認知症ですぐ怒る88歳の母親も一変した…敏腕リハビリ医が徹底する「患者を幸せにする医療」驚きの効果
プレジデントオンライン / 2023年11月19日 12時15分
■出会いから2年後、母が脳梗塞で倒れ…
ねりま健育会病院の院長、酒向正春(さこうまさはる)に会ったのは2014年の初めのこと。彼とわたしは総務省の東京オリンピック2020の委員で席は隣だった。
会うなり、こう話しかけてきた。
「野地さん、あなたの本と私が書いた本を交換しませんか」
大人だから「嫌です」とは言わない。「もちろんですよ」と精一杯の笑顔で答えた。
その時、続けてこう言っていた。
「野地さん、リハビリテーション医の仕事は幸せを考えることなんです」
妙な気がした。わかったような、わからないような……。病気を治すのが医師の役目だ。しかし、酒向は「幸せを考える」という。まあ、いいか。そのまま挨拶はしたけれど、ものすごく親しくなったわけではなかった。
2年ほどして、わたしの母(当時、88歳)が脳梗塞で倒れて救急車で入院した。入院したのは急性期病院だ。緊急、急病の患者が入院する病院である。患者はその後、症状が安定したら退院して自宅に帰る。ただ、脳梗塞で倒れると認知症になるケースが多く、その場合は回復期リハビリテーション病院へ移ってリハビリを行う。母親もまたリハビリ病院を探すことになった。
「酒向先生は確かリハビリ医?」
![酒向正春医師](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/4/c/1200wm/img_4c6937e6ddef9135bc9c1da0429d38ec330089.jpg)
■やさしかった母が怒鳴るようになった本当の理由
その頃、彼は世田谷記念病院の副院長で回復期リハビリテーションセンター長だった。
母が住む家から近く、そして病室の空きがあったから、その病院に入った。
命を取り留めたのはよかった。ただ、ひとつ、気になることがあった。倒れる前までやさしかった母が怒鳴るようになっていた。わたしに当たり散らすような状態だった。
認知症になると、仕方がないのかなと思ったけれど、酒向に「どうして、うちの母は怒るようになったと思いますか?」と訊ねてみた。
すぐに答えが返ってきた。
「お母さんは他人じゃなくて、自分自身に怒っているんですよ」
続けて、こう問いかけてきた。
「野地さん、人間にとって幸せとは何だと思いますか?」
そんなことを突然、言われても困るというのが正直な反応だった。
怒るようになった母を心配しているだけで精一杯なのに、そんな時に人間の幸せを問われても……。それよりも、怒る母をなんとかしてほしかった。
彼は微笑した。
「野地さん、私は人間の幸せって周りの人を助けてあげて、喜んでもらえることだと思うんです。幸せとは他人からお金や物をもらうことじゃありません。人は、他人に何かをしてあげられる自分自身に幸せを感じるんです。認知症の患者だって同じです。何かをして、喜んでもらいたいと思っているんです。それができない自分に怒ってしまう」
至言だなと思った。
■10人で1人の患者を治療する「攻めのリハビリ」
母は天ぷらや餃子を作って、家族に食べさせることが大好きだった。家族が料理を喜んで食べる姿を見る時は笑っていた。母の幸せとはそれだった。
だが、認知症になった母は料理を作ることができなくなった。だから、怒る。
では、認知症になった人をどうすれば幸せな状態にすることができるのだろうか?
