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NHK大河ドラマではとても放送できない…平安時代のモテ貴族が意中の女性にやっていた「野蛮すぎる恋愛術」

プレジデントオンライン / 2023年12月2日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kagenmi

平安時代の貴族は、意中の女性にどんなアプローチをしていたのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「全ての恋愛は、意中の女性に和歌を送ることからはじまる。大半は途中で途絶えるため、一部の『恋愛強者』を除き、男女の関係になるのは容易ではなかった」という――。

※本稿は、繁田信一『源氏物語のリアル』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■『源氏物語』に描かれた光源氏の恋愛術

光源氏の恋愛をめぐっては、相手の女性を想い初めてから、その女性と男女の関係になるまでが、包み隠さず語られることは、かなりめずらしい。藤壺中宮との大恋愛でさえ、いつの間にか初めての逢瀬が持たれていたのであり、六条御息所との恋愛などは、詳しく描かれはじめたときには、既に倦怠(けんたい)期に入っていたのである。

とすれば、光源氏には実に皮肉なこととなるだろうが、彼が意中の女性をものにする手口を知るうえでは、末摘花(すえつむばな)との恋愛こそが、貴重な事例となるかもしれない。

当時十八歳の光源氏が末摘花に想いを寄せはじめたのは、末摘花の姪で光源氏には乳母子となる大輔命婦(たいふのみょうぶ)という女性の仲立ちがあってのことであった。とはいえ、大輔命婦としては、既に亡き常陸宮が生前にたいそうかわいがっていた末娘について、今は琴だけを友として寂しく暮らしているということを、ただの世間話として光源氏の耳に入れたに過ぎない。

が、光源氏は、この話に喰い付く。常陸宮は、物語の中で「常陸の親王」とも呼ばれるように、いずれかの天皇の皇子であり、その娘となれば、もちろん、皇孫女である。そんな高貴な女性が、わずかに琴のみを慰めに、ひっそりと暮らしているなどというのは、その折、新しい恋を求めていた光源氏には、まさに、琴線に触れる話であった。

■恋文を送り続けるが、返事がない

こうして懸想をはじめた光源氏は、当時の習慣に従って、まずは恋文を送り、その後も恋文を送り続ける。が、これに末摘花が応えることはなかった。光源氏が末摘花を想い初めて恋文を送りはじめたのは、春のことであったが、それから半年後の秋になっても、光源氏は、ただの一度も、末摘花から返事をもらうことができなかったのである。

すると、痺れを切らした光源氏は、ある晩、末摘花の家に押しかける。もちろん、それは、王朝時代の恋愛の作法に反することであり、それどころか、当時の社会常識にも反することであった。が、末摘花には、この強引な訪問を拒否することができない。なぜなら、押しかけてきたのが、皇子という尊貴な存在だったからである。皇孫女の末摘花でさえ、相手が皇子とあっては、もはや、この強引な訪問者を丁重に迎えるしかなかった。

■押し倒して、強引に男女の関係を結ぶ横暴さ

だが、皇子の身分があればこその光源氏の横暴は、これだけでは終わらない。

用意された座に着いた光源氏は、まずは、簾(す)と襖(ふすま)とを間に挟んで末摘花と対面する。ずいぶんと隔(へだ)てのある対面のようだが、当時においては、肉親でもなければ夫婦でもないような男女が対面するならば、これ以上に隔てられることが普通であった。ここでも、光源氏の皇子という身分が、末摘花の側にさらなる隔てを自粛させたのである。

それでも、末摘花の心の隔てはなくならない。彼女は、光源氏が言葉を尽くして恋情を訴えても、何一つ言葉を返さなかったのである。すると、これに焦れた光源氏は、簾と襖とを押し退けると、ついに、末摘花を押し倒して、強引に男女の関係を結ぶのであった。

これが、光源氏と末摘花との馴れ初めである。

こんなものは、強姦(ごうかん)でしかなかろう。が、光源氏という貴公子は、皇子の身分に護られつつ、いつでも、このようなかたちで女性への想いを遂げていたのかもしれない。

■藤原道綱の懸想――現実の恋愛は難しい

とはいえ、現実の王朝時代の貴族男性たちにとって、想いを寄せる貴族女性と男女の関係になるというのは、けっして容易なことではなかった。

例えば、藤原道綱(みちつな)などは、特に若い時分には、恋愛において、連敗に次ぐ連敗を経験している。彼の若き日の懸想については、彼の母親の手記である『蜻蛉(かげろう)日記』に詳しく記録されているが、それらの懸想のいずれもが、みごとなまでに彼一人の空回りに終わっているのである。

