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作家にはふたつの道がある。キミはどちらを選ぶのか…伊集院静が後輩作家にひそかに語った「仕事の流儀」

プレジデントオンライン / 2023年12月1日 9時15分

第149回芥川・直木賞の授賞式に臨む伊集院静さん=2013年8月23日、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト

■和田アキ子さんたちは「じゅっちゃん」と呼んだ

わたしはいつも「伊集院さん」と呼んだ。伊集院さんは「野地くん」。伊集院さん夫妻の仲人でアートディレクターの長友啓典(故人)さんは「伊集院」と呼び捨てにしていた。同年代の編集者も「伊集院」と呼び捨てで、年下の編集者は「伊集院先生」だった。

俳優の高倉健さんは「伊集院ちゃん」と呼んだ。高倉さんが親しい人を呼ぶ時は「ちゃん」付けだったから。高倉さんは、石原裕次郎は「裕ちゃん」、美空ひばりは「ひばりちゃん」と呼んだ。だから、「伊集院ちゃん」。歌手の和田アキ子さんをはじめとする何人かの飲み仲間は「じゅっちゃん」と呼んだ。

わたし自身はいくらなんでも「じゅっちゃん」と呼びかけることはできなかった。

初めて伊集院さんと会ったのは1994年。『キャンティ物語』(幻冬舎)を出した後、銀座の文壇バーで長友さんから紹介された。

伊集院さんは「キミか」と驚いたような顔でわたしを見た。

「キミが『キャンティ物語』を書いた野地くんか。若いんだな(当時、37歳)。そうか、野地くんか。腕を上げたな、キミは」

■「早く2冊目を書くんだ。小説がいい」

わたしは若くはなかった。だが、飯倉のキャンティで遊んだ人たちはわたしよりも15歳は年上だったから、「年下のお前が書いたのか?」と驚かれることはあった。

あの時、横にいた長友さんが「伊集院、何を言ってんのや。あれは初めて書いた本やで」と笑った。伊集院さんは動じない。話の方向を変えて、正面からもう一度、わたしを見た。

「早く2冊目を書くんだ。小説がいい。ノンフィクションなんてやめておけ」

それは伊集院さんが直木賞を取った2年後で、小説家としてすでに大家という感じを受けた。

当時、わたしは週に3回は長友さんと会って一緒に食事をして、酒を飲んでいた。長友さんはその後、待ち合わせた仲間と銀座のクラブへ寄り、カラオケへ行った。

わたしはひとりで帰った。お金を持っていなかったし、おごってもらうのも申し訳なかったから、「今日もまた締め切りなんです」と嘘をついた。それほど仕事があったわけではなかったから、締め切りなんてなかった。発表するあてはなかったが、小説や詩を書いていた。

ある晩、銀座のおでん屋で関西風おでんのクジラのコロ(皮の部分)を食べていた時、長友さんが断言した。

「野地くん、出世するで」

なぜ? どうして? それならいいのに……。

長友さんはわりと重々しく続けた。

「野地くんの前は伊集院だったんや。毎晩、ご飯食べして、酒を飲みに行った。そうだな、マンションを3軒は買えるくらいは飲んだ」

■「伊集院静」というペンネームの由来

長友さんは「自慢で言うわけやない」。

「伊集院も金を持ってなかった。おごられるのも嫌だと言っていた。野地くんと同じようだった。だから、出世するで。そしたら、また飲みに行こ」

長友さんの重々しい話は続いた。

「あのね、伊集院はなぜ伊集院静なのか知ってる?」

もちろん、知りません。

「伊集院は立教を出た後、中堅の広告代理店に入って修業してた。そこに伊集院静(ペンネーム)という先輩のコピーライターがいてたのよ。その人がコピーを書くと、クライアントは全部、採用。ところが、その人が辞めた。会社は困る。

伊集院は『おい、お前、今日から伊集院静だ』と言われて、二代目伊集院静としてコピーを書いたんや」

なるほど。

作家になった頃、伊集院さんはペンネームのことで年上の編集者たちから、さんざん嫌味を言われたという。

「自分で自分に伊集院静なんて名前を付ける奴がいるか。詐欺師みたいなもんだ」
「やっぱりコピーライターだな。ウケればいいと思ってる」

こうした声ばかりだったのである。

わたし自身も同じような感想を持っていた。いくらなんでも自分に「伊集院静」はないと思った。

こうした声に対して伊集院さんはひとことも反論も弁解も説明もしなかった。自分が好きでつけた名前ではないとも言わなかった。理由はわからない。だが、言い訳は余計だと考えていたのだろう。作家の価値はペンネームではなく作品で決まるとわかっていたからだ。

