泳げない15歳の少年兵は「おかあーさん」と叫びながら沈んだ…「戦艦武蔵」生還兵の忘れられない光景
プレジデントオンライン / 2023年12月2日 9時15分
※本稿は、渡辺清『戦艦武蔵の最期』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■武蔵の沈没は寸前に迫っていた
武蔵は甲板にうごめいている乗員の絶望と恐怖を乗せたまま、左側へじわじわと傾いていく。海はそぎたった白い牙をむいて、いつでも呑みこんでやろうと、舷側をくわえこむようにして嚙んでいる。艦べりはもう海面すれすれだ。もはやいかなる処置も、この傾斜を押しとどめることはできないだろう。沈没は寸前に迫っているのだ。
おれはまわりの騒ぎに巻きこまれながら、おぶってきた村尾を急いで三番主砲のわきにおろした。だが、ここまで連れだしてきて見捨てるわけにはいかない。何か手につかまるものをあてがって海に飛びこませてやろう。火にあぶられるように、甲板の上でじりじりと死の瞬間を待っているよりそのほうが楽だろうし、あるいはひょっとして助かるかも知れない。
おれはそう思って、甲板におろしたあともおれのズボンの裾にしがみついている村尾の耳に口をあてて叫んだ。
「ちょっとここで待ってろ、いまなにか探してくるから、いいか、ここを動くな」
だが、村尾はそれでおれに見離されたと思ったらしく、「いかないで、ねえ、いかないで……」と、はげしく顔をふってわめいた。
「ばか、いくもんか、すぐ戻ってくるから……」
■甲板をゆるがす轟音が聞こえ、血しぶきが飛んだ
おれはいって、急いで村尾の手をもぎ離した。後部の短艇庫にいけば、壊れたランチかカッターの板切れか何かあるだろうと考えたのだ。村尾の叫び声をうしろに聞きながら、おれは後部にむかって駈け出したが、五、六歩いって、鉄甲板の波よけをまたいだ時だった。
突然、甲板をゆるがすような物凄い音が背後に聞こえた。同時に耳もとをサッと風がかすめた。右舷に移動してあった防舷物が傾斜のあおりをくって転げだしたのだ。その音といっしょに悲鳴があがった。血しぶきが飛んだ。何人かがそれに押し潰されたらしい。
おれは腰をかがめて思わず振りむいたが、見ると、いまのいまそこにおろしたはずの村尾の姿がどこにも見えない。
「村尾ー、村尾、村尾ーッ」
おれは大声で村尾の名を連呼したが、返事がない。
暗くてあわてていたせいもあって、おれもまさかあの防舷物がロープもかけずにおいてあるとは気がつかなかったが、重さ四十貫もある嵩だかの防舷物だ。村尾も、おそらくその下敷きになって海に巻かれてしまったのかも知れない。だが、それ以上、彼の行方をさがすだけの余裕はおれにはなかった。
■「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」
艦の傾斜はすでに二十度を超えていた。右舷が大きくせり上がってきているので、ちょうど片屋根の上にでも乗っかっているような感じだ。おまけにそこらじゅうに血糊が散っていて滑るので、立って歩くのがやっとだった。
おれは三番主砲の前に立って、いっときどっちへ出ようか迷ったが、足はしぜんに後甲板にむいた。後部のほうが飛びこむのに比較的安全だという固定観念があったのである。村尾をおぶってからずり落ちていたズボンのバンドを締め直しながら、おれは急いで三番主砲の塔壁を右へと廻りこんでいった。
するとその時だ。ざわめいている後ろのほうから、
「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」
と、人をどかすのを当然と心得たような、居丈高な叫び声が、耳を刺すように聞こえた。
おれは反射的に足をとめて後ろを振りかえった。
見ると晒布で包んだ大きな額をたすき掛けに背中に背負った二人の下士官が、まわりを四、五人の士官たちに守られながら、先頭に立って叫んでいる先任衛兵伍長と衛兵司令の後ろから、傾いたマストの下をこっちにやってくる。それが「御真影」らしかった。
■写真1枚を運び出すために甲板は大混乱
武蔵ではふだん「御真影」は右舷上甲板にある長官公室に納めてあった。旗艦をやめて連司(連合艦隊司令部)がおりてからも同じ場所だったが、出撃の際、損傷しては畏れおおいというので、特に下甲板の主砲発令所の中に移した。ここは四方を厚いアーマーで囲ってあって、どこよりも安全だったからである。それをいま艦長の命令でわざわざ下の発令所から出してきたのだ。
「御真影」と聞いて、おれははっとしてみんなといっしょにあわてて道を開けたが、「御真影」の一団は、まるで箒で落ち葉でも掃き散らすように、そこらにおろおろしている兵隊たちを、手を振って押しのけ、突きとばし、甲板を這いまわっている負傷者の頭の上を乱暴にまたぎながら、しゃにむに艦尾のほうへ抜けていった。そのため、それでなくても混乱している甲板は、一層攪乱された。
それを見ておれは、この火急の場合に「御真影」は出さずそっとしておいたほうがいいのにと思った。武蔵も「天皇の艦」である以上、それが「大事な写真」にはちがいないが、写真はあくまでも写真である。生身の天皇でも皇后でもない。それよりも今はできるだけ無用な混乱は避けて、一人でも多くの兵隊が無事に退去できるように考えるのが本当ではないか。