2004年、脳神経外科医からリハビリ医に代わった酒向は初台リハビリテーション病院(2002年開院)に所属することにした。同院は野球の長嶋茂雄監督、サッカーのイビチャ・オシム監督を治療した病院として知られる日本有数の回復期リハビリテーション病院である。
そこでリハビリ医として現場に立ち、知見を高め、2012年、世田谷記念病院を副院長、回復期リハビリテーションセンター長として新設した。診療科を移ってから、わずか8年で専門病院の副院長に招聘(しょうへい)され、リハビリ医療を任されるほどになった。リハビリ医としては空前の昇進だった。
そんな彼の医療方法は「攻めのリハビリ」だ。寝たきりの患者をつくらないための積極的なリハビリ治療であり、それはチーム医療の徹底により行われる。マンツーマンで患者に相対するのではなく、医師、看護師、各種療法士など1チーム10人でひとりの患者を治療する。
■絶対に寝たきりにさせない
元々、リハビリ病院では医師のほか、看護師、療法士が治療を行う。ただ、それまでは互いの強い連携がなかった。医師がトップにいて、それぞれの役割のスタッフに指示を与える。医師と看護師、医師と療法士というペアが患者に向かい合っていた。だが、酒向は横の連携を重視した。看護師と療法士が一緒になって患者に治療を行う。時には医師もその中に入っていく。
サッカーのマンツーマンディフェンスをゾーンディフェンスに変えたとも表現できる。
世田谷記念病院ではそういったやり方を導入して、実績を上げた。
2017年、彼はねりま健育会病院を院長として新設した。院長就任に際して、彼がやったのはチーム編成だ。WBCで優勝した栗山英樹監督が大谷翔平、ダルビッシュ有選手の元を訪ね、一人ひとりを招いたように、彼もまた「これぞ」と見込んだスタッフを集めてねりま健育会病院に乗り込んだのである。
彼は「攻めのリハビリ」と言い続けている。それは寝たきりにしないことだ。難しく表現すれば「可能な限り早期に生活自立のための歩行機能を獲得し、社会参加し社会貢献できる人間力を回復する」「患側踵を接地し、股関節荷重と股関節伸展する動作を再獲得する……」(酒向正春・竹川英徳「攻めのリハビリテーションと認知症ケアのための街づくり」より)。
■20センチの穴が開き、膿で猛烈に臭い
なぜ、寝たきりの状態をそれほど憎むのか。それは床ずれ褥瘡(じょくそう)ができるからだ。床ずれの存在を彼は許していない。
酒向は「病院で何度も見ました。あんな状態にしちゃいけないんです。人間なんだから」と言った。
「床ずれって、みなさんご存じないだろうけれど、皮膚がかぶれることじゃないんです。皮膚がなくなって穴が開くんです。背中というか腰に20センチぐらいの穴が開いてしまう。2000年まではよくあることでした。
痛くないのか? ええ、実は痛いのは最初だけなんです。傷は、みなさん経験あると思いますけれど、切って痛いのは少しの間で、時間が経つとそれほどでもなくなる。
ただ、膿が出て猛烈に臭い。褥瘡ができた人の部屋はほんとに臭いんです。そんな部屋に人を寝かせておくのは非人間的です。ですから、私はとにもかくにも寝たきりにはさせないと決めました。それもあって現在では患者さんを座らせるのが原則です。褥瘡とか寝たきりは少なくなりました」
彼がリハビリ医に転向し、攻めのリハビリを主張するのは、褥瘡という非人間的な病態に打ち勝ってやろうという決心をしたからだ。
こんなことがあってはならない。人間を尊重して、幸せな状態にするのが医師としての役目だ。そのためには攻める。立てない患者を立たせる。歩かせる。作業をしてもらう。それも早期にやる。患者が嫌がらないようにおだてて、痛くないように絶妙に動かして、絶対に寝たきりにはしない。そのためにリハビリ医になったのだから……。
![病室](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/5/7/1200wm/img_57180a64634b484dbad8206bdfca1c07409789.jpg)
■チーム医療はサッカーに似ている
ねりま健育会病院では彼が望むチーム医療が実現できている。
まず、医師は元々の疾患と全身の状態を診療して管理する。看護師、介護福祉士は患者の日々の生活を支える。理学療法士、作業療法士、言語聴覚士はそれぞれの役目を果たして、患者のクオリティ・オブ・ライフを向上させる。
歯科衛生士、薬剤師、管理栄養士は患者の健康状態に合わせた治療、投薬、食事を用意する。そして、各スタッフと患者、家族の間を調整し、コミュニケーションを進めていくのがソーシャルワーカーだ。
ひとりの患者を見守るために同病院では10人がチームとなっている。あと、ひとりいれば、そのままサッカーチームにも移行できる。そうだ。酒向院長はトップの位置でシュートする。ゴールキーパーには理事長を呼んでくればいい。
話は戻る。
院長として病院とスタッフを統括する酒向はさらに経営まで考えなければならないのだから、文字通り、休む暇はない。朝の7時には大泉学園駅に着いて、そこからバスを乗り継いで、速足で歩いて病院にやってくる。病院を出て帰るのは早くても午後8時だ。また、うちに帰ったとしても緊急の連絡には必ず対応する。24時間、年中無休のホスピタリティサービスが彼の仕事だ。
■ほとんどの患者がリハビリを達成し、家へ帰っていく
同病院は開設から6年で次のような実績を残している。
自宅へ戻る在宅復帰率は94.1%。全国平均の78.8%(2019年)よりも高い。重症患者改善率は61.3%。全国平均の23.1%(2019年)をはるかにしのぐ。そして、短い入院期間でどれだけ日常生活能力を高めることができたかを評価するリハビリテーションの実績指数は61.6。全国平均の指数値は23.1(2019年)である。
同院は全国一とは言わないけれど、全国でもトップグループに入る。