■いつも清潔で、汚れを許さない人だった

長友さんと酒を飲みに行っていると酒場で伊集院さんに会った。伊集院さんが一緒に飲んでいた人は私が知る限り出版界の人間ではなかったし、担当編集者でもなかった。

なぜか紹介してくれなかった。何をやっているのかわからないような人と飲んでいたのである。思えば、わたしも本を1冊か2冊出しただけだ。何で食っているかわからないような人間だったから、伊集院さんと一緒にいる人も同類だと感じていた。

会うと必ず声をかけてくれた。

「野地くん、最近、腕を上げたな。ますますよくなった」

本を出していなくてもそう言ってくれたのは伊集院さんだけだ。

ゴルフ場でも何度か一緒になった。

一度、ゴルフ場のロッカーで背中合わせになったことがある。

「キミ、シューズを脱ぎなさい」

シューズを脱ぐと、靴底についていたわずかなゴミをブラシで落としてくれた。枯れた芝が床に落ちたら、それをつまんでわたしの手のひらに載せた。

「ごみ箱に捨ててきなさい」

わかりました。そのまま捨てに行った。何か深い意味があったのか、それともそうではなかったのか。いまだによくわからないが、観察力、やさしさ、面倒見の良さは伝わってきた。なお、長友さんによれば伊集院さんは服装やシューズにうるさく、他人が履いているシューズが汚れていたら、「脱げ」と言ってきれいに掃除してこいと言うらしい。きっとあの時のわたしのシューズは汚れていたのだろう。

■なぜ伊集院静はおじさんに愛されるのか

手紙をくれる人だった。わたしが手紙を出すと必ず返事をくれたし、「キミが書いたエッシャーの本を読んだ」と手紙をくれたこともある。伊集院さんは美術紀行の本『美の旅人』(小学館)を出しているくらい、美術が好きだ。その本は専門家ぶらない鑑賞者の目線に立った本だ。わたしはその本の大ファンだったから手紙を出して感想を述べた。

ある日、調子に乗ったわたしは伊集院さんにまるで指導するかのような手紙を書いて送った。今思えば不遜で生意気で恥ずかしい。すみませんでした。

「アメリカの野球小説みたいなのを書いたらいかがでしょうか。章立ては『1回表』、『3回裏』といったように進んでいって、最後の章の見出しは『9回裏』ではないんです……」

ボールペンと封書
写真=iStock.com/c11yg
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/c11yg

そんな手紙なのに長い返事をくれた。だが、中身は野球小説のことではなかった。伊集院さんの手紙にある文字は一字一字、彫刻刀で彫ったような丁寧なそれだった。最後に「野地くん。ますます腕を上げたな」と書いてあった。

伊集院さんは女性に人気のある人だった。けれど、伊集院ファンの中核はおじさんたちだ。特に得体のしれない仕事をしている人たちにとって、伊集院さんは守護天使だ。いつでも、何をやっても、酒を飲んで酔っ払っても褒めてくれる人だったからだ。

伊集院さんと知り合った大阪のおじさんは伊集院さんのことを崇拝し、「流儀先生」と呼んでいた。大阪のおじさんは「キミ、最近、腕を上げたな」と言ってほしくて、伊集院さんがいくスナックに毎日のように顔を出していた。思えば、「腕を上げたな」という褒め言葉は何にでも誰にでも使える。言葉の使い方がうまい。

■高倉健のために書いた2本の作品

一度だけ正式にお願いしてインタビューをしたことがある。それは高倉健さんについて、である。感傷的な文章だけれど、伊集院さんは「腕を上げたな」と喜んでくれた。

以下は、「伊集院静独白『小説を書く力をもらった高倉健さんとの三〇年』」(『PRESIDENT』2012年9月17日号)に収録された伊集院さんの言葉である。


いまから三十数年前になりますか……。私がなぎさホテル(逗子市)にいた頃の話です。あるプロデューサーを通して健さんの映画の原作を書いてみようと思いました。

その後、健さんから直筆の手紙を頂きました。

その手紙の文字を見ながら、遅々として進まない原稿を進めた。二本の物語を書いた。

一本は『機関車先生』というタイトルで、こちらは後に柴田錬三郎賞を頂戴した。もう一本は未完のまま『丘の道』というタイトルの原稿が残っている。

二本ともご本人に渡すことはできなかった。それでも、この二本を書き上げようという気力が、今思えば、私に小説家への道を進ませたのかもしれない。何かの折につけ、私は健さんの映画のシナリオのことを考える。

