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18年後まで仕事が決まっている…学費無料のファッション特待生が、「SNSでバズる京仏師」になるまで

プレジデントオンライン / 2023年12月24日 8時15分

京仏師の宮本我休さん - 筆者撮影

京都市内にある工房「宮本工藝」の代表・宮本我休さんは、全国の社寺などから依頼を受け、仏像彫刻や修復を行っている。ファッションデザイナーを目指して上京し、フリーターを経て、「SNSで注目される京仏師」になった。異色の経歴を持つ宮本さんの彫る仏像は、なぜ若い人たちの心をつかむのか。その理由を、フリーライターの川内イオさんが取材した――。

■SNSのフォロワー合計6万人を抱える異色の仏師

「清水の舞台」の言葉で知られる清水寺、京都最古の神社のひとつ賀茂御祖神社(下鴨神社)、狩野永徳筆の障壁画や千利休がデザインしたと伝わる庭を有する大徳寺聚光院……。誰もが名を知るような寺社をはじめ、全国にクライアントを持つ仏師、宮本我休。仏師とは、仏像を彫ったり、修復したりする職人を指し、平安時代から存在する。何代にもわたって伝統技術を受け継ぐ仏師もいるなかで、宮本さんは異色だ。

大本山大徳寺聚光院の喜多方別院に納めた韋駄天
宮本さん提供
大本山大徳寺聚光院の喜多方別院に納めた韋駄天 - 宮本さん提供

東京のファッションの専門学校に特待生として入学するも、休学。故郷の京都に戻り、安アパートに住んでフリーターをしながら燻っていた時、縁あって仏師のもとを訪ねた。そこで電撃的に仏師の仕事に魅せられ、25歳で弟子入りする。

9年間の修行を経て34歳で独立した宮本さんは今、人体構造の知識や繊細なドレープの表現などファッション業界で学んだ技能を駆使して、唯一無二の仏像を生み出す。凛とした佇まいのなかに色気や艶を感じさせる仏像は、寺社のみならず国内外の個人からもオファーが殺到。最も時間のかかる注文は2041年、なんと60歳の時に納品することになっているという。

現在、X(旧ツイッター)、インスタグラムなどSNSのフォロワー合計6万人を抱える新時代の仏師はしかし、独立に恐れを抱いたこともあれば、まったく仕事がなく食い詰めた時期もあった。そのたびに、なにかに導かれるように道が拓け、今につながる。その道を、たどろう。

大本山大徳寺聚光院の喜多方別院に納めた韋駄天
宮本さん提供
大本山大徳寺聚光院の喜多方別院に納めた韋駄天 - 宮本さん提供

■ファッションデザイナーを目指した

宮本さんは1981年、京都の伏見区で生まれた。幼い頃の景色で印象に残っているのは、町のいたるところにあった石造りのお地蔵さまだ。

「僕らはまんまんちゃんと呼んでいて、その数はコンビニより多いと思います。母からは、いつも『悪いことをすなよ、まんまんちゃんが見てるで』と言われていました。ずっと、日常のなかに当たり前のように仏さまがいる生活でしたね」

母親の「まんまんちゃんが見てるで」の言葉によって宮本さんは良い子に……育たなかった。少年時代は悪ガキで、「やんちゃ」が少しずつ収まったのは、小学校4年生の時に野球を始めてから。当時を振り返り、「エネルギーを持て余していたんでしょうね」と苦笑する。

維摩居士像の修復完成形
宮本さん提供
維摩居士像の修復完成形。全国の社寺から修復依頼がある - 宮本さん提供

一方で、絵を描いたり工作をするのが好きで、色鉛筆を渡されれば広告の裏に何時間も絵を描いているような子どもだった。物心つく頃には「ひとつのことをちまちまと時間をかけてやることが、すごく心地よい」と自覚していた宮本さんは、中学生になるとひとつの目標を定めた。

「オシャレが好きだったんですよ。いい古着を探しては自分なりにコーディネートして、中学3年の時にはメンズノンノ(ファッション誌)の街角スナップに載ったこともあります。自分が職人気質だとわかっていたから、卒業文集には将来の夢としてファッションデザイナーと書きました」

