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記録に残るだけでも側室は20人…歴史作家が検証する知られざる「家康の女たち」【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2023年12月2日 12時15分

築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

2023年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年1月8日)
信長や秀吉に比べると、徳川家康の女性関係はあまり知られていない。直木賞作家の安部龍太郎さんは「家康には記録に残るだけで20人の側室がいたと言われます。しかし九州大学教授の福田千鶴さんの研究によれば、彼女たちは全員が側室、つまり妾ではなく、継室と呼ぶべき正式な妻もいたようです」という――。

※本稿は、安部龍太郎『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版)の一部を再編集したものです。

■家康はなぜ正室・築山御前を引き取ったのか

家康の最初の正室となったのは、築山殿(築山御前?~1579)。今川一門の関口氏純の娘で、母は義元の妹もしくは伯母とも言われています。弘治3年(1557)に家康と結婚。2年後の永禄2年(1559)には嫡男の松平信康を、永禄3年には亀姫を産んでいます。

父・氏純は桶狭間の戦いののち、今川から離反した家康と通じているのではないかと今川氏真に疑われ、妻とともに自害に追い込まれました。今川家に人質のようなかたちで身柄を拘束された築山殿は、子どもたちを守り続けていましたが、やがて人質交換で母子三人そろって岡崎に引き取られます。

しかし、なぜか築山殿は岡崎城には入らず、城外の西岸寺に居住します。このことから、すでに築山殿は家康に離縁されていた、あるいは二人の関係が悪くなっていたと見る人もいますが、そうであれば、なぜ人質交換によってわざわざ築山殿を引き取ったのか。信康と亀姫だけを引き取るということもできたはずです。

■悲劇をもたらしたのは信康に嫁いだ信長の姫だった

家康は築山殿の両親である関口夫妻に対する罪の意識を持っていたのではないでしょうか。自分が今川と手切れをしたために、彼らは命を落としたわけですから。その贖罪意識もあって、築山殿と離縁することもなく、人質交換で手元に取り返したのではないか。私はそう見ています。

元亀元年(1570)、家康は遠江の浜松城を新たな居城として移ります。すると、嫡男の信康が岡崎城に入り、築山殿も生母として入城します。そして天正7年(1579)には信康の正室・徳姫(信長の娘)のひと言が原因で、築山殿は処刑され、まもなく信康も二俣城で自刃しました。

■築山事件の始まりは家康にとって寝耳に水だった

いわゆる築山事件と呼ばれる事件は、家康の正室・築山殿と、その子で嫡男の信康が、勝頼に内通していたことを理由に家康によって殺害された事件です。私は、じつは4年前の大賀弥四郎事件が、その伏線になっているではないかと思っています。

天正7年(1579)7月16日、信長から家康に、築山殿と信康に謀反の疑いがあると通告がありました。それを訴え出たのは、信長の娘で信康の正室となっていた徳姫でした(図表1参照)。おそらくそれは、家康にとっては寝耳に水の事態だったと思います。もしかすると、水野信元を殺害した事件を思いだしたかもしれません。今度は自分が危ない。家康がそう思ったとしても不思議ではありません。

築山事件 関係系図
出典=『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』より

■信康の家臣が甲斐・武田家と内通し、信長の逆鱗に触れた

この内通事件の張本人とされているのは、信康家臣の中根政元だったと言われています。その父・中根正照は、二俣城を守っていて武田勢に城を開け渡したのち、三方ケ原の戦いでは真っ先に討死にしたとされる、武勲で知られる人物でした。この正照の娘は、弥四郎と結婚しました。つまり、中根政元と大賀弥四郎は義兄弟になるわけです。

この人間関係が、大賀弥四郎事件と築山事件の接点になったのではないか。武田勢を岡崎城に引き入れようと画策した弥四郎は失敗した。その4年後に義兄弟の政元が、弥四郎の遺志を継いで築山事件を起こしたという理解です。

