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これができないと孤独な老後が待ち受ける…87歳医師が「老年になったら徹底すべし」と説く生活態度

プレジデントオンライン / 2023年11月9日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nes

老後を幸せに生きるにはどうすればいいか。浜松医科大学名誉教授の高田明和さんは「年を取り、何もせずにいると孤独を感じるようになる。そのため時間を埋めるために何かをしようとするが、貪欲に陥らないように注意すべきだ。かつて孔子が『満ちて覆らないものはない』と述べたように、『満ちた』『できあがった』と思ったらダメになるし、得たものも失うことになる」という――。

※本稿は、高田明和『孤独にならない老い方』(成美堂出版)の一部を再編集したものです。

■下界と遮断された空間に長くはいられない

天国に一人でいたら、これより大きな苦痛はあるまい。

小説家 ゲーテ

死ぬということはどういうことなのでしょうか。

誰にもわかりません。ただ、人々にもう会えなくなることだけは確かです。

それについて、私は次のように考えることがあります。

絶海の孤島に、豪華クルーズ船も顔負けの施設が完備した巨大ビルがあります。世界中の料理と美酒が食べ飲み放題です。ショーや音楽などを楽しめ、ジムやプールで運動ができ、邸宅のような居室でくつろげます。

ただし、外界とは遮断(しゃだん)されています。出ることはできず、外の情報を得たり、情報を発信したりはできません。

死が近づいた時、神様から、「このビルに入れば少し長生きできるが、行くか? ただし、ビルから出て現世に戻れば、これまでの記憶を失い、現世で築いた人間関係から財産や業績まで、すべてゼロになる」と聞かれたら、どう答えるでしょう。

「行く」を選んだ場合、最初はビルの生活を大いに楽しむでしょう。しかし、時がたつにつれ、毎日会う人もやることも同じという生活に退屈してきます。

ついには神様に、「財産も業績もいらないし、他人が私のことを一切知らなくてもよいです。長生きも求めません。現世に帰してください」と願うに違いありません。

■介護施設に一人で入っても孤独ではない

つまり、人々と交流できることは、幸せの一大条件といえるのです。自由にコンビニに行ける、外に出て公園を散歩できるといったことは、財産や業績などよりも、はるかに大切なのです。

生きることはそれだけですばらしいのですが、たった一人の世界では意味がありません。

私たちは一人でいても、いつでも誰かに連絡でき、行きたいところに行けるなら、孤独ではないのです。誰にも連絡できず、外に出られず、会いたい人に会える望みも断たれているというのなら、それが孤独です。

そう考えると、介護施設で介護士から手厚い扱いを受けている人は、孤独ではないでしょう。

介護施設に入ると、家族はあまり見舞いに来なくなります。まったく面会に来ない家族もいます。しかし、だから孤独だということはないのです。

介護施設に入っている元大学教授の知り合いが数多くいます。

介護施設では、入居者を「さん」づけで呼びます。

私たち医師、とくに大学教授や病院長などをやった人は、常に「先生」と呼ばれてきましたから、「さん」と呼ばれるのは少し屈辱的なのです。

それでも不満を言うことなく施設にいるのは、孤独でないからなのです。

車椅子の高齢者と公園で散歩する介護士
写真=iStock.com/imacoconut
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imacoconut

■老年になれば、孤独にならない生き方が重要

私は、晩年の幸福はどれだけ孤独でない生き方ができるかによって決まると考えています。孤独を避けたいと思うなら、最後の日々を過ごす場所で自分が親切にされる方法を考えることが大切です。

若い時は、孤独に耐えて大事をなしとげるといった生き方もあるでしょう。しかし、老年になれば、孤独にならない生き方が重要になります。

「家族といつも一緒でなくては孤独だ」といった狭い考え方をしないほうがいいのです。

人といつでも交流できることは、幸福の一大条件。

自分を発信できていれば孤独ではないのです。

■「お一人さま→孤独→不幸」は短絡的すぎる

人間は、孤独な存在であると同時に、社会的な存在なのです。

物理学者 アインシュタイン

お盆や年末年始に、帰省や旅行のニュースが流れます。駅や空港で、「どこに行くのですか」と聞かれて、「おじいちゃんのところ」などと子供が答えます。帰ってきた子供に「面白かった?」と聞くと、「魚を取ったりして楽しかった」などと笑顔を見せます。

