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NHK大河ドラマを信じてはいけない…「徳川秀忠=凡庸な二代目」とは言えないこれだけの理由

プレジデントオンライン / 2023年12月2日 11時15分

『どうする家康』で秀忠役を演じる俳優の森崎ウィンさん。第33回東京国際映画祭のオープニングセレモニーに登壇した(=2020年10月31日、東京都千代田区の東京国際フォーラム) - 写真=時事通信フォト

江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「文武を兼ね備え、すぐれた決断力で幕府の基礎を築いた。NHK大河ドラマ『どうする家康』で描かれたような凡庸な人物ではなかった」という――。

■徹底的に「凡庸で鈍感な人物」として描かれている

こんなに頼りなくていいのか、と感じる視聴者も少なくないのではないだろうか。NHK大河ドラマ「どうする家康」での徳川秀忠(森崎ウィン)の描かれ方である。たとえば、第44回「徳川幕府誕生」(11月19日放送)では、本多正信(松山ケンイチ)に「いうなれば偉大なる凡庸」といわれ、「関ヶ原でも恨みを買っておりませんしな。間に合わなかったおかげで」と説かれても、「たしかにそうじゃ。かえってよかったかもしれんな」と素直に答えていた。

徳川軍の主力3万8000を率いる秀忠が関ヶ原合戦に遅参したのは事実であり、その印象が強いせいで、凡庸だという評価が定着しているのも否めない。そもそも、遅参したのが秀忠のせいだともいい切れないのだが、秀忠が自身の「不始末」を後々まで気にしていたことは、その後の言動からもまちがいない。

失敗を自分の胸に深く刻印する賢さがあったから、秀忠は徳川将軍家の二代目として、家康が築いた支配体制をしっかり固めることができた。関ヶ原の遅参について「かえってよかったかもしれん」と無邪気によろこぶほど鈍感であったら、家康亡き後に天下を固めることなど、できなかったのではないだろうか。

大河ドラマのように、関ヶ原に遅参したから凡庸で、凡庸だから鈍感な人物として描くのは、人物の造形として安易ではないか。若いときに「どうする家康」の秀忠くらい鈍感だった人間が、年を重ねてきわめて鋭敏になることは、あまりないように思うのだが。

■家康の重臣による秀忠評

関ヶ原に遅参したのは、中山道を進んだ秀忠の軍勢が、途中で上田城(長野県上田市)の真田昌幸を攻めたところ、昌幸らに翻弄(ほんろう)され、時間を空費したのが原因だった。このときの秀忠を「軽い気持ちで上田を攻めた」「若気の至り」などと評する向きもあるが、当たっていない。上田城の攻撃は「小山の評定によって策定された既定の作戦であって、秀忠の個人的な功名心などに発するものではなかった」からである(笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』新潮選書)。

とはいえ、遅参の影響は大きかった。家康は関ヶ原合戦に勝ったといっても、戦場に徳川軍の主力がいなかったため、それは豊臣系武将の働きによる勝利で、彼らの領土を大幅に加増するほかなくなった。結果として、西国の8割が豊臣系大名の領土となるなど、徳川にとっては不安定な状況が生まれてしまった。

だから、開戦から6日たって、大津にいる家康にようやく追いついた秀忠に対し、家康は面会を拒否した。また、家康は秀忠を嗣子と決めていたものの、『寛政重修諸家譜』巻七〇七によると、家康は大久保忠隣、井伊直政、榊原康政、本多忠勝、平岩親吉、本多正信を呼んで、だれを嗣子にすべきか、あらためて尋ねたという。

正信は次男の結城秀康、直政は四男の松平忠吉、忠隣が秀忠を推し、その忠隣は「乱を治め、敵に勝は、武勇を先とすといえども、天下を平治し給はんとならば、文徳にあらずしては基業をたもち給はん事かたし」と説いたとされる。すなわち、乱世において敵に勝つには武勇が優先されるけれど、天下を治めるためには、文武が兼備でなければいけない、という理屈である。

徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=松平西福寺蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■文武のバランスが◎

二次的な史料なので創作の可能性はあるが、少なくとも家康は秀忠を、このように評価したということではないだろうか。凡庸だ、鈍感だ、というのではなく、文武のバランスがとれていた、という評価である。

それでも、関ヶ原に遅参した経験は、秀忠に大きな影をおよぼしていたようだ。そこで負のイメージがついたという意識があればこそ、文武の「武」に弱点があるとは思われたくなかったのだろう。慶長19年(1614)、大坂冬の陣の際には、遅れてはならぬという決死の覚悟が見てとれる。

家康は10月11日に駿府城(静岡県静岡市)を発って23日に上洛した。一方、秀忠が6万の軍勢を率いて江戸を発ったのは23日。自分が着く前に戦いがはじまってしまっては大変だ、という思いが強かったようで、猛スピードで進軍している。