『蜻蛉日記』が伝える道綱の最初の懸想の相手は、大和守(やまとのかみ)を務めたことのある中級貴族の娘であった。旧暦では初夏となる四月、賀茂祭(かものまつり)の翌日のこと、当時十八歳の道綱は、賀茂社から内裏(だいり)へと帰還する勅使たちの行列を見物するため、牛車に乗って平安京北郊へと出かける。

そして、その帰り道、たまたま前大和守の娘が乗る牛車に遭遇した道綱は、なぜか、そのときから、前大和守の娘に対して、強い恋心を抱きはじめたのであった。そんな道綱が、翌日に早速にも前大和守の娘に送ったのは、次のような一首である。

「 思ひ初め 物をこそ思へ 今日よりは あふひ遥かに なりやしぬらむ 」
日本家屋の縁側
写真=iStock.com/Yue_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yue_

■恋文の返事が来てもそっけない

この和歌には掛詞の技法が用いられていて、「あふひ」の部分が、賀茂社のシンボルの「葵」を意味するとともに、男女が結ばれる日を遠回しに言う「逢ふ日」を意味する。

したがって、一首の全体の心は、「あなたに懸想しはじめて悩んでいます。葵祭(賀茂祭)の翌々日の今日からですと、次の葵祭ははるかに先のことになりますが、私があなたと結ばれる日もはるかに先のことになりましょうか」といったところであろうか。

よく知られているように、王朝時代においては、女性を見初めた男性は、意中の女性に和歌を中心とする手紙を送るものであり、全ての恋愛は、そこからはじまるものであった。とすれば、道綱の行動も、恋する男性として全く普通のものであったことになる。

これに対して、前大和守の娘は、次のような手紙を返す。

「さらに思えず」

この短い文面を現代語に訳すならば、「少しも心当たりがありません」というところであり、さらに幾らか意訳するならば、「相手をお間違えではありませんか?」というところであろう。前大和守の娘は、道綱の懸想を、きれいにはぐらかしたのである。

■5カ月もやり取りを重ねたのに、不成立

また、これ以降にも、道綱と前大和守の娘との間では幾度かの手紙のやり取りがあったものの、毎回毎回、道綱の手紙は、和歌で熱い恋心を訴えたのに対して、前大和守の娘の手紙は、和歌で道綱の気持ちをさらりとはぐらかすばかりであった。

しかも、そんな手紙の往来も、同年の八月を最後にぱったりと途絶えてしまう。そして、これこそが、王朝時代の貴族男性たちの大多数にとっての、恋愛をめぐる現実であった。右の懸想の頃、道綱の父親の兼家(かねいえ)は、権大納言(ごんのだいなごん)の官職を帯びる有力な上級貴族であったが、その御曹司の道綱でさえ、それも、たかだか前大和守という程度の中級貴族の娘を相手にしてさえ、なかなか手紙のやり取りから先に進めないものだったのである。

京都・法観寺にある八坂の塔の夕暮れ
写真=iStock.com/pinglabel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/pinglabel

■「恋愛強者」がやっていた非常識な打開策

だが、光源氏が末摘花をものにしたようなかたちで、楽々と意中の女性をものにする男性は、現実の王朝時代にも、全くいなかったわけではない。光源氏が行使した恋愛術は、全くのフィクションでもないのである。

そして、そんな現実の恋愛強者はといえば、やはり、光源氏と同じく、天皇を父親として生まれた、最も高貴な男性たちであった。そう、それは、皇子たちに他ならない。

例えば、冷泉(れいぜい)天皇の第四皇子などは、二十三歳の四月の終わり頃、ある中級貴族層の女性と初めて男女の関係を持つのであったが、彼が相手の女性に初めて消息を送ったのは、同じ月の半ばのことであった。つまり、この皇子は、懸想をはじめてから、わずか十日ほどで一人の貴族女性をものにしたのである。

また、この皇子の恋愛術は、光源氏のそれと同じく、皇子の身分を持つからこそ許されるばかりの、ひどく強引なものであった。

その皇子も、最初のうちは、女性と手紙のやり取りをするだけである。もちろん、その手紙というのは、和歌を中心とするものであった。これなら、全く穏やかな交際であろう。

■まるで光源氏…女性の自宅に押し掛ける敦道親王

ただ、その折、相手の女性が、それまで全く付き合いのなかった皇子との親密な手紙のやり取りに応じたのは、間違いなく、相手が皇子であるがゆえのことであった。王朝時代の人々の価値観からすれば、皇子から手紙をもらっておいて何も返事をしないなどというのは、けっして許されることではないのである。