■おれはうっかり頭を下げなかった
それにあの二人の下士官だって、命令とはいえ、あのガラス入りの重い額を背負ったまま飛びこんだところで、おそらく自由には泳げないだろう。ひょっとしてあの紙片一枚のために、助かる命も助からないのではないかと思って、おれはうっかり頭も下げなかった。
いまは死ぬか生きるかの瀬戸際、「御真影」どころではなかったのだ。おれは「御真影」の一団をそっけなくやり過ごしておいて、再び後甲板のほうへ急いだ。なにか適当な浮遊物を探そうと思ったのである。
鉄甲板が血のりで滑るので、ときどき四つん這いになって進んだ。おれの前後左右を、やはり同じような恰好でうろたえた兵隊たちが駈けていく。その間をぬって、あっちこっちから、恐怖にかられた兵隊たちの喚き声がひっきりなしに聞こえた。
「沈むぞッ、早く飛びこめ、早く、早く……」
「そっちゃ危ない、渦に巻きこまれるぞ、右へまわるんだ」
「おーい、おれは泳げないんだ。誰か、おい、誰か助けてくれッ」
「タキモトはいないか、タキモト、タキモト……」
「服はぬぐなッ、いいか、着たまま飛びこめ、冷えてしまうぞ……」
舷側から艦内に残っていた角財や道板、マット、釣り床などがつぎつぎに海に投げこまれた。
■「お母あーさん、お母あーさん……」
そのあとから兵隊たちが、ぶつかり合いながら転げおちるように飛びこんでいく。しかし角材や道板の数は知れたものだった。すでにその大方を応急作業に使いはたしていたので……。だから退去がおくれてそれにあぶれたものは身一つで飛びこまなければならなかった。そして数からいってもそのほうがずっと多かった。そのため波に呑まれてそれっきり浮かんでこないものもかなりあった。
みんな先を競って飛びこんだが、なかには飛びこむ決心がつかなくて、血相かえてそこらを狂ったように飛び廻っているものもいた。泳げない兵隊たちだった。
艦尾のジブクレーンと旗竿のまわりにも、そういう泳ぎのできない兵隊たちが、途方にくれて一つところを意味もなくぐるぐると廻っていた。大抵まだ入団して日の浅い十五、六歳の少年兵だった。
戦局が逼迫(ひっぱく)していたので、彼らは海兵団でも泳法はほとんど教えてもらえなかった。ただ短期の速成教育をうけただけで、そのまま艦に送りこまれてきたのだ。そのうちの三、四人が、肩をくっつけ合って斜めに傾いた旗竿にしがみついて叫んでいる。
「お母あーさん、お母あーさん……」
■おれたちをここまで追いつめたやつは、誰なんだ
声がわれたように咽喉にからんでいるのは涙のせいだろうか。恐怖に舌がひきつれているせいだろうか。暗くてよくわからないが、その顔はおそらく真っ青に凍りついているにちがいない。額には脂汗がぶつぶつ玉になって吹いているにちがいない。
おそろしい死を前にして、彼らの最後のよりどころはおっ母さんだ。ほかの誰でもない。たった一人のおっ母さんだ。だが、そのおっ母さんはここにはいない。おっ母さんは遠い遠い遙かな海の向こうだ。いくら呼んでも叫んでも海の向こうのおっ母さんには聞こえはしない。とどきはしない。だが、それでもやはり母を呼ばずにはいられないのだ。
「お母あーさん、母あちゃーん、母あちゃーん……」
おれは彼らのそばを駈けぬけたが、どうしてやることもできなかった。手ひとつ出してやることもできなかった。ひと声、声をかけてやることすらも……。おれは自分のことしか考えていなかった。自分のことだけで精一杯だった。
それにしてもおれたちをここまで追いつめたやつは、一体誰だ、誰だ、誰なんだ……。突然、はじけるような激しい怒りが、胸いっぱいに突きあげてきた。それを誰にむけていいのかわからなかったが、おれは口の中でのろい声をあげつづけた。
彼らはきっと旗竿にしがみついたまま、艦と運命をともにしてしまうだろう。海中にひきずり込まれてしまうだろう。そしておそらく暗い海底に引きずりこまれていきながらも、なお声をかぎりに母の名を呼びつづけているにちがいない。
のどを裂くような彼らの叫び声は、いつまでもおれの耳について離れなかった。
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作家
1925年、静岡県生まれ。1941年、横須賀海兵団に入団(志願兵)、1942年戦艦武蔵に乗り組む。マリアナ、レイテ沖海戦に参加。戦艦武蔵撃沈のさい、遭難し奇跡的に生還。1945年復員。太平洋戦争の生き残りとして戦火の経験を書き残すべく、執筆活動を行うとともに、1970年より日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局長を務めた。他の著書に、『海の城 海軍少年兵の手記』、『砕かれた神 ある復員兵の手記』(以上、朝日選書)、『私の天皇観』(辺境社)など。1981年逝去。
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(作家 渡辺 清)
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