たとえば29日には、掛川(静岡県掛川市)から吉田(愛知県豊橋市)まで、およそ70キロを1日で進軍したという。その間、家康はたびたび「大軍行程ヲ急ニセバ、兵馬疲労セン。緩ニ来ラレルベシ」、すなわち、大軍が急いで進軍すれば、兵も馬も疲労してしまうので、ゆっくり進むように、とたしなめたが、秀忠は最後まで急行軍を続け、11月11日に京都に着いている。

■死の間際の乳母が秀忠に語ったひと言

その後の判断も、凡庸で鈍感な人物によるものとは思えない。

翌年の大坂夏の陣で大坂城が落城する寸前、秀忠の長女で秀頼に嫁いでいた千姫は、大坂方の大野治長のとりなしで、秀忠らの陣所に届けられた。目的は茶々と秀頼の助命を嘆願することだった。その際、家康は千姫が助けられたことをよろこんだが、秀忠は「秀頼と一緒に焼死すべきところを、出てきたのは見苦しい」とはねつけ、対面しなかったという(『大坂記』など)。

秀忠のこの判断について、福田千鶴氏は「ここで千に会ってしまえば、義母茶々と夫秀頼の助命を嘆願されることになり、娘を前にした父親が往々にして示す優しさによって、将軍としての決断が鈍ることを避けたものととれなくもない」と記す(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。卓見ではないだろうか。そうであれば、凡庸な人物の判断とは到底いえない。

秀忠の乳母は大姥局(おおうばのつぼね)といい、元来が今川義元の家臣の妻で、家康はまだ竹千代といって駿府で過ごしていたころから、彼女のことを知っていたという。大姥局が秀忠をどう育てたか、具体的な記録はないが、死に際の逸話が残されている。病床を見舞った秀忠が、なにか望みはないかと聞くと、ないという。しかし、秀忠が帰ろうとすると「殿、殿」と呼び、「私の子が流罪になっているが、私を哀れだと思って罪を許したりしないように。天下の法を曲げてはいけません」と説いたという。

こうした教えが秀忠には、若いころからしみ込んでいたのだろう。

■家康にもできなかった冷徹な処断

大坂夏の陣後、家康は一国一城令で諸大名の城の多くを破却させ、武家諸法度で大名が守るべきことを規定し、禁中並公家中諸法度で天皇や公家は学問に専念するように定めた。戦乱を防いで徳川の世が永続するように、万全の布石を打った。とはいえ、秀忠が凡庸であればその布石を活かせなかっただろう。

元和2年(1616)4月17日に家康が死去したのち、秀忠が最初に行ったのが、家康の六男で実の弟である忠輝の処分だった。伊達政宗の娘婿で謀反の噂もあった忠輝には、すでに家康が大坂夏の陣での不戦などを理由に謹慎処分を課していたが、秀忠は所領を没収し、伊勢(三重県)に流したのだ。続いて、兄の秀康の嫡男、松平忠直を改易にしている。まずは将軍たる自身の地位を脅かしかねない近親者を処断したというわけだ。

続いて、元和5年(1619)には豊臣恩顧の大名の代表格で、49万8000石の福島正則を改易にした。居城の広島城(広島県広島市)が洪水で破損した際、幕府に無断で石垣を修復し、武家諸法度に違反したというのが理由だった。正則は関ヶ原合戦の功労者だが、その後も大坂との関係が取り沙汰されていた。家康には功労者を切ることはできなかったが、しがらみがない秀忠にはできたのである。

福島正則画像
福島正則画像(写真=東京国立博物館所蔵品/PD-Japan/Wikimedia Commons)

正則の改易に外様大名たちは震え上がり、効果絶大だった。改易のタイミングも冴えていた。「このとき、秀忠はかなりの兵を随えて上洛しており、その中に、正則の子忠勝が福島家の家臣団の一部を率いていた。正則は江戸城にいたので、そこにも家臣団がおり、本拠広島城にも家臣団の一部が残っていた。つまり、福島家の家臣団は三分割される形になっていたのである」(小和田哲男『徳川秀忠』PHP新書)。

反抗できない時期をたくみにねらっている。

■全国に徳川家の支配を行き届かせた

また、正則が去った広島城には、和歌山城(和歌山県和歌山市)から浅野長晟(ながあきら)を移し、和歌山には家康の十男の徳川頼宣を入れた。実の弟を大坂の南方の要地に置き、西国の監視をさせることにしたのだ。

こうして秀忠は40以上の大名を取りつぶし、改易された領地が重要な位置であれば、そこには必ず譜代大名か親藩を置いて周囲の監視体制を強めた。西国を監視し、陸海の交通ルートを幕府が掌握するために、大坂を直轄地にしたことも重要だった。

しがらみにとらわれないドライな施策を重ね、全国に徳川家の支配を行き届かせた秀忠。家康は事実上、東国の大名に対する指揮権しか握っていなかったが、それを西国まで根づかせたのは秀忠の功績だった。

むろん、すぐれた父がお膳立てを整え、その教えに忠実であったからこそ、体制を固めることができたのだが、秀忠がドラマで描かれるように凡庸であったなら、これほどのことを成し遂げるレベルにまで、突然変異のように能力が高まることは、難しかったのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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