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なぜ人は、田中角栄の話に聞き入ってしまうのか

プレジデントオンライン / 2023年11月10日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/brazzo

生まれながらの才能だと思われがちな話す能力。しかし話し上手をマネすれば、誰しも成長する可能性はある。「プレジデント」(2023年12月1日号)の特集「話し上手入門」より、記事の一部をお届けします――。

■古典の中に答えはあった! 能から学ぶ「真似の極意」

能の大成者といわれる世阿弥は、真似ることの深淵について言及してきた。作家の林望氏が「言葉」と「真似」を語る。

■学校や本では言葉づかいは学べない

人は一番初めに使う母語を、どのように獲得するのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんは何も話せませんが、家族や周囲の人たちの話す言葉を真似ながら、少しずつ言葉を覚えていきます。そのため、言語を獲得するうえで、環境は非常に重要です。子どもの頃に不十分な言語環境で育つと、洗練された言葉づかいはなかなか身につきません。以前、高校生ぐらいで海外から日本に戻り、日本の学校になかなか適応できない帰国子女の子どもたちを教えたことがありました。適応できない最大の原因は、敬語の欠如など、言葉づかいが洗練されていないせいでした。

洗練された言葉づかいの一つとして、話す相手によって言葉を使い分けることが挙げられます。日本語は、位相によって使う言葉が変わってきます。代表的なものが「男言葉」と「女言葉」です。徐々になくなってきてはいるものの、今でも男らしいしゃべり方・女らしいしゃべり方は残っています。また、相手が目上か目下か、親しいか親しくないかによっても言葉づかいは変わります。

海外で生まれて外国語で話す環境で育つと、こうした違いはわかりません。例えば英語の場合、相手が誰であっても「You」と呼びますが、日本語の場合、目上の人を「あなた」と呼ぶのは失礼に当たります。こうした言葉づかいの違いは、本を読んでもなかなかわかりませんし、学校でも教えてくれません。教えてくれるのは、やはり育った環境です。小さい頃は、お父さんとお母さんの会話などを通じて、男言葉と女言葉があることを学びます。さらに成長する過程で、目上の人に対する敬語の使い方や、大人としてのきちんとした話し方などを、周囲の人たちと接する中で見聞きし、「こういう言い方がふさわしいんだ」「ああいう言い方はいけないんだ」と学びながら、言葉を洗練させていくわけです。

したがって、親子関係や友人関係、学校での先生と生徒の関係、会社の上役と下役の関係など、さまざまな人間関係の中に身を置き、常にアンテナを張っていないと、洗練された言葉づかいというのはなかなか身につきません。

室町時代に能を大成させた世阿弥は、能楽論書『風姿花伝』の中で、演じ方についてこのように述べています。身分の高い人を演じるときは、言葉づかいや動作をよく研究し、その世界をよく知っている人に教えを乞うこと。逆に下品な人を演じる際は、あまり精緻に真似ると、見るほうが嫌になるからほどほどにしておけ、と。これにならえば、私たちも日常生活の中で、美しい話し方をする人や感じの良い人を注意深く観察して、良いと感じた部分を積極的に真似ていくことが大事だと思います。

【図表】世阿弥が説いた真似の心得

美しい言葉を真似ることの大切さは、日本に限ったことではありません。私がイギリスに滞在していた頃に出会った、一部の語学留学生は、品のない英語をしゃべっていました。語学学校に通う仲間同士でしゃべる分にはそれで構いませんが、もし相手が然るべき立場や身分の人だったら、そのしゃべり方では馬鹿にされて相手にしてもらえないでしょう。そういう英語を話す人たちと日本語で話してみると、日本語にも品が欠けていました。つまり彼らには、母語であれ外国語であれ、自分の話している言葉がどのような言葉なのか、自覚がないわけです。

言葉を上達させるには、上品な言葉か下品な言葉かを聞き分ける注意力が必要です。自分が話している母語である日本語が、一人前の人間としてふさわしい言葉であるか、それともだらしない言葉であるかという意識もない人は、外国語も上達できません。

