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なぜ「見出し詐欺」の記事をクリックしてしまうのか…ヒトの知りたい欲をくすぐる「編集」の力

プレジデントオンライン / 2023年12月8日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RyanKing999

「編集」とはどういう作業なのか。編集者の松岡正剛さんは「雑誌や書籍やテレビという『情報の箱』を次々にあけさせるために、情報の特徴を読みとき、それを新たな意匠で変化させ、再生することだ。こうした能力をもつのは記者や編集者だけではない」という――。

※本稿は、松岡正剛『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。

■ニュースや記事には編集が加わっている

いま、われわれは膨大な量の情報にかこまれ、おびただしい数のメディアにさらされている。こんな大量の情報に一人一人が対応することはどう考えてもとうてい不可能だ。そこで、誰もが新聞やテレビや雑誌や書籍を日常的に利用する。目を走らせる。最近はBSやCSやインターネットや携帯電話でもニュースが手に入る。〔追記=この「最近」とは1990年代半ばのこと〕

新聞やテレビや雑誌がもたらしてくれる情報は、世界中にガンジスの砂子のごとく溢れている情報からくらべれば、それなりにしぼられているのだから、しぼられているぶんだけ、ざっと目を通すにはとても便利になっている。だから、拾いやすいし、読みやすい。とはいえ、そのニュースや記事をナマのままだとおもってはいけない。

事実そのものではない。そこには編集が加わっている。しばしば新聞の読者やテレビの視聴者は、ニュース報道というものは客観的事実を伝えているとおもいがちであるが、けっしてそんなことはない。どんなニュースも編集されたニュースなのである。〔追記=その後SNSが普及するとユーザーが発信者となって、編集なしの情報が出回るようになった〕

■見出しで情報の表情はがらりと変わる

新聞の記事は記者が書いている。記者が書けることは、平均すれば事実のほんの一部だ。各紙で表現もちがっている。その記事のヘッドライン(見出し)も記者やデスクがつけている。「トンネル事故」と書くか「トンネルで惨事」と書くかでは、ニュアンスは変わってくる。同じ記事に「首相、苦悩の決断」とつけるか、「首相、いよいよ決断」とつけるかで、情報の表情は変わってくるのである。客観的事実をそのまま伝えるなんて、しょせん不可能なのだ。そこが逆に各紙の腕のみせどころにもなってくる。

テレビのニュースにもさまざまな編集が加えられている。一見、報道すべき事実だけをナマで伝えているように見えるものの、一度でもテレビ局の編集現場を見ればわかるように、10倍から50倍の素材映像をいろいろ切りきざみ、つなぎあわせ、これにナレーターやアナウンサーの読む原稿やニュースキャスターの言葉を加える。

■映像に潜む「やらせ」や「フェイク」

1985年あたりをさかいに、日本のテレビニュース番組やワイドショーには、画面いっぱいの書き文字を見せるようになってきた。キャスターが「では、次にオウム事件の背後に迫ってみたいとおもいます」と言うと、「麻原彰晃、少年時代の驚くべき事実」といったおどろおどろしい書き文字が画面にあらわれるという、あの手法だ。テレビが雑誌に近づいてきたのである。ワイドショーではだいたい15秒に1回の割合で文字が出る。

それでも、テレビカメラは真実を伝えているのじゃないかと反論する向きもあるだろうが、なかなかそうはいかない。ある抗議デモでおばあさんが転んだ画面のあとに、機動隊員が棍棒をふりかざしている画面がつながれば、その報道の狙いは明白だ。視聴者は画面の編集の仕方に注目したほうがいい。「やらせ」や「フェイク」も勘定に入れて見たほうがいい。

新聞や電車の中吊りには週刊誌の内容広告が載っている。派手なものが多い。派手といってもヴィジュアルに派手なのではなく、さまざまな特集記事を示す大小の文字がびっしりと並んでいるものだ。わざわざ週刊誌を買わなくとも、その内容広告を見ているだけで、どんなことが載っているかがわかるくらいだ。

