントの大盤振る舞いなど政府の必死のキャンペーンによって、いまようやく普及してきたマイナンバーカードは、「監視社会反対」の人々から目の敵にされている。しかし歴史を振り返ってみれば、マイナンバーやマイナンバーカードへのそういう批判は実に的外れであることがわかる。

掘り起こしてみよう。マイナンバーのように国民全員に識別番号を持たせるという構想は、実はものすごく歴史が古い。いまから半世紀以上も前、1960年代の終わりにまでさかのぼるのだ。当時の佐藤栄作政権が検討したのが最初である。「統一個人コード」と呼ばれたこの識別番号の目的は、ただひとつだった。それは「株式や預金の利子などで得た収入を税務署が把握するため」である。

■不平等を是正するための「グリーンカード」制度

たとえば、個人事業主がどこかの会社と仕事をして収入を得たとしよう。発注元の会社が申告するので、その個人事業主の収入も税務署に把握される。しかし、その個人事業主が複数の銀行口座や株式口座を持っていると、税務署は収入や資産の全容が把握できない。本腰を入れて税務調査をすれば調べることはできるが、人手と時間と予算がかかるので、すべての人を調査できるわけではない。

特に問題になったのは「マル優」で、ひとり900万円までの貯蓄は非課税になるという制度である。戦後の家庭の貯蓄率を押し上げる功績はあったとは言われているが、お金持ちが家族や親戚の名前を使って口座をつくり、資産を分散させて税金を逃れるという悪い手口が横行していた。

マイナス金利の現在から見ると夢のようだが、当時は銀行にお金を預けると年に4パーセントぐらいの利回りがあったから、900万円でも年間36万円もの利息がついたのである。お金持ちは銀行口座に分散して預けているだけでも、利子でお金をどんどん増やすことができた。

ちなみに、このマル優はさすがにまずいというので1987年には「65歳以上」という制限がつき、2003年からは障がい者などに限定するようになっている。

こうしたお金持ちの「隠れ資産」は不平等である。これを許さないためには、だれがどこに口座を持っているのかを国が把握できるようにしたほうがいい。そこで1980年にはついに、グリーンカードという制度をつくった。名前は似ているが、アメリカの永住権のことではない。日本の所得税法を改正して、国民全員に番号を付与するというものだった。

■国会を通過した法案が潰された

この法改正は国会も通過し、あとは施行されるのを待つはずだったのだが……なんと施行は延期となり、ついには改正法そのものが廃止になってしまっている。いったん通った法律が潰されるという異常な事態である。

その背景には、銀行や中小企業をバックにした政治家たちの暗躍があったと言われている。資産を分散させて隠し持っている中小企業の社長たちが怒り、彼らが資産を預けている銀行をも巻き込んで政治家に圧力をかけ、法律を潰しに走ったのだとされている。

ここで面白いのは、グリーンカードに主に反対したのは読売新聞や日本経済新聞。つまり、どちらかと言えば保守系の新聞であり、左派系(当時は左派やリベラルではなく「革新」という呼び名だったが)の朝日新聞や毎日新聞は、グリーンカードには賛成していた。なぜならグリーンカードが普及すれば税負担が公平になり、庶民にとっては良いことだという論調だったのである。

■1980年代の「反・監視社会ブーム」

ところがこの「左派は国民番号に賛成、右派は反対」という構図は、1990年代ぐらいになるとなぜかひっくり返ってしまう。2002年にマイナンバーの前身のような住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)という制度がつくられたのだが、これに左派系の新聞や市民運動が猛烈に反対したのだ。

住基ネットは住民票のデータを、自治体や国をむすぶコンピューターネットワークで共有しようというものだった。健康保険や年金、児童手当、選挙権、印鑑登録など生活のさまざまな行政サービスをひとつにまとめて、生活を便利にしようというものだった。

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写真=iStock.com/ponsulak
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ponsulak

この住基ネットで共有されるデータは、国民に割り振られた住民票のコードと、氏名・生年月日・性別・住所という四つのデータを全国の自治体や国で共有することで、どこでも本人確認ができるようにしようというものだった。

流出する危険が新聞やテレビでさんざん指摘されたが、クレジットカード番号などプライバシーな情報が扱われるわけでもない。仮に住所や名前が流出したとしても、それが実害につながることは考えにくい。