美大受験に向けて画塾に通うため、高校2年生の終わりに野球部を退部。学校の成績が良かったこともあり、指定校推薦で京都芸術短期大学のファッションデザイン科に進学した。

「人と同じことをするのが嫌い。奇をてらったことをして注目されるのが好き」な宮本さんは、短大で自分の着想を伸び伸びと表現する時間と場所を得た。普通に着ることができないようなオブジェのような服を作ったり、身体をデフォルメしたようなマネキンに立体裁断した布を張り付けて造形したりして、「今考えたら、服で彫刻してたと思います」。

当時は、革新的、挑発的なアイデアで知られる世界的デザイナー、ジョン・ガリアーノや天才と呼ばれたデザイナー、アレキサンダー・マックイーンのオートクチュールの工房で働きたいと夢を抱いていたという。

維摩居士像の修復前
宮本さん提供
維摩居士像の修復前。彫り、力感、ともに最高峰、卓越した技巧は運慶仏にも引けを取らない。 - 宮本さん提供

■自信満々だった特待生の堕落

しかし、短大で2年間学んだだけの20歳に、そんな実力がないこともわかっていた。「まだ働きたくない。もっと自由でいたい!」という気持ちもあった。そこで、「授業料免除の特待生なら親も認めてくれるだろう」と、東京にあるバンタンデザイン研究所のファッションデザイン専攻科を目指す。

一次試験で作品を提出する際、短大で作った巨大なマネキンを三体持ち込んだ宮本さんは、特待生を目指して200人以上が受験するなか、「優等生みたいなおとなしい作品ばっかや。おれがダントツやな」と思っていたそうだ。その手応えは確かで、倍率200倍超の試験を突破したのは、宮本さんひとりだった。

京仏師になった宮本さん
筆者撮影
京仏師になった宮本さん。オシャレが好きで、中学生のころは、ファッションデザイナーになることを夢見ていた。 - 筆者撮影

専門学校に入ると、周りは高校を出たばかりの18歳がほとんどで、基礎的な内容の授業はすべて短大で学んだことだった。「おれがダントツ」と自信満々だった若者が、「周りとレベルが合わないし、学校つまんねえ」とテングになるのに、時間はかからなかった。毎日ジャージで過ごし、学校に行かず、家でゲームをするか、雀荘でマージャンをするか、クラブに行くか。

それでもやはり手を動かすのは好きで、スタイル画を描くファッションイラストレーションにだけは夢中になった。それが評価され、女性向けファッション誌『CUTiE(キューティ)』などでファッションの挿絵の仕事をもらうようになると、ますます学校から足が遠のいた。仕事が次第に忙しくなり、最終学年にあたる3年生の秋に休学してから、学校に行かないまま卒業を迎えた。

「特待生は学校の名前をあげるための人材なんで、学校からしたら、なにしてくれてんねんって話ですよね。今考えたら一番ダサいのは自分なんですけど、努力している人をバカにして、世の中を白けた目で見てました」

京仏師になるまでを振り返る宮本我休さん
筆者撮影
京仏師になるまでを振り返る宮本我休さん - 筆者撮影

■清水寺の観光案内所で働いたフリーター時代

「東京は格好つけて、背伸びしてるやつばかり。性に合わない」と、卒業してすぐ京都に帰郷。友人のツテで、風呂なし、トイレと炊事場は共同の安アパートで暮らしながら、ファッションイラストレーションからも離れ、ひたすら抽象画を描くようになった。それだけでは食えないから、清水寺の観光案内所で音声ガイドの端末を貸し出すアルバイトをしていた。

「いつか個展をして、世の中に認められるんだ」と思いながらも、自分はなにをしているんだ、このままでいいのかという疑問と不安が、泡のように絶え間なく湧き上がってくる。

「先も見えないし、本当に怖かった」というフリーター生活を始めて半年ほど経った頃、兄から連絡があった。「友人の仏師が十一面観音を造っていて、衣文の柄を描きこんだり、彩色できる人を探している。どうだ?」という話だった。