また、そのことは、当然、皇子自身もわかっていたことだろう。先ほどの藤原道綱の事例と思い合わせれば明らかなように、皇子というのは、上級貴族家の御曹司でさえ足元にも及ばないほどの恋愛強者だったのである。

そして、問題の皇子は、初めての消息から十日ほど後の夕方、早くも、女性の自宅へと押しかけた。それは、一応、その日に訪問することを、事前に相手の女性に伝えたうえでの訪問ではあったものの、やはり、「押しかけ」と表現すべき訪問であった。

■相手が皇子だと、さすがに断れない…

まず、皇子が夕刻の訪問の旨を女性に伝えたのは、その日の昼のことである。となれば、女性の側からすれば、どう見ても、突然の訪問であろう。しかも、皇子から訪問を予告されたとあれば、女性の側には、これを断ることなどできるはずがない。

もちろん、皇子も、訪問することを伝えた折、断られることなどあり得ないと信じていたはずである。したがって、この訪問は、どうしても、「押しかけ」でしかない。

そんな皇子も、女性の家に迎え入れられると、まずは、簾を挟んで女性と対面する。間に簾を挟んで対面することは、皇子が相手の場合でさえ、王朝時代の貴族女性たちにとっては、最低限の権利だったのである。そして、当時は、皇子であっても、その権利を尊重しなければならないものであった。

しかし、そうした我慢が続かないのが、王朝時代の皇子というものなのだろう。この皇子もまた、夜も更けて、月が高く昇った頃、突然、簾をくぐり抜けると、そのまま女性を押し倒し、強引に男女の関係を結んだのである。

冬の夕暮れの紅葉
写真=iStock.com/kumikomini
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■『和泉式部日記』に描かれた大恋愛

右に紹介したのは、実は、『和泉式部日記』の序盤の展開に他ならない。『和泉式部日記』は、ときに『和泉式部物語』とも呼ばれるように、われわれが一般に「日記」という言葉から思い浮かべるような日々の記録であるよりは、むしろ、和泉式部を女君とする恋愛物語である。とはいえ、同書の描き出す恋愛は、けっして、架空のものなどではない。それは、和泉式部が二十歳代の半ばに実際に体験した大恋愛なのである。

なお、和泉式部というと、恋多き女として知られる女性であるが、そんな彼女も、二十歳ほどまでに橘道貞という中級貴族と結婚すると、しばらくは、普通に中級貴族家の奥方に収まっていた。

また、この結婚と前後して、道貞は、和泉国の受領国司(ずりょうこくし)である和泉守を拝命しているから、道貞・和泉式部の家庭生活は、かなり豊かなものであったに違いない。やがて「小式部」として知られることになる娘が誕生したのも、この頃のこととなる。

■身分違いの恋が不評を買うことも

しかし、不意に冷泉天皇第三皇子の為尊親王に見初められた和泉式部は、安泰な家庭生活を棄てて、皇子との恋愛にのめり込んでしまう。もちろん、それは、身分違いの恋であり、『栄花物語』に語られるように、和泉式部は、為尊親王ともども、世の不評を買うことになる。

繁田信一『源氏物語のリアル』(PHP新書)
繁田信一『源氏物語のリアル』(PHP新書)

彼女の父親の大江雅致などは、聟(むこ)の道貞を気に入っていたこともあって、娘に勘当を言い渡しさえしたという。が、和泉式部が為尊親王との恋を諦めることはなかった。

そんな和泉式部から為尊親王を奪ったのは、親王の突然の死であった。彼は、長保四年(一〇〇二)の夏、おそらくは悪性の腫瘍のために、二十六歳の若さで世を去ったのである。そして、それから一年と経たずしてはじまった和泉式部の新しい恋の相手は、為尊親王の弟宮であった。

やがて『和泉式部日記』(『和泉式部物語』)として後世に伝えられることになる恋愛物語の男君は、冷泉天皇第四皇子の敦道親王に他ならない。

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繁田 信一(しげた・しんいち)
歴史学者、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員
1968年、東京都生まれ。東北大学・神奈川大学の大学院を経て、現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学国際日本学部非常勤講師、博士(歴史民俗資料学)。主な著書に『殴り合う貴族たち』(文春学藝ライブラリー)、『陰陽師』(中公新書)、『源氏物語を楽しむための王朝貴族入門』(吉川弘文館)、『下級貴族たちの王朝時代』(新典社)、『知るほど不思議な平安時代 上・下』(教育評論社)などがある。

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(歴史学者、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員 繁田 信一)

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