それなのに、なぜこれに左派が猛烈に反対したのか。

この問題を当時取材していたわたしの認識は、以下のようなものである。

一つめに、1980年代から90年代にかけて「反・監視社会ブーム」のようなものが起きていたこと。

きっかけになったのは、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』(邦訳版は現在、ハヤカワ文庫、角川文庫)である。刊行されたのは1949年だが、小説の舞台になっている1984年の未来がまさにやってきたというので80年代にブームになり、「国民を監視して思考改造をする独裁者ビッグブラザー」という内容がわかりやすかったこともあって、ちょっとでも監視社会っぽい話題になるとすぐに「それはビッグブラザーだ!」とメディアが騒いだりするようになった。

単なるブームに乗ったただのステレオタイプだが、このビッグブラザーブームに標的にされてしまったのが住基ネットだったのである。

■根拠のない「テクノロジー恐怖症」

二つめに、それまでの国民番号制度の議論とは違って、住基ネットでは初めてコンピューターネットワークが利用されたという点。

戦後日本はテクノロジーで驚異的な経済成長を成し遂げたのにもかかわらず、20世紀の終わり頃にもなるとテクノフォビア(テクノロジー恐怖症)が蔓延するようになった。

現在でもわたしがAIなどの最新テクノロジーの話をテレビやイベントなどですると、すぐに「怖い、怖い」とみんなが言いたがる。まるで幽霊や怪異を怖がるようにして、テクノロジーに恐怖を感じているのである。だから、住基ネットも「自分たちのプライバシーが機械に吞み込まれる!」と根拠のない恐怖を感じてしまったのではないだろうか。

テクノフォビアからは、もうそろそろ脱却すべきである。そもそもテクノロジーの進化は決して後退することはない。もしテクノロジーが失われるとしたら、それはわたしたちの文明が滅びるときである。

古代ローマには、水道システムやコンクリート建築などその後の中世世界には存在しなかったさまざまな先端テクノロジーがあったが、ローマ帝国が滅びたことによってそれらのテクノロジーは失われた。そういうことが現代文明に今後起きない限り、テクノロジーの後退はない。

だったら、テクノロジーを活用して社会をより良くしていくことを考えたほうがいいのに決まっている。そもそもテクノフォビアが蔓延してしまったことが、平成30年間の経済停滞を招く要因のひとつだったのではないだろうか。

■コロナ禍で必要性が強調されたマイナンバー制度

2015年から、日本政府はようやくマイナンバー制度を開始している。ついに国民番号制度が全面的に実現しようとしている。これも「国家による監視だ!」とマスコミは騒ぎ、使える用途が現状では限られていることや発行申請の手続きが面倒なことなどもあって、遅々として普及は進まなかった。

しかし2020年からの新型コロナウイルスによるパンデミックで、マイナンバー制度が実は必要だったのだ、と感じる場面が出てきた。

国民ひとりひとり、全員に等しく給付金を配ったりワクチンを接種するには、全員がIDを持っているマイナンバー制度があれば非常にスムーズなはずだと理解されるようになったのである。

コロナ禍ではマイナンバーが普及していなかったため、日本政府が給付金を直接配ったりワクチンを接種することができなかった。かわりに住民全員の住民票の台帳を持っている自治体ごとに実施するしかなく、これがただでさえ感染症対策で忙しかった自治体の負担を非常に重くしてしまったのである。

マイナンバーのような国民IDがあれば、社会保障の不公平感も解消できる。

たとえばいまの高齢者は、少ない負担で豊かな年金を受給している。若い世代になればなるほど、低い支給額なのに大きな負担を強いられる構図である。これは昭和の時代、若者がたくさんいて高齢者が少なかった頃に「たくさんの若者のお金で少ない高齢者の老後を支えればいい」という発想で設計されているからだ。しかし、少子高齢化社会で高齢者と若者の数が逆転してしまっているいまは、どう考えてもおかしい。

■社会を良くする実利に目を向けるべき

しかし高齢者への支給額を減らすことには、猛反発が出るだろう。高齢者の人口が多いので、政治もそっちに目が向いてしまっているのを「シルバー民主主義」というが、こういう現状では制度を変えるのは難しい。

そして新聞やテレビはさかんに「ただでさえ生活が苦しいのに、年金が減るなんて……死ぬしかない」といった高齢の人の切実な声を報じる。こういう声を無視することはできないだろう。

しかしマイナンバーが今後、金融資産と年金受給額を紐づけて政府が把握できるようになったら、どうなるだろう。「生活が苦しい、年金を減らさないで」と言っている人が、実は1000万円以上の銀行預金があるなどというケースも見えてくるかもしれない。政府が新しい方針として「金融資産と現収入の合計で、年金支給額を決めます」と打ち出せば、さすがのマスコミも反論しにくくなるのではないだろうか。

マイナンバーには、社会を良くしてくれるこういう実利がある。

そして、このような制度を「ビッグブラザーだ!」「国民を監視している!」と大騒ぎするのももうやめたほうがいい。監視は国民をただ縛り付けるためのものとは限らない。ちゃんと実利もあり、社会にとって良い面もあるのだ。