■読んでみて裏切られることも勘定のうち

こうした広告を飾っているフレーズはヘッドラインのお化けの一種なのであるが、読むほうもかなりオーバーな気分になっている。しかし、それが読者の好奇心をかきたてる。最近は新聞最終面の1ページ大のテレビ番組欄にもヘッドラインがくっつきはじめた。「あの梅宮アンナが話の途中に号泣」といったたぐいだ。「密林の奥に何かが!」などというわざとらしいものもある。けれども、視聴者はそのヘッドラインにひかれて番組を見る(あるいはバカバカしくなってテレビを見なくなる)。

ヘッドラインは内容そのものではない。しかるべき内容の特徴を引き出すフラッグ(旗)のような役割をもつ。そのフラッグの下に「かくかくの情報が集まっていますよ」という目印だ。

だから「誰も知らない渋谷のグルメ情報」とか「シワをとる化粧品教えます」という文句にひかれて、そのメディアを読んでみても、自分にぴったりのグルメ情報や美容情報があるとはかぎらないし、その情報が店の写真と2、3品の料理写真や品物の写真だけで、もっと知りたいことが書いていないということもある。そんなことは読者もわかったうえで、そのフラッグ(目印)の下の情報ファイルをあける気になったのだ。裏切られることも勘定のうちなのだ。

■タイトルが書籍を手にとるきっかけに

ヘッドラインというものは、該当情報の内容のもうひとつ奥にあるレイヤー(レベル)に置いてある詳しい情報ファイルをあける気にさせるためのフラッグであって、トリガー(引き金)なのである。

かの孫子の兵法このかた、戦国の武将たちはグループごとに戦旗や旗指物(はたさしもの)や馬印をかかげた。むろん味方のためでもあるが、敵をあざむくためにも活用した。それはフラッグが際立った情報力をもっていたからである。そうだからこそ、それぞれの陣の軍師たちは、旗指物を目印にどのように戦列を組み立てるか、そこに最大の熟慮を加えた。

ヘッドラインよりももっと単純な目印はタイトルだ。

書籍のタイトルはその典型的なもので、司馬遼太郎の『この国のかたち』というタイトル、エリック・ラーナーの『ビッグバンはなかった』というタイトル、立花隆の『サル学の現在』というタイトルで、読者はタイトルに惹かれてその本を書店の棚から手にとってパラパラと見る。

本棚から本を手にとる人
写真=iStock.com/Dima Berlin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Dima Berlin

■「情報の箱」をあけさせるための仕掛け

一方、たとえば『ソフィーの世界』というタイトルは、それだけでは恋愛小説なのかサスペンスなのか哲学書なのか、わからない。著者が知られていないことも多い。そこで出版社はそこにサブタイトルをつけ、さらに“腰巻”とよばれる帯をまく。ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』では、サブタイトルが「哲学者からの不思議な手紙」、帯には「世界中で読まれている哲学ファンタジー、あなたはだれ?」と訴える。これでだいたいの見当がつく。

タイトルやヘッドラインは編集の何たるかをあらわす最もわかりやすい入口だ。タイトルやヘッドラインは、ある情報の一部の特徴を示しているだけのものでありながら、ユーザーをめぼしい「情報の箱」に近づかせるためのアトラクティブ・フラッグなのである。ユーザーはそのアトラクティブ・フラッグに気を引かれながら、雑誌や書籍やテレビという「情報の箱」を次々にあけていく。

■つまらない企画書やイベントに欠けているもの

編集というしくみは、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというお膳立てだったのである。ラグビーの試合とか、グルメ情報とか、宇宙開闢(かいびゃく)のビッグバンとかの「情報の箱」に近づく人々に、次々に奥にある情報の特徴を提供していく作業、それが編集というものなのである。

こうしてみると、編集とは「該当する対象の情報の特徴を読みとき、それを新たな意匠で変化させ、再生するものだ」ということが、とりあえずわかってくる。ユーザーにとってはその最初の手順が、まずタイトルとして、次にヘッドラインとして、目にとびこんでくるわけなのだ。目にとびこんでこないようなら、スポーツ紙が得意にしているように、タイトルやヘッドラインをバカでかくしたり、語呂あわせをつかったりして、目をひくようにする。