このあたりは史料がきわめて少なく、未だに定説はないのですが、どうやら徳川家臣団内部では、浜松の家康に近侍して、対武田戦争に積極的だった層と、岡崎の信康に近く、武田との対決に消極的だった層があり、両者の間で意思の疎通が図られていなかったように思われます。そうした家臣団内部の動揺を受けて武田方への内通を図ったのが、政元ということになります。

そして、徳姫がそのことに気づいて信長に注進に及んだ。信康と築山殿が勝頼に内通しているという話は、こうした家中の情勢を背景にしたまぎれもない事実だったと思います。

■長男に自分と戦う覚悟はあるのかと迫った家康

その後の経過を、深溝松平家の松平家忠が残した『家忠日記』をもとにたどってみましょう。浜松を発した家康は8月3日に岡崎城に入り、信康と対面して事情を聞きます。おそらく信康は、ことの真相を家康には語っていないでしょう。

松平信康の肖像(写真=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
松平信康の肖像(写真=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

そして2日後の8月5日、家康は西尾城へ移って戦支度をし、信康は大浜城へ移されています。これはいったいどういうことなのか。行動の意味がつかみづらい。これは小説家的な想像で証拠はありませんが、家康は、もし信康が信念に基づいて行動を起こすなら、いつでも相手になる。戦でそれを示せと信康に告げたのではないでしょうか。

自分は西尾城に行く、お前は大浜城に行って戦の準備をしろ、と。信康はすでにひとかどの武将であり、岡崎には直臣たちもいます。対武田戦争を継続するという自分の方針に従わないのなら、正々堂々と家臣を率いて戦で勝負しろと、信康とその背後にいる家臣たちに迫ったのではないか。このわしと一戦交える覚悟があるのかと威嚇することで、逆に信康に賛同した家臣たちの戦意をくじこうとしたのではないか。そう思うのです。

■家康が直に対処したことで事態は収束した

頭に血が上った信康の家臣たちは、下手に説得すれば逆上して武力蜂起に及ぶかもしれない。しかし、歴戦のつわものである家康に「俺を倒してからやれ」と凄まれたら、家臣たちもふと我に返るでしょう。それがこの事件の狙いだったのではないでしょうか。

ところが、家康が浜松から岡崎に乗り込んできた段階で、もう信康に従う家臣はいなかった。すでに築山殿や信康の計略が失敗したことは明らかでした。そこで家康は、8月9日に信康を浜名湖の東岸に位置する堀江城に移します。そして翌十日には、三河の国衆を集めて「信康には味方しない」と約束する起請文を書かせ、乱を収めてしまいました。

■築山殿が武田家に密書を送ったという説は史実か?

武田方への内通については、築山殿が唐人医の西慶という人物を通じて武田方に内通していたとされていますが、私はそれも事実だったのではないかと思っています。実際には、長篠の戦いの直前、つまり四年前の大賀弥四郎事件のときに、すでに築山殿は勝頼に密書を送っていたのではないか。三河一国を信康に安堵してくれるなら、武田方に寝返ってもいいという起請文を勝頼に送っていたのではないか。そんな気がするのです。

それを信康が承知していたかどうかは、分かりません。しかし長篠の戦いに敗れた勝頼は、その起請文をネタに信康をゆすっていた可能性があります。これが信長に知られたらどうなるか。徳川家は破滅だぞ、と。このとき信康は、築山殿を断罪し、場合によっては切り捨ててでも、家康にことの次第を報告するべきだったと思います。

■信康は苦楽を共にしてきた母親を切り捨てられなかった

しかし、今川家での2年に及ぶ人質時代を含め、ずっと苦楽をともにしてきた母親をなんとか助けたかった。しかし信康の妻・徳姫には、それを許すことはできなかったのでしょう。ことの真相を明らかにするには、父の信長に訴え出るほかない。そして、事件が発覚したわけです。