■ドラレコも立派な「監視」である

第二の論点に移ろう。監視は、公正さを保つ助けにもなる。

それをわかりやすく体現しているのが、最近普及してきたクルマのドライブレコーダー(ドラレコ)だ。

ドラレコが普及したのは、「乱暴なあおり運転をする人たち」が一定数いるというのが社会に知られるようになったからだ。車間距離をグイグイと詰めてきたり、前方にまわり込んで急ブレーキをかけてみたり、クラクションを鳴らしたりといった行為をする乱暴者たちが車道には存在するのである。彼らに対抗するため、そうした行為の自動記録をしておき、警察に証拠として提出できるドラレコが注目されるようになった。

ドラレコのイメージ
写真=iStock.com/photobyphotoboy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/photobyphotoboy

あおり運転だけでなく、交通事故が起きたときにもドラレコは活用されている。交差点の衝突事故で、「どちらの信号が青だったか」ということで言い分が食い違ってしまうような場合、ドラレコは自分の正しさを証明してくれるのだ。

ドラレコに「監視社会だ」と怒る人はほとんどいないだろう。しかしドラレコも立派な「監視」である。古くさい「監視社会」論者は、この現代的な監視に説明をつけられるのだろうか。

■監視はテクノロジーを進化させる

第三の論点。監視することが、テクノロジーを後押しすることもある。

21世紀のテクノロジーにとって最も重要な要素は、AI(人工知能)である。そしてAIが進化するためには、データがたくさんあることが必要である。

たとえば、2022年末から23年にかけて爆発的な進化を遂げたAIの分野に、ジェネレーティブ(生成型)と呼ばれるものがある。チャットGPTのような対話型AIや、ステイブル・ディフュージョンのような画像生成AIがそうだ。これらが劇的に進化したのは、それまでのAIが限定したデータをもとに訓練していたのに対し、インターネット全体をくまなくまわって収集した巨大なデータで訓練したからである。単純に言ってしまえば、データは多ければ多いほどいいのだ。

■中国だけがAI強国という皮肉な結果に

しかし大量のデータを集めようとすると、どうしても個人のプライバシーにまで踏み込んでしまうことがある。わたしたちがフェイスブック・メッセンジャーやLINEで家族や友人とやりとりしている文面を集めてAIで分析すれば、わたしたちのコミュニケーションの特徴や傾向が収集でき、人とAIがより親密なやりとりをする助けになるだろう。しかし、このようなプライバシーの収集には気持ち悪いと感じ、反発する人も出てくるだろう。

佐々木俊尚『この国を蝕む「神話」解体』(徳間書店)
佐々木俊尚『この国を蝕む「神話」解体』(徳間書店)

難しいのは、ここである。監視に反対しすぎると、AIのテクノロジーが進化しなくなってしまうのだ。「そんなことまでしてAIを進化させる必要はない!」と顔を真っ赤にして怒る人もいそうだが、ことはそう単純ではない。なぜなら中国政府のように個人のプライバシーなど気にしていない国ではAI研究で自由にデータを集めまくることができ、そうすると中国のAIだけが素晴らしく進化していくということになりかねないからだ。

AIが信じられないぐらいに進化している中国と、その進化についていけない日米欧などの西側諸国――そういう構図になってもいいのだろうか? ただでさえ強権国家・中国の軍事的な拡張は懸念されている。そこにAIのテクノロジーのバックグラウンドが加われば、強大なアメリカでさえも勝てなくなる日が来るかもしれない。それは恐ろしい未来ではないだろうか。

■厳しくしすぎず、後押しを

日本経済新聞は「AI規制に漂う『全体主義の亡霊』 自由な研究妨げも」(2021年6月17日)という記事で、山田誠二・国立情報学研究所教授のコメントを掲載している。

「AIを社会に導入することに危機感があるのはわかる。しかし、あまり厳しくしすぎると、技術が育たなくなる。企業活動を制約せずに、後押しするルールにすべきだ」

まったくその通りだとわたしも思う。

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佐々木 俊尚(ささき・としなお)
ジャーナリスト、評論家
毎日新聞社、月刊アスキー編集部などを経て2003年に独立、現在はフリージャーナリストとして活躍。テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆を行う。『レイヤー化する世界』『キュレーションの時代』『Web3とメタバースは人間を自由にするか』など著書多数。総務省情報通信白書編集委員。TOKYO FM放送番組審議委員。情報ネットワーク法学会員。

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(ジャーナリスト、評論家 佐々木 俊尚)

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