もともとお寺の天井画や屏風画にも興味があった宮本さんは、なにをするのかよくわからないまま、指定された日に清水寺近くの工房を訪ねた。その工房は兄弟で営まれていて、兄は仏師、弟は位牌(いはい)師(位牌を専門に造る職人)だった。そこで初めて仏師の仕事に触れた宮本さんは、一瞬にして心を奪われる。

「ファッション業界は毎年新たな流行が生まれるから、デザインも消費されていくんですね。仏師の世界は1000年後、2000年後のことを考えて物づくりしてるんですよ。自分が死んだ後、自分の仕事がどう評価されるか、職人の意地で仕事をしているんです。それを目の当たりにした時、ものづくりのスケールがまるで違うなと。ボロボロのアパートで迷いに迷っていた時に、空からピカーッと光明が差したような気がしました」

■ファッションと仏像彫刻がカチンとはまった瞬間

それからは、清水寺の観光案内所で夕方までアルバイトをした後、工房に行って深夜まで手伝うという生活が、3カ月ほど続いた。肉体的にはハードだったが、その間ずっと、「楽しい」という気持ちが続いた。

宮本さんが絵筆を握るかたわらでは、仏師が別の仏像を彫っていた。3カ月間、興味深くその様子を見てきた宮本さんは、服作りとの共通点に気づいてゆく。

「例えば、布のドレープ表現。仏さまはドレープがかかった優雅な布をまとわれていますよね。僕はファッションを学ぶ過程でドレープについては頭に叩き込まれています。それに仏像は人体構造をデフォルメしているので、人体構造の知識も必要です。服は人体を美しく見せる装置なので、人体を研究しなければいけません。僕は不真面目な学生でしたけど、人体の美しさに魅了されて、自分なりに研究していました」

ファッションで学んだことが、仏像彫刻に活かせる。それはまるで、歯車がカチンとはまって回り出す音が聞こえるようだった。彩色の仕事が終わったその日、宮本さんは仏師に頭を下げた。

「僕もこの世界でやっていきたいです。弟子にしてください」

25歳で弟子入り。9年間の修行を続けた。
筆者撮影
25歳で弟子入り。9年間の修行を続けた。 - 筆者撮影

■仏師と位牌師のもとで

2006年、25歳の春にアルバイトを辞めて弟子入り。彫刻刀を手にするのは小中学校の授業以来で、ゼロからのスタートだった。最初に任されたのは、修理の依頼があった仏像を解体してきれいに洗うことと、光背(後光)と呼ばれる、神仏が発する光明を視覚化したパーツに使用する竹串を削って先細らせる作業。

これだけで給料をもらうのは申し訳ない、早く戦力になりたいと思った宮本さんは、仕事が終わった後、工房から持ち帰った木の切れ端を使って、見よう見まねで仏さまの手や顔を彫った。

仏像の衣文表現は、宮本さんがファッションの世界で学んだことが存分に活かされている
筆者撮影
仏像の衣文表現は、宮本さんがファッションの世界で学んだことが存分に活かされている - 筆者撮影

3カ月もすると、位牌師の師匠から手ほどきを受けた。宮本さんによると、位牌には「地紋彫り」という彫刻の基礎が詰まっていて、仏師の卵はいきなり仏像に触れられないため、位牌の「地紋彫り」から学ぶことも多いそう。宮本さんも朝から晩まで「地紋彫り」をして、その後に仏師の師匠から指導を受けた。

仏師と位牌師の兄弟が近くにいたことは、とてつもない幸運だった。職人の修行には「技を見て盗む」というイメージがあるが、宮本さんの師匠にあたる兄弟はまったく違うアプローチで弟子に接した。

「ご兄弟は若くして独立されたんですよ。お兄さんは31歳で、弟さんは28歳だったから、すごく柔軟でした。師匠は3代続く家系なので、幼少期から指導を受けてきたでしょう。だから僕が25歳でこの世界に入ったことを心配して、『回りくどくは教えへん、ぜんぶ最短で教えてやるからついてこい』と言ってくれました」