毎年恒例の光景ですが、「子供」は常に幼児か、小学校低学年です。

つまり、中高校生が盆暮れに親と旅行することはまずないのです。部活や受験で忙しかったり、親と一緒に行動するのを面倒くさがるようになるからです。

人は結婚していても、していなくても、子供がいても、いなくても、いつかは一人になります。「結婚して子供がいれば、一人にはならないだろう」というのは希望的観測です。

現代では、子供がいても親のもとに寄りつかないようになっています。子供は、面倒くさい親との関係を避けるようになっているのです。

「子供が訪ねてこない」と嘆く親が非常に多くなっています。

ただし、お一人さま→孤独→不幸という図式は、あまりに短絡(たんらく)的です。そんな図式で老後を考えてしまうのは、不幸の要因になります。

■たわいない雑談にも大きな価値を見い出す

私は、一人になったら小さなことに喜びを持つようにするのがいいと考えています。

たとえば、私の経験では、かなり高齢になっても、自分で料理はできるものです。何を買い、どう調理して食べるかも重要な喜びになります。

あるいは、趣味を喜びにする人がいます。デイサービスに通う知人女性は、趣味のトランプや麻雀で楽しんでいるようです。よいことだと思います。

しかし、高齢になるにつれて、仲間と一緒に遊ぶことができにくくなります。目が悪くなったり、耳が遠くなったり、足が痛み出したりするのが避けられないからです。

そうなると、もう喜びはなくなるのでしょうか。そんなことはありません。

友人や知人が、「最近どうですか」と電話してきて、「ありがとうございます。目がだいぶ悪くなっていますが、なんとかがんばっています」と答えるようなことだけで、十分な喜びになります。

定期的に連絡できる相手がいれば、最高です。たわいない雑談でいいのです。

「今日はこんなことがあった。明日はこんなことをする」などと話し合える人がいるだけで、心豊かに生きていけます。

「子供さえ電話をくれないのに、そんな相手ができるとは思えない」と言う人がいるでしょうが、そんなこともないのです。

これからは、非常に多くの人が一人暮らしをするようになり、孤独を恐れるようになります。

ですから、心を開いて話しかければ、昔の友人、同級生、同僚から、最近知り合った人まで、男女を問わず、必ず喜んで応えてくれるのです。連絡したりされたりすることが、お互いの支えになるのです。

携帯電話で話す高齢の女性
写真=iStock.com/psisa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/psisa

■「晩年になっても孤独にならない人生」は自分で選べる

くり返しますが、孤独とは一人でいるということではないのです。最近の社会では、誰もが一人になりがちです。

しかし、連絡すれば話せる人がいるなら、孤独ではありません。

監獄の独房に入っている人は孤独です。しかし、一人で自分の部屋にいる人は、誰かに連絡しようと思えばできますし、会いに行きたければ出かけられます。つまり、孤独ではないのです。

遺産の問題でもめて口もきかなくなった兄弟姉妹とか、離婚話がもつれて相手をののしり合うかつての夫婦なども、孤独ではないのです。

喧嘩をする高齢の夫婦
写真=iStock.com/imtmphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imtmphoto

ただし、ものすごく不幸です。

孤独ではないが不幸であるという状態なのです。

「晩年に一人暮らしになりたくない」と思っても、それは自分では決められません。

しかし、「晩年になっても孤独にならない人生」は、自分で選ぶことができると思っています。

人とつながる小さな努力は、年配者にこそ重要である。

自分のまわりに壁を築かないようにしましょう。

■「もう」を増やし、「もっと」を減らしていく

老人が落ち込むその病気は、貪欲(どんよく)である。

詩人 ミルトン

若い頃は、何もせずに時間を過ごすことに苦痛を感じるものです。年を取ると、さらに、何もせずにいると孤独を感じるようになります。

そこで、時間を埋めるために何かをしようとしますが、その時、「もっと、もっと」という貪欲に陥らないように注意すべきです。

人間は年を取ると、体力、気力が衰えて、欲望のおもむくままに動けなくなります。「もうこのへんでよしとしよう」と思い始めます。年齢が私たちを中庸(ちゅうよう)に落ち着かせてくれるとも考えられるのです。

一方、年を取っても、欲はなかなか衰えません。

そのため、まだ儲ける力があれば「もっと儲けたい」、社会的地位があれば「もっと不動にしたい」、権力があれば「もっと制覇したい」と思うものです。

「もうこのへんで」と思う一方で、「もっと、もっと」と欲するのが人間なのです。

■孔子「満ちて覆らないものはない」

中国の修養書『菜根譚(さいこんたん)』に、欹器(いき)という銅器の記述があります。中が空(から)だと傾き、水を半分くらい入れるとまっすぐに立ち、水が満杯になるとひっくり返るようになったうつわです。

孔子が魯(ろ)の国の廟(びょう)でこの欹器に目を止め、弟子に水を注がせてみました。すると確かに、満杯になったとたんひっくり返って、水は全部こぼれてしまったのです。

孔子は、「満ちて覆(くつがえ)らないものはない」と慨嘆(がいたん)したといいます。

つまり、「満ちた」「できあがった」と思ったらダメになるし、得たものも失うことになる、というのです。

古来、中国は争いが絶えない社会でした。国内部の叛乱(はんらん)、隣国からの攻撃、異民族の侵入などにさらされ、安定した時代は短かったともいえます。

さらに、自分の所属社会でも、出世競争や家の間の争いが激しく、いつ足をすくわれるかわからないのが普通でした。

このため、中国には「満ちれば欠ける」「目立つな」「油断は禁物」といった戒めの言葉が数多くあります。欹器の話も、無欲と強欲のどちらにも偏(かたよ)らない中庸の大切さを教えているのでしょう。

