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生きる意味は誰にもわからない…それでも医師・和田秀樹が「長生きしたほうがいい」と断言する深い理由

プレジデントオンライン / 2023年11月20日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vaaseenaa

情報が溢れる現代社会、何を人生の指針とすればいいか。医師の和田秀樹さんは「例えば自分が見聞きした健康情報が正しいかどうか、自分に合っているかどうかを見極めるのは難しい。同じように人生も先のことや生きる意味はわからない。ただ、生きている限りいろいろ試してみた結果、いいことがあるかもしれない。そうだとしたら、長生きしたほうがいい」という――。

※本稿は、和田秀樹『「すぐ動く人」は悩まない!』(祥伝社)の一部を再編集したものです。

■視聴者の興味を惹くものを恣意的に選ぶ「健康番組」の実情

インターネットやSNSの普及がめざましいとはいえ、いまだ新聞、テレビなどのマスメディアは力を持っています。そして、それらの媒体は人を悩ますことに一役も二役も買っています。

健康に関する情報一つをとっても、かつてはバターの代わりにマーガリンを使え、ということがさかんにいわれたわけですが、いま、マーガリンは諸悪の根源の食品みたいな扱いになっています。

当時の情報を信じてマーガリンを使い続けてきた人はたまったものではありません。

「10年間も“悪のきわみ”の食品を身体に取り入れてきてしまって、この先どんな弊害が起こるのか、心配で仕方がない」

そんな悩みを持つ人がいても当然でしょう。

特にテレビは話題性を重んじますから、たとえば、健康法でも話題になりそうなものを“決定版”のように報じます。視聴者を信じさせるしかけを随所に施すのです。

そのしかけの一つが、いわゆる専門家のコメントです。

私もある健康番組に何度か駆り出されたことがあります。テーマは認知症の予防法だったのですが、1週目、2週目は、私がそれ以前に雑誌に書いた内容についてコメントする番組の構成でした。

ところが、3週目の打ち合わせのとき、放送作家がある健康雑誌を持ってきて、「この内容をしゃべってください」というのです。読んでみると、私の考えとは違います。

「これはコメントできません」――そう答えるしかないでしょう。その結果、この番組からは二度とお呼びがかからなくなりました。

テレビが伝える情報とはその程度のものです。

つまり、ディレクターなり、放送作家なり、番組の制作者側が、あまたある健康法の中から、絵になるもの、視聴者の興味を惹きそうなものを恣意(しい)的に選び、まるでそれが最高の健康法であるかのように、巧みに肉付けして送り出しているにすぎないのです。

そのしくみを知らないと、視聴者はその健康法の“信者”になりかねません。熱心にそれに取り組むことになるわけです。

■健康情報は少し距離を置いて受け止める

しかし、万人に効果がある健康法などあるはずもないわけですから、いっこうに効果が見られないことも、当然ながら起こります。それが悩みにもなるのです。

「一生懸命取り組んでいるのに、ちっとも痩(や)せない(健康にならない)なんて、やり方が間違っている? それともどこか自分だけに欠陥があるの?」という具合です。

いくらテレビが権威付けをしようと、情報はあくまで「One of Them」でしかないのです。

これは絶対に押さえておく必要があります。そうすれば、効果がなくても、「たまたま、私には合っていないのだ」と受けとめられますから、悔やむこともないし、悩みにつながることもありません。

私も医師ですから、健康法やサプリメントなどについてコメントを求められることがあります。先方が“推薦の弁”がほしいことはわかっていますが、私の答えはこうです。

「いい(自分に合っている)と感じる人もいるでしょうし、そうでない(合っていない)と感じる人もいるでしょうね」

相手は怪訝(けげん)そうな表情を浮かべますが、それが正直なコメントです。

テレビと違ってインターネットでは、さまざまな情報が発信されます。それがネットメディアの特徴ですし、取り柄といってもいいところだと思います。

ですから、いろいろな考え方があるな、いろいろなやり方があるな、というスタンスで見るのが、ネットメディアを活用する基本でしょう。

少し距離を置いて情報を受けとめ、自分が興味をそそられるもの、自分にふさわしいと思われるものがあったら、それについては改めて詳しい情報を集めてみるのがいいですね。

ダイエットのための巨大なシェーカーで作った飲料を手にしている女性
写真=iStock.com/PonyWang
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PonyWang

■わからないときは実験する

先に述べたように、自分がゲットした情報が正しいか、正しくないか、自分に合っているか、合っていないかはわからないものです。

イスラム教などの発想では、わからないのだから、運命(神の思し召し)にまかせようということになるわけですが、これは一般的とはいえません。

そこで出てくるのが、わからないなら実験してみる、という発想です。

たとえば、身体にいいとされるサプリにしろ、食品にしろ、実際に試してみる。その結果、体調がよくなったり、不調だったところが改善したら、続ければいいのです。

逆に試してみたら下痢(げり)をしてしまったとか、蕁麻疹(じんましん)が出たとか、よくない変化があったら、やめればいい。

人は個人で体質も違いますし、心理的な要因も“実験結果”に影響しますから、試してみないことにはわからないのです。

医師が患者さんに薬を処方する場合も考え方は同じです。

患者さんが頭痛を訴えている場合でも、頭痛の種類によって効く薬は違います。肩こりからくる筋緊張性頭痛であれば、筋肉をやわらかくする薬がいいし、偏頭痛ならそれ用の特効薬があります。

医師は頭痛がどのタイプかを見極めながら、一番効くと思われる薬を処方するわけです。

しかし、当然、診(み)たてが違うということもある。その場合は、別の薬に切り替えて様子を見ます。そのように“試して、結果を見る”ということを繰り返しながら、一番有効な薬を見つけていくのです。