また、在宅復帰率の数字だが、全国平均が78.8%というのは日本のリハビリ病院全体の実力を示している。かつては、入院したらほぼ寝たきりだったのである。それがリハビリ病院を拡充し、専門性を高めたことで、高齢の患者が自宅で天寿をまっとうできる割合は高くなった。
酒向は言っている。
「うちの病院に来た患者さんの望みは二つ。高齢の患者さんは『早くうちに帰りたい』。中年の患者さんたちは『仕事に戻りたい』。日本人は真面目なんです。病気になっても仕事をしたいんです」
わたしはふと聞く。
「かわいい子と遊びたいなんてオヤジの患者もいるんじゃないですか?」
酒向は真面目な顔になる。
「何を言っているんですか、野地さん。でも、ごく稀にいるんですよ。そういう人は看護師の手を握ってきたりしますね。でも、うちの病院は握手以上のセクハラは絶対、禁止です。退所していただきます。それに認知症でセクハラする人はいないんですよ。そういう方は認知の振りをして握ってくる。若い女性職員が多い職場なので、そりゃあ、もう退所ですね」
■リハビリをやらない病院が優良病院と言われてしまう
コロナ禍になってから、リハビリ病院は苦難に立ち向かうことになった。入院の見舞いを断り、外来患者を制限しても、新型コロナに感染する入院患者が増えたのである。ねりま健育会病院も例外ではない。1年半の間に5回のクラスター感染が起きた。酒向を始めとするスタッフは疲弊した。しかし、在宅復帰率などの実績はコロナ禍であってもちゃんと維持している。
彼はこう言っている。
「実績が落ちていないのはリハビリを続けたからです。一方、リハビリをちゃんとしていない病院は感染が起こっていません。リハビリをやらないから患者と接するのも少ない。コロナもクラスターも起こらない。すると、今の時代はそういうところが優良病院と呼ばれるんです。クラスターが起こらない病院が感染対策を徹底したからだと……。リハビリをしない病院が感染対策を徹底した病院となってしまう。おかしなことです。
リハビリの効果が表れるのは患者さんをベッドから起こして、歩かせて、いろんな動作をして、しゃべる練習をして、食べる練習をして、頭を使う練習をすること。とにかく触れることなんです。ただし、これをしていたら感染してしまう。新型コロナには潜伏期があります。確定診断できない時期があるので、看護師、療法士がその間にリハビリをしたら感染してしまう。もう、5回も起こりました。それでも私はリハビリの質を落とすことはしません」
■認知症にならないために必要な「2つ」とは
新型コロナがなくなることはない。症状は軽くなったが、リハビリ病院にいる患者がうつったら、命に関わる。そこで、ねりま健育会病院では今でもお見舞いはコロナ検査後でないとできない。病院に入っていくにはマスクをして、検温しなくてはならない。
しかし、リハビリはすすめている。
彼は「リハビリの後のことも考えています。まずは回復すること。少しでも回復すれば何かができる」と言っている。
「当院では回復期に入ったら、アドバンス・ケア・プランニングをします。今後どうやって、どこまで回復して、どういう人生を送るかを考えていただき、計画する。今後、どう生きるかを考える。認知症であっても、杖をついていても、車いすでも、近く命に関わるような病気であっても前を向く」
私たちのやることはそれですと彼は断言した。
わたしが聞いたのはひとつだ。
「認知症にならないためにやることはありますか?」
彼は「月並みですけれど、健康に気をつけること」と答えた。
「食生活、体重をコントロールして動くこと、これが基本です。あとですね、心の健康も考えなくちゃいけない。心の健康のためには、睡眠と日中覚醒のバランスです。夜はしっかり寝て、昼間は屋外に出て誰かと話して活動する。時間が短くても。それをすることによって、精神というか心が健康になります。この二つをちゃんとやったうえで、あとは自分で学ぶしかない」
■健康な時こそ、医師の話を聞いたほうがいい
「人って面白いのですが、健康な時よりも病気の時の方が医師や看護師の話を真剣に聞くんです。医師が言ったことを守る瞬間とは、自分が病気になった時だけなんですよ。よく不祥事があった会社の社長が出てきて、『会社を変えます』って言うでしょう。あれは不祥事の時だけ。儲かっている会社の社長が出てきて、『明日からうちの会社は変わります』って言いますか?
それと同じで健康な時、人は医師の話を聞きません」
![野地秩嘉『サービスの達人に会いにいく プロフェッショナルサービスパーソン』(プレジデント社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/f/1200wm/img_ef3afeb92bb7ba992d4bbf068d7286dc146438.jpg)
確かに、おっしゃる通り。
「では、人は日ごろから医師の話を聞くべきですね?」
酒向は明確に言った。
「そうです。健康な時にこそ素直になって医師、看護師の話を聞いて自分で考えることです」
リハビリの権威、酒向がやろうとしているのは病気を治すことだけではない。健康な人には素直になって健康を考えてもらう。認知症の人には幸せになってもらう。
*付記
わたしの母は世田谷記念病院を退院して、自宅で暮らしていた。怒ることはなくなった。
コロナ禍で骨折してねりま健育会病院に入ったが、回復して退院した。今は自宅近くの特別養護老人ホームに入所している。
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ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
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