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アラブ人は400年間、平和に暮らしていたのに…「パレスチナの飛び地・ガザ」が主戦場になった歴史的理由

プレジデントオンライン / 2023年11月10日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ringo sono

パレスチナ自治区「ガザ地区」を実効支配するイスラム組織「ハマス」とイスラエルとの戦争が激化している。なぜガザ地区が戦争の舞台となってしまったのか。戦史・紛争史研究家・山崎雅弘さんの『新版 中東戦争前史』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■ガザ地区の面積は「東京都の6分の1」

ガザは1987年にイスラエル軍に対するパレスチナ人の一斉蜂起「インティファーダ」が発生した場所だったが、それから20年が経過した後も、同地に住む人々の生活環境はほとんど改善されていなかった。

現在「ガザ地区」と呼ばれている領域は、総面積約360平方キロの乾燥した帯状地帯であり、南西部でエジプトとの国境線が11キロある他は、イスラエルと東地中海に両脇と北東部を囲まれた「三面楚歌」の形となっている。

地中海の海岸線に沿って北東から南西へと伸びる、ガザ地区の中心軸附近での長さは約42キロで、海から内陸への奥行きは、広い場所では12キロあるが、最も狭い場所では6キロしかなく、日本に例えるなら面積で東京都の約6分の1、領土の長さは渋谷から横須賀あたりまでという、比較的小さな土地である。

■地中海沿岸の栄華盛衰を見守ってきた土地

ただし、ガザ地区が現在のような形状で周囲から隔絶されたのは、1949年に第一次中東戦争が終結して以後のことで、それまでは周囲の領土(パレスチナ)と一体化した形で、地中海沿岸に次々と現れては消えた王国や帝国の栄華盛衰を見守り続けていた。

新石器時代の紀元前6000年頃には、この附近で人間が生活していた痕跡があり、紀元前1175年頃には、古代エジプトが軍事拠点を置いていたガザを、東地中海で覇権を確立したペリシテ人が奪い取った。

その後、紀元前1020年頃にガザ東方のエルサレム附近でヘブル(ユダヤ)人王国「イスラエル」が誕生すると、同王国はダビデ王の下で支配権を拡大、紀元前1000年頃にはガザ周辺もイスラエル王国の領土へと編入された。

■16世紀からの400年間は平和な時代だった

しかし、紀元前922年にイスラエル王国が分裂して衰退すると、ガザの支配者はアッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ(マケドニア)、ローマへと移り変わり、紀元後70年にはイスラエル王国の末裔であるユダヤ人たちがローマ人にこの地から追放されて、海外への離散(ディアスポラ)を強いられることとなった(本書の第一章を参照)。

1099年、聖地エルサレムの奪回を目指すヨーロッパのキリスト教勢力(十字軍)が地中海沿いの進撃路に位置するガザを占領し、これをガドレスと改名した。

だが、13世紀初頭に十字軍が敗退すると、パレスチナは再びトルコ系のイスラム勢力によって占領され、ガドレスの地名はガザへと戻された。そして、1516年にオスマン帝国がパレスチナの支配権を握ると、ガザ附近のアラブ人たちはそれから400年間、同帝国の治下でイスラム社会を築いて平和な生活を営んでいたのである。

■悪化の一途をたどったパレスチナ難民の生活

1948年から49年にかけて戦われた第一次中東戦争(第三章を参照)でのエジプト軍の奮戦により、地中海沿岸のガザ地区は建国当時のイスラエルの領土には含まれず、暫定的に隣国エジプトへと併合された。

だが、辛うじてアラブ側の支配地に留まった狭いガザ地区には、イスラエル支配地域から逃れてきた大勢の難民が流入し、その数はパレスチナ難民全体の26パーセントに当たる、19万人に達していた。

それから18年後の1967年6月5日、イスラエル軍はエジプトに対する奇襲攻撃と共に第三次中東戦争(第五章を参照)を開始し、ガザ地区は再びイスラエルの占領下に置かれることとなった。

この戦争での大勝利により、イスラエルの国土は一挙に4倍以上へと拡大したが、ガザ地区では従来のパレスチナ難民に加えて、当初から同地に住んでいたパレスチナのアラブ人も、イスラエルの占領統治下で自由を奪われた生活を強いられることとなった。また、イスラエル政府は、ただでさえパレスチナ人の人口密度が高いガザ地区内にユダヤ人の入植地を次々と開設し、自国民のガザ地区への入植を積極的に推進する政策をとった。

その結果、ガザに住むパレスチナ人はますます狭い土地へと押し込められた上、条件のよい肥沃な土地は、ほとんどがユダヤ人入植者によって奪い取られていた。

■精神的な拠り所となったのはハマスだった

職のないパレスチナの若者は、屈辱と不条理への憤りを胸に秘めながら、彼らが「自分たちの土地」と見なす場所に入り込んできたユダヤ人入植者の家を建てる建設工事に、作業員として従事せざるを得ない状況へと追いやられた。