欲望には際限がありません。欲に任せて、年寄りの冷や水的な行動をするのは、危険だと思います。欹器のようにひっくり返りかねません。

無欲と強欲の、どちらにも偏らない。

何事も六~七分をよしとしましょう。

■成功者ほどリタイア後の孤独感は強い

人はいくつになっても、どれほど成功していても、他人に認めてもらうことに飢えている。

人生コーチ ステファン・ポーラン

私たちは、人々に忘れられていくのを悲しく思います。

たとえば、年を取って社会の第一線から遠ざかると、「自分はもう忘れられたのだ。誰からも相手にされないのだ」という思いが急に強まり、非常な孤独を感じます。

皮肉なことに、業績をあげた人、業界や社会で名が通るようになった人ほど、リタイア後の孤独感は強くなります。

群衆の中で一人で立つビジネスマン
写真=iStock.com/stockstudioX
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/stockstudioX

映画『アバウト・シュミット』に、ジャック・ニコルソンの定年パーティの場面があります。ニコルソンの後任者は「彼がいたから、わが社は発展した。私も見習います」などと賞賛します。

ところが、ニコルソンはうっかり翌日も出社してしまいます。すると、後任者は当惑した感じです。

「わからないことはない?」と聞いても、「大丈夫です」とけんもほろろで、ニコルソンは、もう自分の出る幕はないことを痛感して引き下がるのです。

■年をとると賞賛を求める理由

私は最近、年を取ると、批判や悪口に耐えられなくなるということがわかってきました。とにかく悪く言われたくないのです。

私は、世の中は嫉妬で動いていると考えているので、批判や悪口も嫉妬の感情が大半を占めており、必ずしも正しいとはいえないと思っています。

しかし、批判や悪口にも、三分(さんぶ)の理があるのは事実です。つまり、痛いところは衝(つ)いているのです。

そこで、若い時は、批判されないように必死に努力します。

しかし、年を取ると、昔なら無視できたようなちょっとした批判に対しても、「自分はやはりダメなのではないか」と弱気になってしまうのです。

批判に耐えられなくなることの逆作用として、とにかく賞賛を求めるようになります。

ところが、そうなると今度は、少しでも認められなかったり、無視されたりするだけで、「お前はもうおしまいだよ」と言われている気がしてくるのです。

■何もしないことも自己を磨く修行

人生100歳時代になると、いつまでも社会に貢献をしたいと、多くの人が思うようになります。そして、ある程度は認められたいと願います。

しかし、それは「自分では若いつもりでいても、今の社会に受け入れられないのではないか」という不安と表裏一体なのです。

だから批判に非常に敏感になりますし、「認められたい」と強く思うのです。

高田明和『孤独にならない老い方』(成美堂出版)
高田明和『孤独にならない老い方』(成美堂出版)

ある人が、忘れられたくないために何かをせずにいられないことに苦しみ、静岡県三島の龍沢寺(りゅうたくじ)の中川宋淵(そうえん)老師に相談したそうです。

老師は黙って聞いていましたが、「何もしなければ本当に誰も相手にしなくなるか、試されたらどうですか」と言われたということです。

仏教では、何もしないことも自己を磨く修行とされます。そういう「無為(むい)の修行」で徳を積んだらどうか、それだけの報いはある、と老師は諭(さと)されたのだと思います。

誰もが、いずれ死んで忘れられるのです。生きているうちに少しずつ忘れられるのは苦しいものですが、自分で解決するしか方法はないのです。

批判が嫌なら、賞賛を求めないことだ。

「ホメラレモセズ苦ニモサレズ/ソウイウモノニ私ハナリタイ」と宮沢賢治が詠った境地は、年配者にこそ当てはまるのです。

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高田 明和(たかだ・あきかず)
浜松医科大学名誉教授 医学博士
1935年、静岡県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業、同大学院修了。米国ロズウェルパーク記念研究所、ニューヨーク州立大学助教授、浜松医科大学教授を経て、同大学名誉教授。専門は生理学、血液学、脳科学。また、禅の分野にも造詣が深い。主な著書に『HSPと家族関係 「一人にして!」と叫ぶ心、「一人にしないで!」と叫ぶ心』(廣済堂出版)、『魂をゆさぶる禅の名言』(双葉社)、『自己肯定感をとりもどす!』『敏感すぎて苦しい・HSPがたちまち解決』(ともに三笠書房≪知的生きかた文庫≫)など多数ある。

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(浜松医科大学名誉教授 医学博士 高田 明和)

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