このようなことは、新聞や雑誌やテレビなどのメディアの世界ばかりで試みられていることではない。小説や漫画やテレビドラマはもちろん、企画書や営業報告書や、またイベントや都市計画や政策にもあてはまる。いやむしろ、こうした領域にこそ編集の技法はどんどんいかされてきた。誰も見向きもしない報告書や提案書があるとしたら、そこに欠けているのは〈編集力〉なのだ。

■営業部長や料理人も〈編集力〉を身につけている

〈編集力〉は記者や編集者やテレビ・ディレクターだけが身につけている能力をさしているのではない。映画監督もラグビーのキャプテンも、営業部長も技術開発部長も、また、料理人も子育て中のお母さんも、身につけている能力である。

京都花背(はなせ)の美山荘の中東吉次さんは、瓢亭(ひょうてい)の高橋英一さんらとともに京都の料理をリードしつづけた名人である(残念ながら先年亡くなった)。その中東さんは私との対談で「料理は編集なんです」と言っていた。平井雷太君の主宰する「すくーるらくだ」で地域の子どもたちの勉強を見ているお母さんたちの、何人もの人たちが「子育てとは編集することです」と言っていた。〈編集力〉はいろいろなところに潜在する。

料理人やお母さんはヘッドラインをつけたりしているわけではないし、映像を切りきざんだりしているわけでもない。けれども、それに似たこと、もしくはそれ以上のことをしている。

■主婦やお母さんの「すごい編集力」

料理人は、まず何品かの料理の見当をつけて素材を仕入れる。ついで、長年のレシピの経験をいかしてみごとな手順をたてる。調理中はアク抜きをしたり、あしらいものをきざんだり、ガスの火を強めたり弱めたりして、いくつもの過程を並列処理する。さらには織部(おりべ)の皿や塗りのお椀などの器を選び、盛り付けの量を調整する。おまけに「雲丹かぶら蒸し松葉添え」などといったタイトルまで考え、客の食べ方に応じたタイミングさえはかる。これは立派な編集なのだ。

懐石料理
写真=iStock.com/Nick Poon
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nick Poon
松岡正剛『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)
松岡正剛『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)

世のお母さんがたの日々の仕事もたいへん編集的である。育児と家事には授乳から子どもの送り迎えまで、掃除・洗濯・食事の用意から家族の健康管理や近所づきあいまで入っているし、夫との葛藤の解消もときどきはしなくてはならない。たんに多事多忙だというのではなく、これを朝昼晩のプログラムにもとづいて強弱をつけながら片づけていく。

ウィーン生まれの哲人イヴァン・イリイチによって、賃金が支払われていないという意味で「シャドウ・ワーク」という名を与えられた主婦やお母さんの日々の仕事には、子どものいない私などが見ると、ただ驚嘆するしかないような編集力がつねにいかされている。私の妹を見ていても、子育てと石油会社勤務と母の世話と夫のカバーを、なんとも奇跡的なしくみで編集しているのがよくわかる。加えて趣味の山登りも欠かさない。その一部始終は彼女が日々の中で組み立て、彼女が日々の中でレイアウトしている「一冊の生きたマガジン」だ。

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松岡 正剛(まつおか・せいごう)
編集工学研究所所長
京都府生まれ。オブジェマガジン『遊』編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授などを経て、現在、編集工学研究所所長、ISIS編集学校校長。情報文化と情報技術をつなぐ研究開発に多数携わる一方、日本文化研究の第一人者でもある。おもな著書に『自然学曼陀羅』『外は、良寛。』『日本数寄』『日本流』『山水思想』『空海の夢』『知の編集工学』『遊学』『花鳥風月の科学』『フラジャイル』『ルナティックス』ほか。また『全宇宙誌』『アート・ジャパネスク』『日本の組織』『情報の歴史』など多数編集。

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(編集工学研究所所長 松岡 正剛)

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