1987年の「インティファーダ」発生の背景には、こうしたガザのパレスチナ住民の間で鬱積(うっせき)した不満と怒りのマグマが存在していた。その後、1993年の「オスロ合意」と1995年の「オスロ・ツー」(第九章を参照)により、ガザをめぐる情勢は改善の兆しを見せたが、翌1996年に第一次ネタニヤフ政権が発足すると、イスラエルの政策は再び、パレスチナに対して非宥和的な方向へとシフトしていった。

そんなガザ地区において、貧困と絶望の中で日々を暮らす人々の支持を集め、精神的な拠り所となっていたのが、アハメド・ヤシン師を指導者とする「ハマス」だった。

第九章で述べた通り、ハマスが創設されたのは、ガザでインティファーダが起こった直後の1987年12月14日だった。この時点で、ガザ地区には95万人のパレスチナ人が住んでいたが、その約半数に当たる45万人は難民として流入した人口だった。

■イスラエルは「ハマス殲滅作戦」を開始

2001年2月の首相公選で、シャロンがイスラエル史上最大の得票率(62.6パーセント)を得て大勝利を収めると、彼はハマスに対して徹底的な殲滅作戦を開始した。その中でも、国際社会でとりわけ大きな非難を浴びたのが、ハマスの幹部を狙い撃ちにして次々と殺害する「ターゲッテッド・キリング(標的殺害)」と呼ばれる作戦だった。

最初のうち、イスラエル軍の標的(ターゲット)となったのは、自爆攻撃を計画・準備する現場レベルのハマス幹部だけだった。だが、この手法では一向に埒があかないと判断したシャロンは、ハマスの最高幹部をも標的にすることを許可し、2003年6月10日にハマスのナンバー2であるアブドゥル・アジズ・アル・ランティシの自動車に対して、イスラエル軍のヘリコプターがミサイルを発射するという事件が発生した。

障壁を守るイスラエルの兵士
写真=iStock.com/Joel Carillet
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Joel Carillet

■ハマス指導者を殺害する一方、ガザ地区から撤兵

この時にはランティシは辛くも生き延び、ただちに自爆攻撃による報復が行われたが、シャロンはあきらめなかった。2004年3月22日、早朝の礼拝を終えて車椅子でモスクから出たヤシン師と彼の護衛二人が、イスラエル軍ヘリのミサイル攻撃を受けて即死し、4月17日には、再度標的となったナンバー2のランティシも殺害された。

こうした暗殺行動と並行して、シャロンは2004年6月6日に閣僚を召集し、ガザ地区全域と西岸地区の4カ所からユダヤ人入植地を撤去するとの方針を伝えた。シャロンはそれまで、対アラブ強硬派のシンボル的存在と見なされていたため、パレスチナ側への譲歩とも受け取れるこの政策変更は、リクード党内部でも激しい非難に晒された。

だが、シャロンはイスラエルの存続にはガザ地区の放棄もやむを得ないとの考えから、ガザ地区全体の5分の1を占めるユダヤ人入植地と、同地に駐留するイスラエル軍の撤退を強行し、2005年9月12日には、ガザ地区のユダヤ人は完全に姿を消した。

■「二つの国家の共存」とは正反対の方向へ

ガザ地区からの撤退完了から2カ月後の11月21日、シャロンは入植地の撤退策への反対論が根強いリクード党党首を辞任して同党を脱退し、翌22日に新たな政党「カディマ(前進)」の設立を発表、自ら党首に就任した。11月28日、シャロンはカディマの基本政策を、次のように説明した。

「イスラエルは、パレスチナ人に領土面で譲歩し、長い対立の時代に終止符を打ち、ユダヤとアラブという二つの民族の二つの国家が共存する形を実現すべきである」

山崎雅弘『新版 中東戦争前史』(朝日文庫)
山崎雅弘『新版 中東戦争前史』(朝日文庫)

イスラエル軍人として祖国防衛に生涯を捧げたシャロン(第九章を参照)は、凶弾に倒れたラビン同様、武力だけでは永遠にイスラエルの平和を実現できないことを悟り、対話と相互譲歩によって問題の解決を図ることに最後の望みを託した。

だが、それから44日後の2006年1月4日、シャロンは突然重度の脳卒中で倒れ、意識不明の重体となってしまう。

そして、ガザ地区をめぐる状況は、対話と相互譲歩による問題解決というシャロンの思惑とは正反対の方向へと急展開していくことになる。

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山崎 雅弘(やまざき・まさひろ)
戦史・紛争史研究家
1967年大阪府生まれ。軍事面に加えて政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、新聞、雑誌、ネット媒体に寄稿。著書に『[新版]中東戦争全史』『1937年の日本人』『中国共産党と人民解放軍』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。

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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

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