これも想像の域を出ませんが、武田家は信玄存命中から、将軍・足利義昭と通じて信長と対峙していました。築山殿は今川家の出身ですから、将軍家に親近感を持っていたはずです。そして、天皇に任命された征夷大将軍が武家政権を率いて全国統治をするという旧来の秩序に、正当性を感じていたはずです。

もしかすると、信康もそうした教育を受けていたかもしれない。すでに天正元年に将軍・義昭を京から追放した信長よりも、武田方にシンパシーを抱いていた可能性もあります。

■妻と息子を殺すのか? 家康の苦渋の決断

家康は、信長の命を受けてやむなく妻と子を殺害したのか、それとも自発的に殺害を命じたのか。研究者によって意見が分かれています。いずれにしても、最終的な判断は家康本人が下したと私は思っています。

安部龍太郎『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版)

大賀弥四郎事件の段階で、すでに家中が分裂していたことも、家臣や築山殿が武田方に内通していたことも、すべて事実であるならば、その責任は主君である家康にあります。しかし弥四郎事件は、一部の者が謀反を企んでいたということで幕引きされました。

ところが、長篠の戦いを挟んで、あらためてその事実が浮上し、信長の知るところとなってしまった。家康としては、自らの決断ですべてを処断する必要があったのだと思います。8月29日、築山殿は遠江の佐鳴湖に近い小藪村で処刑され、信康は9月15日に二俣城で切腹して果てました。

こうして、三十歳代の家康を苦しめた築山事件は、幕を下ろしたのです。

■正式な妻と認められた2人の女性

築山殿の死後、家康は豊臣秀吉の妹・朝日姫(1543~1590)を正室にします。正室はこの二人だけで、それ以外に記録に残るだけで20人の側室がいたと言われます。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(写真=南明院所蔵「旭姫像」/PD-Japan/Wikimedia Commons)
朝日姫の肖像(写真=南明院所蔵「旭姫像」/PD-Japan/Wikimedia Commons)

しかし、九州大学教授の福田千鶴さんの研究によれば、彼女たちは全員が側室、つまり妾ではなく、継室と呼ぶべき正式な妻もいたようです。ここでは代表的な二人を取りあげます。

お万の方(長勝院1548~1620)。父は池鯉鮒明神の社人を務める永見貞英で、母は水野忠政の娘で於大(※家康の生母)の妹でした。つまりお万の方は於大の姪にあたります。元亀三年に浜松城の家康に嫁ぎ、天正二年に結城秀康を産みます。秀康はじつは双子で、もう一人は永見貞愛とされています。

秀康は天正十二年に秀吉の養子となり、のちに結城氏を継ぐことになります。関ケ原の戦いのおりは関東の守りを任され、その功で越前北ノ庄六十八万石の大名となります。お万の方も秀康に従い越前に移りました。そして慶長12年(1607)に、秀康は病で急死。お万の方は出家し、元和5年(1620)に北ノ庄で72歳の生涯を閉じます。

■徳川二代将軍・秀忠を生んだ側室は再婚だった

お愛の方(西郷の局1552~1589)は、三河西郷氏の出身。戸塚忠春という武士に嫁ぎますが夫に先立たれ、次いで従兄の西郷義勝の妻となり一男一女をもうけます。しかし、元亀2年の竹広合戦で義勝は戦死。その後、酒井忠次の妹婿にあたる西郷清員の養女として、家康の側室となりました。家康の寵愛を受け、天正7年には嫡男・徳川秀忠を、翌年には松平忠吉を産んでいます。

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安部 龍太郎(あべ・りゅうたろう)
小説家
1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。1990年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。主な著作は、『関ヶ原連判状』、『信長燃ゆ』、『生きて候』、『天下布武』、『恋七夜』、『道誉と正成』、『下天を謀る』、『蒼き信長』、『レオン氏郷』など多数。大河小説『家康』(幻冬舎時代小説文庫)を連載中。

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(小説家 安部 龍太郎)

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