まさしく、私にとってはあの人がいる限り、作品を書いていこうという気力が湧いてくるのです。創作という仕事に携わっている限り、高倉健のことはずっと考え続けるというか……。ですから、高倉健さんを頭に置いて書き進めた作品はいくつかあります。

■健さんが演じる姿は頭の中にあるけれど…

たとえば『羊の目』(2008年、文藝春秋)です。

やくざの世界を描いたものだけれど、単なる復讐譚ではなく、「親は何か」をテーマにしたものです。産んでくれた親でなくとも、自分が親と決めたら、絶対に裏切らない。それを美徳と考えるか否か。昔のやくざの世界にはあった。私はやくざの世界を称賛するわけではない。

しかし、戦後日本人が失いつつある、親についての捉え方をテーマにしたかった。やはり創作というものは、文字になっているものとは別に確固たるテーマが内在していない限り文学にはならないと思うんだ。

まあ、ちょっと話はそれたけれど、『羊の目』を読んだ人は全員、「主人公は高倉健だ」と直感する。私自身もそう直感するんだけれど、これがなかなか映画にはならない。映像化するには難しい個所がいくつもあるから。

『丘の道』もいまだに書けていません。高倉健さんが丘の道を通って、うちに帰っていくという映像だけは僕の頭のなかにある。そのまま三十数年経っているわけです。

『いねむり先生』という作品は師事していた色川武大さんを描いたものです。来年、テレビになり、映画化もされることが決まっています。映画のプロデューサーがやってきて、「色川さん役について誰かイメージありますか」と聞かれました。

「いえ、まかせます…….。でも、プロデューサーは執拗でした。

■健さんに「ギャンブル好き」を演じてもらいたい

「伊集院先生、頭のなかに誰か俳優さんがいらっしゃるでしょう。どなたでもかまいません。口にしてみてください」
「確かに理想はひとりいる。しかし、口にしたからといって実現することはありませんから。まかせます」
「この場だけでも聞かせてください」

仕方ないので言いました。

「高倉健さんです」

プロデューサーはびっくりしていました。だから、私は続けて言いました。

「あなたたちにはとても想像つかないでしょう。健さんが色川さんの役をやることを。高倉健がギャンブルばかりして、ナルコレプシーで眠り込んでしまうなんて……。だが、私は想像できる。高倉健さんの姿を思い浮かべることができる」

なぜ、高倉健さんなのか。

色川さんと競輪場へ行ったことが何度もある。色川さんや私のような常連は「メッセンジャー」という若い女性に来てもらって、車券を買う。予想が当たったら、彼女たちが配当金を持ってきてくれるわけだ。

ある日のことだった。色川さんをはじめ一〇人くらいいたかな。予想が当たってメッセンジャーが配当金を持ってきた。中を見たら、競輪場の計算違いで、何十万円かの金が余計に戻ってきたんです。競輪場の配当ってのはすべて切り下げて計算される。だから、競輪場はそのようなミスでも補填がきくようにしてある。

■ふたりとも“男気”を持っている人だった

そこにいた連中はいつも損ばかりしているから、「色川さん、よかった。儲(もう)かった。今のうちに、この金で飲みにいきましょう」と盛り上がる。

すると、色川さんがぽつりと言われました。

「どうだろうか……。たったそれくらいの金で、ひとりの女の子の人生を決めてしまうというのは……」

その言葉を聞いて、みんなハッと我に返り、メッセンジャーを呼んで金を戻しました。

つまり、色川さんという人は基本的な正義を持っている人なんだ。男気と言い換えてもいい。そして、私にとっての高倉健はまさしくそういった基本的な正義を体現している人だ。

