だから名古屋城は「史上最強の軍事要塞」になった…家康が関ヶ原で勝った後に9つの城を築いたわけ
プレジデントオンライン / 2023年11月26日 13時15分
■家康と秀頼が対面した「二条城会見」で起きたこと
慶長8年(1603)に征夷大将軍に任官して以降、徳川家康にとってひとつの画期になったのは慶長16年(1611)だった。この年、3月27日に後陽成天皇が譲位し、4月12日に後水尾天皇が即位した。このころ家康は駿府城(静岡県静岡市)でいわゆる大御所政治を行っていたが、3月6日に駿府を出発し、17日に上洛した。
家康は後陽成天皇譲位の翌3月28日、19歳になった豊臣秀頼を大坂城から二条城へと呼び寄せ、対面している。その模様はNHK大河ドラマ「どうする家康」の第45回「二人のプリンス」でも描かれる。
前日に大坂城を発った秀頼は、織田有楽斎、片桐且元、大野治長ら30人ほどに御供されて船で淀川を遡上(そじょう)し、鷹狩りを楽しみながら船中で一泊。翌日、淀で船を下りて京都に向かった。家康の九男義利(のちの義直)と十男頼将(のちの頼宣)が、それぞれ浅野幸長と加藤清正をしたがえ、鳥羽まで出迎えに行っている。
秀頼が二条城に到着すると、家康は庭上で丁重に出迎え、挨拶を対等にするように申し出たが、秀頼は遠慮して、自分から先に礼をとった。2時間ほどの会見には、美麗を尽くした膳が用意されていたが、遠慮がちになるだろうからと吸い物だけが出されている。途中から高台院(秀吉の正室の北政所)とも対面。その後、二条城を出た秀頼は、豊国社と方広寺の大仏を訪れ、伏見から淀川を下ってその日のうちに大坂城に戻った。
この対面の目的は、秀頼が徳川の城である二条城までわざわざ出向き、家康に御礼をした、すなわち臣下の礼をとった、と世間に示すことにあった。
■成功だったのか、失敗だったのか
福田千鶴氏は、会見の終わりに家康が述べたという以下の話を重視する。『慶長之記』に記されたその内容は、秀吉の遺言で秀頼が15歳になったら天下を渡す約束だったが、秀頼こそ関ヶ原合戦で起請を破り、家康を退治しようとしたのだから、その約束を反故にされても仕方ない――。
![豊臣秀頼像](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/1/1200wm/img_3142376d7b202988d63648f54521607a445873.jpg)
福田氏はこれについて、「秀頼の親族後見人の立場を抜け出せないでいた」家康だが、「合戦から十年を経て、ようやく秀頼守護を名目に秀吉恩顧の大名を動員し得たという事実を過去のものとし、合戦が生じた原因は起請を破った秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことの正当化を図ったのである」と記す(『豊臣秀頼』)。
大河ドラマでは、この対面の結果、秀頼の評判が高まって家康は無礼であると評判を落としたという、少々不可思議な描き方をする。だから大坂の陣が必要になった、という話の展開になるようだ。
しかし、大坂の陣にいたった経緯は、そんなに単純な話ではない。家康は関ヶ原合戦の直後から、秀頼包囲網を少しずつ周到に張りめぐらせ、追い詰めるだけ追い詰めての大坂の陣だった。
二条城での会見も、家康自身は秀頼との関係にこれで決着がついたと思わなかったにせよ、世間はこの対面をとおして、家康が秀頼の臣従化に成功したと評価した。その意味でこの会見は、大河ドラマが描くような「失敗」ではなく、「成功」だった。
そのうえで家康は、後水尾天皇即位の当日である4月12日、在京の諸大名を集め、三カ条の条々を示し、起請文を書かせた。源頼朝以来の法令に触れながら、将軍が出した法令を固く守るように誓わせたのである。
■天下統一には程遠い状況
とはいえ、家康はこうして天下を治める地歩を固めながら、かなり緊張を強いられていたはずである。先に引用した福田氏の説明のなかに、「秀頼守護を名目に秀吉恩顧の大名を動員し得たという事実」という文言があった。それこそが緊張の理由だった。
笠谷和比古氏は『論争 関ヶ原合戦』にこう記す。「関ヶ原合戦における家康方の軍事的勝利に対する豊臣系武将たちの貢献度は絶大であり、さらには、投入が予定されていた秀忠ひきいる徳川主力軍の遅参という不測の事態によって、その貢献度はさらに飛躍的に高まることになった」。
家康は上杉討伐のために自分に従軍していた豊臣系武将たち、すなわち「秀吉恩顧の大名」の働きのおかげで関ヶ原合戦に勝利した。しかも秀忠が戦場に遅参し、徳川軍に出る幕がなかったため、なおさら秀吉恩顧の大名たちの貢献度が増した、ということだ。
このため戦後、豊臣系の諸大名に大幅な加増をするほかなかった。関ヶ原合戦後、当時の日本の総石高の約40%にあたる780万石が、西軍にくみした大名や豊臣家の直轄領から没収され、その7割近い520万石余りが豊臣系諸大名への加増にあてられた。こうして、豊臣系の国持大名の領地は全国20カ所以上に分布し、こと西国にいたっては、ほぼ8割が豊臣系大名の領地になってしまった。