仏師の師匠から「今から始めて人の倍では一人前になられへん、3、4倍やってようやく人よりも上手になれる」と言われた宮本さんは、その言葉に従った。

毎晩24時頃まで教えを請い、帰宅して3時頃まで寝た後、早朝4時には工房に行き、兄弟が来るまで切れ端で練習を続けた。休日になると、ひとり工房にこもった。

必然的に遊ぶ時間はなくなり、友人も減った。それでもなんの不満もなかった。

「なにをするよりも、仏を彫っていることが一番楽しかったんで。やればやるほど上手くなるし、仏を彫ること以外は見えなかったです」

弟子時代に彫った十一面観音
宮本さん提供
弟子時代に彫った十一面観音 - 宮本さん提供

■修業8年目の絶望

わき目もふらず修業を重ねて8年目の2014年、宮本さんは絶望する。

その年の夏、奈良国立博物館で「国宝 醍醐寺のすべて―密教のほとけと聖教―」が開催された。そこで展示されていたのが、鎌倉時代の仏師、快慶作の弥勒菩薩坐像。「すべてが完璧。とにかく美しい。一番好きな仏像」と絶賛する宮本さんは、仏師の仕事に就いて以来、常に弥勒菩薩坐像を意識して仏像を彫ってきた。

そして、自分の腕がめきめきと上達するのを実感しながら、「ある程度、メソッドがわかった。あと10年、20年したら快慶さんの領域にいける」と感じていた。

「仏師にとって左右対称、シンメトリーを取るっていうのは大事な要素なんですけど、快慶さんはシンメトリーのバランス力がずば抜けているんです。僕もシンメトリーを取る技術に関しては自信を持っていたんで、快慶さんのレベルに達することをモチベーションにしていました」

普段、弥勒菩薩坐像が安置されている京都の醍醐寺では間近で見ることができず、いつも双眼鏡で眺めていた宮本さんは、奈良国立博物館で初めて近距離から観察することができた。2日間通い、連日4、5時間、あらゆる角度から弥勒菩薩坐像を凝視して気づいたのは、「ずれている」ことだった。目じりも、頬のふくらみも、よくよく見たら正確なシンメトリーではない。むしろ、「めちゃくちゃずれてるやん……」。

それなのに、少し離れて見ると、すべてを超越したような神々しさがある。快慶の真骨頂はシンメトリーだと思っていたのに、そうじゃなかった。では、なにかと問われると、答えがまったく思い浮かばない。「おれにもできる」と信じてきた宮本さんは、「こんな世界があったのか……」と打ちのめされて、自分の作品を造ることをやめてしまった。自分の実力にも懐疑的になり、「独立するのはやめよう」と考え始めた。

ちょうどその頃、当時付き合っていた女性(現在の妻)と、奈良の明神平に登山に行った。頂上付近にテントを張り、そのなかで探し物をしていたら、外にいた彼女が「うわ、鳥が出てきた!」と声をあげた。なんのことかと思ってテントから出ると、山の稜線(りょうせん)から巨大な鳳凰に似た形の雲が、飛び立つように上昇していくのが見えた。その雲を見ていたら、こう言われている気がした。

「迷わず、飛べ。怖がらずに、いけ」

その日、宮本さんは独立と結婚を決めた。

登山中に目撃した鳳凰のような雲
宮本さん提供
登山中に目撃した鳳凰のような雲 - 宮本さん提供

■「だるまさん」が苦境を脱するきっかけに

2015年4月、34歳で独立。「宮本工藝」の屋号には、鳳凰の雲をトレースしたものを自らデザインし、やる気をみなぎらせた。しかし、肝心の仕事がない。お寺が仏像を新調するのは、数百年に一度。その機会をなんの実績もない、独立したばかりの男に与えるお人好しはいなかった。師匠の仕事を荒らすわけにはいかないと、師匠と取り引きのない東京の仏具屋を10軒ほど回ったが、リアクションはゼロだった。