ただし、医師のすべてがこの手法をとっているわけではありません。

最初に処方した薬に意固地にこだわり、「これが効くはずだから、続けてください」というケースも、現実にはあるわけです。

患者さんとしては、薬をいくつも変えられると、「この先生、大丈夫?」という感じを持つかもしれませんが、実は患者さんと真摯(しんし)に向き合ったら、そういうことにならざるを得ないのです。

■生きているかぎり試してみることができる

人生も先のことはわかりません。だから、試してみることが必要です。生きていれば何でも試してみることができます。私は、生きる意味は、案外、そんなところにあるのではないか、と思っています。

「何のために生きているかわからない」

誰でも一度くらいは生きることの意味を考えることがあるのではないでしょうか。

もし、私がそう問いかけられたら、こんな答えをします。

「何のために生きているかなんて、誰にもわからないと思うよ。ただ、生きていたらいろいろ試してみることができる。試してみたらいいことがあるかもしれないじゃないか。そうだとしたら、長生きしたほうがいいってことにならない?」

具体的な話をしましょう。パートナーができないという悩みを持つ人がいるとします。

しかし、そこで、「恋人がいない人生なんてつまらない。こんなことじゃ生きていたって……」と自ら人生に幕を下ろしてしまったら、パートナーができないままの人生になってしまいます。

しかし、これから10年間、月に一人ずつアタックしたら、120人のパートナー候補の人に対して“試す”ことができます。

その中にこちらに好意を持ってくれる相手がいる可能性は、決して低いものではないはずです。

■拒絶されたとしても、相手はこちらに悪感情を持たない

人生に打率は関係ないのです。120打数1安打。120回試してみて、一人素敵なパートナーがゲットできたら、それで幸せではないですか。

何も高打率をめざす必要はありません。草食になって尻込みしないでどんどん試せばいいのです。

「そうはいっても、フラれるのは精神的にもしんどい。それが悩みにもなってしまうと思うし……」という人もいるかもしれません。

たしかに、フラれたら少しはへこむでしょう。

しかし、拒絶されたとしても、多くの場合、相手はこちらに悪感情を持っていないのです。自分が誰かから好意を打ち明けられたときのことを考えてみてください。

相手がタイプでなかったとして、その人を嫌いになったり、疎(うと)んじたりするでしょうか。

思いを受け容れることはできなくても、そうはならないと思うのです。「好きだ」「愛している」といわれて、悪い気がする人はいません。

一輪のバラを女性に渡す男性
写真=iStock.com/Panupong Piewkleng
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Panupong Piewkleng

それどころか、受け容れられないことを、多少は申し訳なく思うのが人間でしょう。

嫌悪感を持つとしたら、拒絶したにもかかわらず、いつまでも付きまとってくるとか、ストーカー行為に及ぶといった場合です。

■フラれても損することなど何もない

しかも、思いを伝えることで可能性の“芽”が出てくることもあるのです。

何の行動も起こさないときには、眼中にないという人でも、「付き合ってください」といわれたらどうでしょう。

そのときは、「ごめんなさい」でも、少なくとも、眼中には入ってきます。つまり、意識する存在になる。

その意識が、いったんは断ったけれど、時間が経ち、よくよく考えてみて、あるいは、彼氏や彼女と別れたとしたら、受け容れてもいいな、という気持ちに変わることもないわけではありません。

アプローチのやり方や限度はありますが、フラれても好意を持っていることを相手に感じさせ続けていたら、そうした“心変わり”は期待できるのです。

こう見てくると、一つ結論が出そうです。

フラれても損することなど何もない。はっきりいって、フラれることを恐れすぎだったのです。

ここまでお話ししてきた、「フラれる」ということの実相をよく胸に刻んで、恐れを払拭しましょう。

■プライドが傷つくのが恐いのは、自意識過剰

「告白して断られたら、そのあとの関係が気まずくなりませんか?」

よく聞く話です。

ただし、それはこちらがフラれたことに対して、意識過剰になっているからではないでしょうか。

フラれた自分を意識するあまりに、相手に声をかけにくい、それまでのように普通に話せない、といったことになるのです。

繰り返しになりますが、告白されたほうは、たいがいの場合、こちらに悪い感情を持っていないし、むしろ、申し訳ないと思っているものです。

通常の付き合いのうえでは、気を遣ってくれることはあっても、避けたり、すげない態度をとったりすることはないはずです。気まずいと感じるのはこちらの勝手な思い込みではないでしょうか。

和田秀樹『「すぐ動く人」は悩まない!』(祥伝社)
和田秀樹『「すぐ動く人」は悩まない!』(祥伝社)

意識過剰にさせるのはプライドです。フラれたら、多少なりともプライドは傷つくでしょうし、メンツを失うことにはなるでしょう。

その「かっこ悪いな」という思いが、過剰に大きくなってしまうのです。

しかし、人間は所詮(しょせん)、そうかっこいいものではありませんし、かっこ悪いこともたくさんしながら生きているのです。

数あるかっこ悪さの中のたかが一つじゃないか、というくらいに考えたらどうでしょう。

意識が過剰になって、相手に対するふるまいが卑屈になったりすれば、可能性の“芽”を自らつみとることにもなる。フラれてなお、恬淡(てんたん)としていてこそ、芽もふくらむことになるのです。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
精神科医
1960年、大阪市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。ルネクリニック東京院院長、一橋大学経済学部・東京医科歯科大学非常勤講師。2022年3月発売の『80歳の壁』が2022年トーハン・日販年間総合ベストセラー1位に。メルマガ 和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」

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(精神科医 和田 秀樹)

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