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人間の死体はいつヒトからモノに変わるのか…解剖学者・養老孟司が「人間の死体には3種類ある」という理由

プレジデントオンライン / 2023年11月24日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeventyFour

人間は死んだら「モノ」なのか、それとも「ヒト」なのか。解剖学者・養老孟司さんは「死体というのは実は3種類ある。そのことを多くの人は意識していない」という。講演録をまとめた『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)より、一部を紹介する――。

■人間の子どもを連れて歩いてる感覚

私は解剖学が専門で、亡くなった方の身体を扱うという職業を、30年以上やっていますが、おかげでいろいろなことを勉強させていただきました。じつは私はカバンの中に子どもを持ってきています。胎児の標本です。最近このようなものができるようになりました。水を抜いて、樹脂によって固めてあります。

私はどういう感覚でこれを持っているかというと、人間の子どもを連れて歩いてるという感覚でいるわけです。普通の方はどうもそう思わないようです。「先生なんか人間がモノに見えるんじゃないですか」と言われます。若いときはそうかなとも思っていたんですが、だんだん腹が立ってくるわけです。

なんで腹が立つかというと、モノに見えるって言われても本人はそういう気がしない。じゃあ一体どういうふうに見えてるんだろうと自分で考えるわけです。

■3カ月だと9センチ、生まれるときは50センチ

たとえば普通の方にこの標本を見せますとよく聞かれることがあります。要するにヒトに見えます。「この子、何カ月ですか」という質問です。

胎児をよく見たことがないという人がほとんどです。ですから大きさで月齢がほぼわかるんですよ、と説明します。この標本ですと大体十数センチ、20センチ足らずになります。

胎児の大きさからどのくらいの月数かというのを判断するのには、簡単な計算をします。1カ月から5カ月までは月数を二乗してセンチに直せば、大体頭からお尻までの大きさが出ます。ですから3カ月でしたら3×3が9、9センチということになります。じゃあ5カ月過ぎたらどうするかといったら、そこから先は5をかければよい。

そこから先はちょっと伸びが遅くなりますので。5カ月でちょうど5×5、25センチになります。6カ月になると5×6で30。7カ月になると5×7で35。生まれるときは50センチ、5×10カ月ですね。

■生きていたら私より年上かもしれない

そのように概算しますと、この標本は4、5カ月になります。これはじつは女の子なんですけど、よく見ると、産毛まで残っていて、非常にきれいな標本です。

この子を見ると私は何を思うか。まずこの人は私より年上かな年下かな、と思います。というのはこれは大変古い標本で、大学にありました標本をこのような形に私が直したものなんです。

この人が生きていると、ひょっとすると私と同い年かもしれないし、年上かもしれないし、年下かもしれない。この人にはこの人の親があり、一家眷属(けんぞく)といいますか、そういうものがあって、さまざまな事情があってここにこうやってきている。

この人の親戚、縁者と私がどこかで関わりあっているのかもしれないけれど、それは私にはわからない。非常に不思議な感じがします。「袖振り合うも多生の縁」という、本当にそういう気がするわけですね。

■人間の死体には3種類ある

皆さん解剖というといろんなことを想像されるかもしれません。でも実際は、はなはだ散文的なものです。私の若いころには廊下にプラスチックのバケツなんか置いてあって、うっかり蓋を取ると中に人間の頭が入ってたりしました。想像だけだとホラーの世界になっちゃうわけですが、慣れてまいりますと別に怖くないんです。

現代では死んだヒトはモノだというふうに考えがちだと思います。

死体とはモノであると。私どもが扱っているのは亡くなったヒトの身体です。ですから、身体であるからモノだ、というふうに一般にはお考えになるわけです。しかしそうはいかない。死体が3種類あるということをほとんどの方はお考えにならない。

テーブルに並べられた手術器具を手に取る医師
写真=iStock.com/Six_Characters
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Six_Characters

死体というのは実は人称の区別があります。これは文法で言う一人称、二人称、三人称の区別です。

一人称の死体とは何かといいますと、自分の死体です。これは経験に絶対ないものです。落語にあります。浅草の観音様で「お前が死んでるぞ」と言われて粗忽(そこつ)者が大急ぎで見に行く。確かに俺が死んでいるということを確認する。そこまではいいんですが、あそこに死んでるのが俺だとすると、この俺はだれだというのが落ちになっています。それでよくおわかりのように、人間は自分の死体を経験することができない。

■家族の死体と他人の死体とでは180度違う

私どもが解剖で扱っている死体は、そのうちの三人称の死体です。もう一つカテゴリーがあります。それは二人称の死体でして、これは何かといいますと、死んだ親、あるいは死んだ恋人であるとか奥さんであるとか、友であるとかそういうものです。

これは私の定義では基本的には死んでないというしかない。

よく申し上げるんですけど、外へ出て道に出たら交通事故でだれか倒れていて、腹わたが出てしまい間違いなく死んでいる。体の緊張感がないから死んだヒトってすぐわかる。顔だけこっちを向いてる。その顔を見た瞬間に、それが自分の子どもであるとか親であるとかであれば、必ず側に寄っていくはずです。次に触ります。手をかけます。そして声をかけるということをする。

それが他人だったらどうか。遠巻きにして面白がって見ているか逃げちゃうかどっちかだと思います。つまりそういうふうに考えると、そこにある死体に対する行動が180度違うわけです。

■モノだと思って解剖しているのではない

二人称と三人称で180度違いますから、そこにあるものは別なものというしかない。現代社会はある種の客観主義を持っていることは確かでして、その客観主義からすれば死体というのはたった一つの在り方しかない、つまり客観的な存在です。

養老孟司『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)
養老孟司『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)

しかし私どもからすると、それはそうじゃありません。それは見る人の立場によって違って見えてくるものであって、少なくとも3通りに見えるものです。3通りという言い方はおかしいんですが、まあそう表現するしかない。

私の教室で起きたことですが、数年前にも遺族の方が教室にすっ飛んできたことがあります。その理由は、学生が亡くなった方をモノ扱いしてるんじゃないか。それが心配だから見せてくれというわけです。ちょうど解剖が始まる日でしたから、まだ傷がついてないので対面してくださいと申し上げて、お見せしたわけです。そしたら手を合わせてそのままお帰りになりまして、それで無事に終わりました。

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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)、『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)など多数。

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(解剖学者、東京大学名誉教授 養老 孟司)

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