結婚に際し、大胆にも35年ローンを組んで一軒家を購入した宮本さんは、自宅の一室を工房にしていた。やることもなく工房で過ごしていると、「世の中に自分の存在を知ってもらわなあかん。でもどうしよう……」と焦りが募る。

独立して半年、師匠からまわしてもらった仕事で細々と食いつないでいたある日、工房で父親からもらった達磨大師の掛け軸をぼーっと眺めているうちに、思い立った。

「だるまさんといえば、誰もがあのコロンとした姿形を思い浮かべる。仏像のなかで市民権を得ている形ってだるまさんしかないな。これを僕なりにアレンジして発表したら、振り向いてもらえるかもしれない」

妻にプロポーズする時に贈ったマリア観音
宮本さん提供
妻にプロポーズする時に贈ったマリア観音 - 宮本さん提供

そのタイミングで、京都の伊勢丹に知り合いがいる友人を通して、作家のグループ展に参加することになった。弟子時代に造った仏像と新作のだるまを展示した宮本さんは、ほかにすることもないので2週間の会期中、毎日会場に足を運んでお客さんの呼び込みをした。

そこにたまたまお坊さんが通りかかり、「うちのお寺の仏さまの右指が取れてるから、ちょっと直しに来てくれへんか」と頼まれたり、伊勢丹の人から「三越でも展示会があるから、そこで1回やってみいひんか」と声をかけられたりして、本当に少しずつ小さな仕事が決まっていった。

独立して間もない時期に造ったダルマ
宮本さん提供
独立して間もない時期に造ったダルマ - 宮本さん提供

■火事で燃えたケヤキの大黒柱から2体の仏像を彫った

思い出深いのは、最初に手掛けた仏像だ。だるまの販売を始めたのと同時期に、師匠と仲の良かったお坊さんから連絡があった。

話を聞くと、友人のお寺の檀家(だんか)さんの自宅が火事になってしまい、そのお見舞いとして、焼け落ちた廃材から仏像を造れないかと相談を受けたのでやってみないか、というものだった。仕事がなくて困っているという宮本さんの事情を知っていたお坊さんの、心遣いである。

ふたりで現場に行くと、100年以上前に建てられた家にはよく燃える杉の木が多く使われていて、ほとんどが芯まで燃えていた。宮本さんは「これは無理ですね……」と諦めかけていたが、お坊さんは粘り強く現場を探り、泥だらけになっていたケヤキの大黒柱を見つけ出した。

大黒柱を切ってみると、表皮から1センチほど炭化していたものの、内部は瑞々しさを保っていた。「これならいける!」と判断した宮本さんは、大黒柱を自宅に持ち帰り、1年かけて二体の仏像を彫った。

火災した家の大黒柱から造った“光焔” 釈迦如来立像
宮本さん提供
災に遭った家の大黒柱から造った“光焔” 釈迦如来立像 - 宮本さん提供

「自分の仏像が仕事になることの高揚感があって、いいものを造ろうと一心不乱でした。普段はシャープに彫るんですけど、この時はどっしり筋肉質のお釈迦さまにしたんですよ。火災で燃え残った木を使ったので、これからご家族をいろいろな災害から守ってくれるようにと」

フリーターの宮本さんを仏師に紹介した兄も、再び手を差し伸べた。ウェブ制作会社を立ち上げていたこともあり、格安で「宮本工藝」のホームページを作ってくれたのだ。そこに一体目の仏像をアップし、SNSで告知すると、そこからも仕事が舞い込んでくるようになった。

また、実家の法衣仏具店を継ぐことになった小学校からの幼馴染が、営業役を担ってくれるようになった。工房で集中して製作する時間が必要な宮本さんにとっては、渡りに船。こうして、家族、友人、知人からのサポートを得ながら、宮本さんは仏師としてメシが食えるようになっていった。