イギリスのような階級社会で暮らすと、言葉の大切さがよくわかります。どういう英語を話すかで、信用が全く異なるのです。イギリスのエリートは皆、「オックスブリッジ・アクセント」といわれるしゃべり方をします。そうでないと信用されないのです。マーガレット・サッチャーの後に首相になったジョン・メージャーは、高学歴ではありませんでしたが、やりすぎだといわれるくらい、オックスブリッジ・アクセントでしゃべっていました。

日本もイギリスほどではないにせよ、話し方によって受ける印象は変わりますから、洗練された話し方を意識して身につけることは大切です。ただ、話し方は環境から学ぶもので教えようがありません。だから、自分が見習いたいと思った人がいれば、その人の話し方を意識的に真似て身につける必要があります。

■「死んだ言葉」で話さないために

私は仕事柄、さまざまな職業の人と話す機会がありますが、一流の人と話をすると「立派な話し方をするな」と感じることが多いです。言葉が丁寧な人は、態度も感じが良いもので、第一に謙虚です。人の上に立って良い仕事をする人で、威張る人に会ったことがありません。偉い人ほど、言葉も態度も優しく、へりくだった感じがします。

それはおそらく、その人が若い頃に、上の世代の人たちの立ち居振る舞いを見ながら、「ああいう威張り方はよくないな」「目下の人にも優しく接するのは尊敬できるな」などと、意識的に真似る対象を選んで学んできた結果ではないかと思います。私自身も、若かった頃に出会った人たちに学び、感じの良い人のことは真似るようにし、逆に印象の悪かった人は反面教師として真似をしないように努めてきました。

私が話し方に魅力を感じる人物の一人が田中角栄です。いわゆるインテリではないし、上品な話し方ではありませんが、一度会った人はみんな、角栄さんの虜になるといわれました。今でも演説を聞くと引き込まれます。その理由は、最近の日本の政治家と違い、話すときに原稿を見ず、自分の言葉で話しているからです。

政治家に限らず、相手に何かを伝えたいのであれば、話すときに原稿を読んではいけません。最近はパワーポイントなどを使い、そこに書いてあることを読む人も多いですが、大事なのは自分の言葉で話すことです。事前に用意した原稿はすでに死んだ言葉です。生きた言葉を話さなければ、相手の心には響きません。私も講演をする際は、要点をまとめた紙は用意しますが、フリーハンドで話します。資料やパワーポイントを使うのであれば、最初からそれを配布すれば済む話です。「この人の話を聞かないと損するぞ」と感じさせるものがなければいけません。

話をするときは、一人ひとりの目を見ながら話すようにします。手元の資料を見たり、漠然と後方の壁を見ながら話をしても、内容は伝わりません。田中角栄は「いいですか、みなさん」と一人ひとりに語りかけ、時折「ね、そうでしょう?」と特定の聴衆に声を掛けたりしました。これこそが話術の秘訣です。聞き手の反応をうかがいながら、話す内容を臨機応変に変えていくことが大切なのです。世阿弥も、舞台に出ていった瞬間に、その場の空気を読み、それに合わせて演じ分けることの大切さを説いています。場の空気を読めない人はダメなのです。

私の場合、90分の講演を頼まれたら、少なくとも300分くらいの準備をして臨みます。もちろん準備した内容をすべて話すわけではなく、お客さんたちの反応を見ながら、求められている話の筋を読みつつ、時間通りに話します。大事なことは、余白を用意しておくということです。

老荘思想に「無用の用」という言葉があります。役に立たないように見えるものが、実は大切な役割を果たしているという意味です。歩くとき、地面に接しているのは足が踏んでいる部分だけですが、もし地面が足の踏む部分しかなければ、とても怖くて歩けないはずです。車でも、路肩のない道は走りにくいものです。それと同じように、実際には話さない内容もたくさん用意しておき、その中の要点をかいつまんで話していくから、話が面白くなるのです。用意したことをすべてしゃべろうとするのは説得力がありません。90分の講義なら、少なくとも倍の180分くらいは用意すべきでしょう。