■家康が行った一石二鳥の公共事業
秀吉恩顧の大名が全国で広大な領地を所有しているとは、どんな状況か。
笠谷氏は「関ヶ原合戦と大坂の陣」(笠谷編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収)に、「加藤清正、福島正紀、浅野幸長といった豊臣恩顧の武将たちは将軍家康の統率には従ったけれども、それは豊臣家を見限って家康の家臣となったのではなく、豊臣家と秀頼に対する忠誠心は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権にしたがっているのである」と書く。
大名たちの忠誠心が秀頼に向けられている以上、徳川と豊臣のあいだに有事が発生すれば、強大な勢力となった豊臣系大名たちは、徳川に反旗をひるがえす可能性が低くない。しかも、彼らはほぼ例外なく、関ヶ原合戦後に居城を大規模に整備し、あるいはあらたに大城郭を築き、支城網を整え、むしろ軍事的な緊張は高まっていたのである。家康が緊張を強いられたのも無理はない。
そこで家康は大坂包囲網の整備を進めた。それは関ヶ原合戦の翌慶長6年(1601)、琵琶湖に突き出た膳所城(滋賀県大津市)の築城からはじまった。東海道が通る瀬田の唐橋を押さえる位置にあるこの城に、大坂城を発った豊臣軍が東に進むのを阻止する目的が課せられたのはいうまでもない。その際、家康が採用したのは、諸大名に築城工事を割り当てる「天下普請」だった。
天下普請は軍役のひとつだから、大名はすべて自費で工事に当たらなければならない。家康はこうして、豊臣系大名たちの築城技術を利用して堅固な城を築き、同時に彼らの経済力を疲弊させるという一石二鳥をねらったのである。
■なぜ名古屋城は巨大なのか
続いて家康が、同様の天下普請で築かせたのが彦根城(滋賀県彦根市)だった。東山道と北国街道が交わる彦根は、陸路においても湖上においても交通の要衝で、有事の際には江戸に向かう豊臣軍を食い止め、各街道から西上する徳川軍を掩護するのにふさわしい位置だった。家康は7カ国12大名に天下普請を命じ、慶長9年(1604)から築城工事が開始された。
天下普請はほかにも、関ヶ原合戦の前哨戦で炎上した伏見城の再建や、徳川家の京都における拠点、二条城の築城、そして慶長11年(1606)からは江戸城の整備においても、大々的に行われた。
むろん、大坂包囲網の構築も着々と進められた。山陰道の要衝を押さえ、西国の諸大名の東上を防ぐ目的で、慶長14年(1609)は篠山城(兵庫県丹波篠山市)が、同様の理由で慶長15年(1610)には亀山城(京都市亀岡市)が完成。
そして、天下普請による大坂包囲網および江戸の防衛網の決定打が、慶長15年から加藤清正や黒田長政ら、豊臣恩顧の20大名に助役を命じて築かれた名古屋城だった。大坂城に匹敵するほどの大城郭を、20万人もの人夫を動員してたった1年で築いてしまった。これも家康の焦りの表れだといえよう。
![名古屋城](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/3/0/1200wm/img_3088246282ba6ba7d0867385c3d9b588384145.jpg)
また、家康が将軍職を秀忠に譲ったのち、実権を握ったまま大御所政治を行った駿府城も、慶長12年(1607)から天下普請で築かれた。家康はこの駿府城を、豊臣軍が西上してきた場合に、江戸を守る最後の防衛ラインに想定していたようだ。
■死の直前まで焦っていた家康
こうしたことを着々と整備したうえで、家康は秀頼と対面し、その立場の逆転をはかったのである。その結果、大河ドラマが描くように、むしろ秀頼の評判が高まったということはなく、家康の天下人としての地歩は、ある程度固まったものと思われる。
だが、それでも、豊臣家の権威が失われたわけではなかった。親王や公家、門跡などは正月のたびに大坂に、年賀のために下向した。また、前述のような天下普請が秀頼に課せられることは、一切なかった。やはり前述した、秀頼との対面後に家康が諸大名に誓わせた起請文に、秀頼は署名しなかった。すなわち、豊臣家が他大名と並列の、たんなる一大名ではないこともまたあきらかだった。
それが次第に老い先短くなってきた家康の、さらなる焦りにつながった。家康がたびたび求めたように、秀頼が大坂城を明け渡して大和郡山(奈良県大和郡山市)あたりに移ることを受け入れたら、家康の焦りは沈静化したかもしれない。だが、秀頼も淀殿もそれを受け入れなかったため、大坂の陣を迎えるのである。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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