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なぜ哲学の入門書は「死ぬほどつまらない」のか…ビジネス教養として哲学を身につけるためのヒント

プレジデントオンライン / 2023年11月25日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/araelf

哲学の入門書にひどくつまらないものが多いのはなぜなのか。コンサルタントの山口周さんは「古代ギリシアの哲学者が出した解答は自然科学でほぼ否定されており、『知的興味』を喚起しにくい。哲学者の結論ではなく、結論に至るプロセスにこそ学ぶものがある」という――。(第1回/全7回)

※本稿は、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■哲学者の論考を二軸で整理する

それなりに哲学に興味は持っているものの、これまでに挫折してきた経験をお持ちの方は多いと思います。まずはこの問題、つまり「なぜ哲学に挫折するのか?」、もっとはっきり言えば「なぜ哲学はツマラナイのか?」という問題について、明確にその理由を示します。というのも、この点を構造的にクリアにしておかないと、結局はまた同じ挫折を繰り返すことになると思うからです。

まず、歴史上の全ての哲学者の論考を、次の二つの軸に沿って整理します。

1.問いの種類 「What」と「How」
2.学びの種類 「プロセス」と「アウトプット」

まずは最初の軸である「問いの種類」について考えてみましょう。

哲学は古代ギリシアの時代に始まり、以来様々な哲学者が様々な思考を展開したわけですが、それら全ての歴史上の哲学は、次の二つの問いに対してなんとか答えを出そうとした取り組みとして整理できます。

1.世界はどのように成り立っているのか?=Whatの問い
2.私たちはどのように生きるべきなのか?=Howの問い

例えば「モノは何から成り立っているのか」という問題に取り組んだ古代ギリシアのデモクリトスは、典型的に「Whatの問い」に取り組んだ哲学者ということになりますし、キリスト教道徳の超克を念頭において「近代人はどのように生きるべきか」という問題に向き合い、「超人」という概念を提唱したニーチェは、典型的に「Howの問い」に取り組んだ人として整理することができます。

■多くの人が哲学に挫折する理由

さて、ここからは「なぜ哲学に挫折するのか?」という問題について考えてみましょう。先述した通り、哲学者が取り組んできた「問いの種類」には、「Whatの問い」と「Howの問い」の二つがあるわけですが、過去の哲学者が「Whatの問い」に対して出した答えの多くは、現代の私たちからすると、「間違っている」か「正しいけど陳腐」なものが多いのです。

特に、古代ギリシアの哲学者たちが「Whatの問い」に対して出した解答は、自然科学によって現在はほぼ全て否定されています。例えば、古代ギリシアの哲学者たちは、全てのものは「火」「水」「土」「空気」という四つの元素から成り立っていると考えていましたが、この主張は、元素というものの存在を知っている現在の私たちにとっては単に誤った主張でしかありません。

一方で、初学者向けの哲学の教科書は通常、年代順に編纂されており、たいがいは古代ギリシアからスタートしています。ここに、初学者が挫折してしまう大きな要因があると、筆者は思っています。

勢い込んで哲学の入門書を開いてみたものの、最初の50ページに出てくるのは、現在の私たちからすると非常に幼稚に見える、あるいは完全に間違っているものばかりなわけです。これでは「こんなことを学んで一体何の意味があるのか?」と感じてしまうのも仕方がありません。

これが、哲学に挫折する大きな要因の一つ目です。

■アウトプットとプロセスという「学びの軸」

さて、では古代ギリシアの哲学者の論考から、私たちが学べるものはないのでしょうか? いえ、そんなことはありません。ここで登場してくるのが、先ほど紹介した、哲学者の論考を整理する軸の二つ目、すなわち「学びの種類」という軸です。

古代ギリシアの哲学者の多くが「世界はどのように成り立っているのか?」という「Whatの問い」に向き合った、という点についてはすでに説明しました。

さて、この「Whatの問い」に向き合った彼らから、一体何が学べるのか? ここで「学びの種類」という軸について考えてみましょう。繰り返せば、哲学者の考察から私たちが得られる学びには次の二つの種類があります。

・プロセスからの学び
・アウトプットからの学び

プロセスとは、その哲学者がどのようにして考え、最終的な結論に至ったかという思考のプロセスや問題の立て方を意味しています。一方で、アウトプットとは、その哲学者が論考の末に最終的に提案した回答や主張を意味します。

■結論は陳腐でも論考の過程にみずみずしい学びがある

この枠組みで考えてみれば、古代ギリシアの哲学者たちが至った結論である「世界は四つの元素から成り立っている」という指摘は、アウトプットということになるわけですが、ではこのアウトプットから現在の私たちが何かを学べるかというと、もちろん何もありません。せいぜい、頭の良かった古代ギリシアの哲学者たちも、こんな世迷いごとをほざいていたんだな、というくらいの学びしかないでしょう。