人前で話をするときは、明確な声と滑舌を心がける必要があります。どんなにいい内容でも、聞き取りにくい発声では相手の耳に届かず、意味がありません。発声と言葉はリンクしていて、発声の不明確な人は言うことも不明確です。そのため、相手が聞きやすい発声をする努力が必要です。その基本は、口をはっきり動かすことです。

発声とともに、正しい発音を意識して話すことも大切です。例えば、日本語のラ行の発音は、英語のRともLとも異なりますが、若い世代の歌を聴いていると、ラ行がLの発音になっていることが多いと感じます。Rは舌先がどこにも触らず、Lは舌先を上顎の歯の裏に押し当てる、どちらも日本語にはない発音です。正しいラ行は、上顎の歯の後ろの硬口蓋に舌先が軽く触れるように発音します。

もともと日本語というのは、顎も唇も表情筋もあまり動かさず、口先だけを使って話すことが多い言語です。そのため、外国語と比べて、声が遠くに届きにくい傾向があります。それだけに日頃から発声や発音にも意識を向けて、はっきりと声を出すよう心がけたいものです。

■上手は下手の手本 下手は上手の手本

「離見の見」という世阿弥の言葉があります。自分の演技が客席のほうからどう見えるだろうかと常に意識していなければ、まともな演技者にはなれないことを表した言葉です。話し方に置き換えれば、「自分が今このように話したら、相手はそれをどう受け取るか」ということを意識せずに話す人は、言葉が洗練されず、説得力も生まれず、コミュニケーションもうまくいかないということです。話し上手になるためには、自分の言葉が相手にどう聞こえるかを、常に意識する必要があります。

川越日川神社の能舞台
写真=iStock.com/Yutaka Higuchi
客席からの自分はどう見えるか。それを意識しながら演技する重要性を世阿弥は説いた。 - 写真=iStock.com/Yutaka Higuchi

自分の話がどう聞こえているのかを客観的に確認するには、自分の話を録音してチェックしてみるといいでしょう。自分が話す声は、自分では頭蓋骨の中を通ってくる声しか聞くことができないので、相手にどう聞こえているのかは実はわかりません。そのため、録音した自分の声を聞いてみると、「これが自分の声?」と感じるほど自分の認識している声と違うことがわかります。それに、話しているときには気づかない、自分の話し方の癖にも気づくことができます。また、忌憚のない意見を言ってくれる人に話を聞いてもらい、感想を聞くのもいいでしょう。

話しっぱなしにせず、「離見の見」を意識して話し方を修正していくことが大事です。

世阿弥は「上手は下手の手本、下手は上手の手本」とも述べています。下手な人は上手な人を見て反省し、自分に足りない部分を見つけて改善する努力が求められます。一方で、上手な人が「自分は上手だから、下手な人は見るに及ばない」というのは慢心であると指摘します。上手な人は、常に「自分の芸には至らない部分があるのではないか」と謙虚な姿勢で他の人の芸を見て、弟子や若手の芸であっても「あの型はいいぞ」と思ったら、自分の中に取り入れようとする。その姿勢が大切だということです。話し上手になるためにも、全く同じことがいえます。

無理に背伸びをして、自分をよりよく見せようとしたり、相手を感心させてやろうといった邪念があると、相手に「知ったかぶりをしている」と見透かされてしまいます。相手を説得できるのは、等身大の自分から出てくる力です。昨日身につけたようなことをペラペラ話したところで、説得力は生まれません。10しか持っていないのに100持っているように見せようとするのではなく、100持っているものの中から10を出すようにする。それによって、話し方や話の内容が洗練されていくはずです。

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林 望(はやし・のぞむ)
作家・書誌学者
1949年、東京生まれ。作家。国文学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学、国文学。著書に『イギリスはおいしい』『節約の王道』『「時間」の作法』など多数。『謹訳 源氏物語』は源氏物語の完全現代語訳、全10巻既刊9巻。

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(作家・書誌学者 林 望 構成=増田忠英)

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