■こだわりの「衣文」と「瓔珞」

一般的には知られていないことだが、仏像製作には、平安時代に定められた「儀軌(ぎぎ)」というルールがあり、身体の幅、手の位置、腕の動きなどが厳格に定められている。そのなかである程度の自由が許されているのが、仏像の衣(ころも)。これを衣文表現という。瓔珞(ようらく)と呼ばれる胸飾りも比較的自由度が高く、宮本さんは衣と瓔珞に腕を振るう。

宮本工藝の宮本我休さん
筆者撮影
宮本工藝の宮本我休さん - 筆者撮影

「新しい仏像を造る時、昔に造られた衣の彫刻を見て再現する仏師もいると思いますが、僕は布を彫る時に布を実際に畳んでみて、そのドレープを表現するということを徹底しています。瓔珞もぜんぶ自分でデザインしていて、アールヌーボーの形を取り入れたりしています。仏像の装飾にもペルシャ時代の文化が入っているので、西洋の美意識と通じるところがあるんですよ」

この独特の表現が注目を集めるようになり、右肩上がりで注文が増加。現在は京都市南区に工房を構え、弟子4人とともに製作にあたる宮本さんは、2015年に独立してから50体以上の仏像を納めてきた。

修復の依頼も多く、過去の仏師たちとの無言の交流は、大きな刺激になっているという。

「数百年前の名もなき仏師が造った仏像でも、これはすごい技術だと震えることがあります」

宮本さんを衝き動かすのは、「とにかく美しい仏さま」を造りたいという強い想い。そのために、常に意識のアンテナを張り巡らせており、実在の人物の顔を参考にすることもある。例えば、フィギュアスケーターの浅田真央さんは観音さま、俳優のディーン・フジオカさんは韋駄天を造る時に一部の要素を取り入れたという。

仏身に截金を施した阿弥陀如来立像
宮本さん提供
仏身に截金を施した阿弥陀如来立像 - 宮本さん提供
仏身に截金を施した阿弥陀如来立像
宮本さん提供
仏身に截金を施した阿弥陀如来立像 - 宮本さん提供

■工房に掲げられた弥勒菩薩坐像の写真

造形も独特なら、製作過程も独特だ。

「今、30体ぐらいの新作を同時平行で彫っています。効率化を図っているわけじゃありません。仏像って面白くて、自分のその時の感情とかフィジカルの状態が鏡のように出ちゃうんですよ。例えば、気が高ぶってる時に穏やかな仏さまを彫るとものすごく怖くなったり、その逆も然り。だから、僕は座禅とか歩行瞑想(めいそう)をしながら常に自分の気持ちと体を内観して、その調子に合った仏さまをチョイスして彫っているんです」

現在、同時進行している作品のなかには、賀茂御祖神社(下鴨神社)祈祷殿に安置される獅子と狛犬、木曽檜で造る大型の釈迦如来坐像なども含まれている。愛媛県のお寺から依頼のあった三十三観音像は、40歳の時に1体目を造り始め、まだ未完成。三十三番目の仏像が納品されるのは、2041年を予定する。

令和5年作の毘沙門天
宮本さん提供
令和5年作の毘沙門天 - 宮本さん提供
令和5年作の毘沙門天
宮本さん提供
令和5年作の毘沙門天 - 宮本さん提供

宮本さんの工房には、かつて大きなショックを受けた快慶作の弥勒菩薩坐像の写真が掲げられている。そして、新しく仏像を造る時には、弥勒菩薩坐像の図録を広げて、黄金比を頭のなかに刷り込んでから、仕事にとりかかる。といっても、今は快慶を目指しているわけではない。

「快慶さんの時代は国家規模で仏教を守り、盛り上げていました。宗教ルネッサンスがすごい勢いで花開くなかで弥勒菩薩坐像ができたと思うと、令和のこの時代に同じものを求めても土台無理だと悟ったんです。じゃあ、どうするか。僕はファッションというほかの仏師と違う経歴を持ってこの世界に入りました。ドレープの表現や人体構造の知識を活かして、自分にしかできない令和の仏像を目指そうと思います。1000年後、2000年後に、僕が快慶さんを見るような目で見てもらえる仏さまができたらいいですね」

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。

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(フリーライター 川内 イオ)

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