しかし一方で、彼らがどのようにして世界を観察し、考えたかというプロセスについては、その限りではありません。そこには現在を生きる私たちにとっても大きな刺激となる、みずみずしい学びがあります。

例えばソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろ、アナクシマンドロスという哲学者がいました。そのアナクシマンドロスがある日、ふとしたきっかけから当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」ということなんですね。なるほど、確かにその通りです。

■学びのミソはアウトプットではなくプロセスにある

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり水を支えている「何か」がなければならない、と考えると、その「何か」もまた別の「何か」に支えられている必要がある、ということです。アナクシマンドロスはこのように考えた結果、「何かを支える何かを想定すれば無限に続くことになるが、無限にあるものなどありえない……。そうなると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いていると考えるしかない」と推論したわけです。

アナクシマンドロス
ラファエロ・サンティ画・アテナイの学堂・部分(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

アナクシマンドロスが最終的に出した「大地は何物にも支えられていない、宙に浮いている」という結論は、現在の私たちにとって陳腐以外の何物でもない。つまり、先ほどの枠組みで言えば「アウトプットからの学び」はないということになります。

一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度や思考のプロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑みにせず、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような態度とプロセスは、現在の私たちにとっても大いに刺激になります。

まとめればこういうことになります。つまり、アナクシマンドロスが残した論考について、現在を生きる私たちにとっての学びを考えると、それは「プロセスからの学び」であって、最終的な結論としての「アウトプットからの学び」は、刺身のツマのようなもので、学びの「ミソ」はそこにはないということです。

■「我思う、ゆえに我あり」も意味自体は普通

このアナクシマンドロスのようなケース、すなわち「プロセスからの学びは大きいけれども、アウトプットからの学びは貧弱」という哲学者はたくさんいて、例えばデカルトもその典型例と言っていいと思います。

ルネ・デカルト
※写真はイメージです(写真=iStock.com/ilbusca)

デカルトが「我思う、ゆえに我あり」という言葉を残したことは非常によく知られていますね。これはつまり「どんなに確からしさを疑ったところで、今ここに思考している自分自身の精神があるということだけは、否定できない」という意味ですが、現代社会で普通に市民生活を送っている私たちが唐突にこんなことを言われても、ほとんどの人は「ええ、まあそれはそうでしょうね」といった反応をするしかないでしょう。これは要するに、デカルトの考察もまた「アウトプットからの学び」ということについては、それほど豊かなものは得られない、ということです。

山口 周(著)『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)
山口 周(著)『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)

しかし、「プロセスからの学び」ということについては、アナクシマンドロスと同様にその限りではない。つまり、そこには豊かな学びがあるわけです。

評論の神様と言われた小林秀雄は、デカルトの『方法序説』について「これはデカルトの自伝である」と言い切っています。自伝、つまり「私はこのようにして疑い、考えてきた」という、「考察の歴史」を記したものだ、と言うんですね。これは本当にシャープな指摘で、私たちは、デカルトがどのように悩み、考えながら、最終的に「我思う、ゆえに我あり」という結論に至ったかを知ることで、初めてデカルトの「哲学」を学ぶことになるわけです。

■定番教科書はアウトプットにしか触れない

しかし、ではその考察の過程を初学者向けの教科書が紹介しているかというと、全くそうではない。程度の問題はあるにせよ、ほとんどの定番教科書は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という、有名なアウトプットを紹介し、ごく簡単にこのアウトプットがいかにすごいかということについて書いているのですが、厳しい言い方をすれば、これは一種のウチワ受けでしかありません。

ここにも初学者がつまずいてしまう大きな要因があります。高名な哲学の先生から、「ここは非常に重要」と言われても、その重要さがさっぱりわからないということになると、これはどうしても「自分には向いていないな」ということになってしまう。学問を続けるのに絶対に必要な「知的興味」が喚起できないんですね。

整理すれば、つまり「初学者が哲学に挫折する理由」は、

哲学者の残したアウトプットを短兵急に学ぼうとするものの、アウトプットがあまりにも陳腐であったり誤っていたりするために「学ぶ意味」を実感できないから

ということになります。

上記の轍を踏まないためには、短兵急にアウトプットだけを知りたい、教えたいという気持ちを抑え、むしろそのアウトプットを主張するに至った思考のプロセスや、問題に向き合う態度を知る/教えることが重要だ、ということになります。哲学の面白さ、現在を生きる私たちが哲学を学ぶ意味は、まさにその部分にあるからです。

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山口 周(やまぐち・しゅう)
独立研究者・著述家/パブリックスピーカー
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。

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(独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 山口 周)

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