だから、色川さんの役を高倉健がやったとしても少しもおかしくない。

しかし、思えば色川さんも高倉さんも“覚悟の人”です。私はそんな立派な人に囲まれて生きてきた。立派じゃないのは私ひとりだけだ。

知り合って三十数年になりますが、お目にかかるのは数年に一度あるかないかです。

最近では『あなたへ』の撮影現場で、健さんとビートたけしさんが私の話をしたという噂を聞いたくらい。会う機会は少ないのだけれど、縁は切れないんです。

■父親の命日には、必ず花束をくれた

うちの父親は芸能人を誉めない人だった。だが、高倉健に関してだけはいつも『彼は違う』と言っていた。

もっとも芸能界だけじゃなく、私が小説を書いていることも認めない父親で、「おまえ、つまらない仕事を選んで」としじゅう、呆れられていた。

私としては父親を納得させるためには、父が唯一認めた俳優が主演するものの原作を書くしかないと思っていたんだ。

その父親が亡くなった。すると、健さんから花が届いた。その後、毎年、命日には必ず花を頂く。何とも言えない。

ほとんど会うことなどないのに。日頃、手紙や言葉を交わすわけでもない。それでもあの人は私の父親の命日を忘れない。

そんな人です。

花束
写真=iStock.com/shironagasukujira
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shironagasukujira

また、私自身も健さんが映画の撮影に入ったからといって差し入れを持って挨拶に行ったことは一度もありません。

行こうとも思わない。私が健さんに持っていくべきものはアンパンや果物じゃなくて、映画の原作だろうって気持ちがありますから……。この三十数年のことを考えると、高倉健は私にとっては、“見果てぬ夢”なんです。

あの人がいる限り、あの人に向かって作品を書き続ける。かなうようでかなわない夢。

そんな人はなかなかいない。なぜ、あの人のことを見果てぬ夢と思うかといえば、高倉健という人もまた"見果てぬ夢"を追って生きているように感じてしまうんです。


■どんなに小さな書店でも挨拶に回っていた

作家は新刊が出ると書店へ行く。販売促進とサイン本を書くためだ。書店へ行って挨拶すれば書店員が著書を目に付く場所に平積みにしてくれる。そうすると、本は売れる。またサイン本を書けばほぼ売れる。サイン入りの本は返本できないから書店はいいところに並べて売る。作家は一冊でも多くサイン本を書き、サイン入り色紙を置いてくる。

わたしは本が出るたびに東京、名古屋、大阪、福岡の書店を回ることにしていた。そうやって地道に本を売っている。すると、どこの書店へ行っても必ずサイン入り色紙がある作家がいた。伊集院さんと浅田次郎さんだ。このふたりの色紙はどんな小さな町のどんな小さな書店でも置いてあった。

ふたりの色紙を見ると、わたしは「負けてたまるか」という気になり、どこの町の書店でも飛び込んでいって挨拶をした。

大阪の、とある小さな書店で働いていた女性店員に聞いたことがある。

「伊集院先生はこちらにもいらしたのですか?」

メガネをかけた彼女は上気して「はい」と答えた。

「色紙を書いてくださって、しかも……」

しかも……。

「ハグしてくださいました」

そうか、わたしも追加サービスでハグをしなければならないのか。と彼女を見たら、じりじりと後ずさったのである。

「ばか者、お前ごときにハグされてたまるものか」という女性店員の気迫を感じた。

■伊集院さんが“仕事の流儀”を語った日

その日だったか別の日だったか、大阪にある世界三大バー(by伊集院静)のひとつ「チルドレン」へ行ったら、伊集院さんがカウンターで飲んでいた。なぜかメキシコのプロレスラー、ミル・マスカラスの仮面をかぶってウイスキーをあおっていた。

伊集院さんが仮面をかぶることは知っていたので、ただ単に「こんばんは」と挨拶して、編集者とふたりでウイスキーを飲んだ。

マスクのなかからもごもごと伊集院さんがこんなことを言った。およそ説教くさい話をしない人だったのに、酔っぱらっていたのだろう。わたしは伊集院さんから初めて世間話以外の話を聞いた。

「野地くん、ふたつの道がある。ひとつは楽な道だ。適当に短いものを書いて連載して売ればいい。もうひとつは儲からない道だ。取材に時間がかかってなかなか本にならない。その間、金がないから借りたり、アルバイトしたりしなきゃならない。本を出しても大して売れない。

そんなふたつの道がある。

作家になったら、当然、貧乏になる道を行かなければならない。本を売ろうなんて考えてはいけない」

そうか。もうひとつ、楽な道があったんだ。選ぶも選ばないも、わたしの前には道はひとつしかなかった。伊集院さんだって、きっと道はひとつとわかっていて、進んだのではないか。それでも後輩のために文学的に表現してみたのだと思った。ミル・マスカラスの仮面をかぶりながらでも伊集院さんは文学を追求していた。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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