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だから世界一幸せだった国・ブータンの幸福度が急落した…「他人の芝生が見えすぎる」時代に自分を貫く方法

プレジデントオンライン / 2024年1月10日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/urbancow

激動の時代を自分らしく生きるにはどうすればいいか。電通コンセプターの吉田将英さんは「自分らしさが揺らぎやすく、何事にも既視感を持ちやすいといった“激動すぎる現代”は無理ゲーが至る所で発生していて、個人も企業もここではないどこかを求める。現実をリセットできないことから、自身の認知を変え、巡り巡って現実を変えるための『コンセプト・センス』がますます重要になってくる」という――。

※本稿は、吉田将英『コンセプト・センス 正解のない時代の答えのつくりかた』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。

■今コンセプトが大事なのは「すぎる時代」だから

ご存じの通り、「コンセプト」は真新しい思考法でも流行りのバズワードでもありません。

普遍的で古典的。何十年も前から使われてきた言葉であり、あらゆる場で耳にする機会があるのではないでしょうか。

ではなぜ今、改めてコンセプトが大事な時代になってきているのか? 一言でいえばそれは、私たちを取り巻くさまざまな要素が「すぎる時代」だから。何がどう「すぎる」のか? 5つの「すぎる」で時代を見てみます。

1.情報が多すぎる

手元にはいつでもスマホがあり、いつでもどこでも何でも見られて聴けて、数十秒で1プレイできてしまうゲームがあり、SNSで何百、何千の人とつながる。そんな「情報が多すぎる」時代を私たちは生きています。

かつて雑誌が若者のトレンドを方向づけていた時代は、情報とは「買って取りに行く」ものでした。でも今はどうでしょう? タダで手に入るのは前提になり、取りに行くどころか勝手に流れ込んできてしまい、それでも多すぎるので、「いらないものを捨てて最適化する」。

かつて若者の代名詞のように扱われていたサプライズも、今や“不確定なことを増やさないでほしい”と敬遠されるようになり、映画やドラマを見る前にネタバレを見るし、あるいは倍速で試聴することで効率を求める人も増えています。

一方で、「何かに追われている感じがいつもしていて、楽しんで見ているわけではなく、“押さえておく”感覚でしかないです」と、実際にプロジェクトでご一緒している大学生が教えてくれました。ここにも何か「ここではないどこか」の一端が見え隠れしているように感じます。

情報が多いということは、企てを生み出す側にとって「選択肢が多すぎて、意思決定が大変になっている」ということです。

情報も選択肢も多すぎて、いつも目移りしていて、何かを決めたところで「もっといい選択肢がある気がする」感覚が常にまとわりついてくる。

実際、僕も仕事でさまざまな企画をクライアントに提案したり、あるいは現場担当者が経営層に上申するサポートをしたりしてきましたが、「ほかにもっといいアイデアはないのか?」というフィードバックは幾度となく見てきました。

結論は「そんなの、あるに決まっている」わけで、その実、意思決定する勇気が持てなくて、“無限の代案探し”にさまよってしまうケースもとても多いです。

情報が多すぎるから、今のままでいいとは思えなくなり、かといって間違いない選択肢を見極める難しさも上がり続け、結果として「ここではないどこかへ」になる。1つ目のすぎるは「情報が多すぎる」です。

■新しいものを見せても、既視感が生まれる状況

2.テクノロジーが速すぎる

2023年の序盤、生成型AI「ChatGPT」が世界中を震撼(しんかん)させ、その驚異的な生成クオリティや使い勝手の良さで瞬く間に時代のアイコンに躍り出ました。僕もこの執筆に一部役立てる過程で、かつて新人時代に自分がやっていた情報収集やレポーティングのクオリティを、一瞬で追い抜かれた感覚に陥り、「仕事って何だろうか……」と、途方にくれました。

テクノロジーの使い勝手の速さと、その出来の進歩の速さ。両方の意味で今は「テクノロジーが速すぎる」時代といえるでしょう。テクノロジーが速すぎることは、価値の作り手にとって大きなスタンスの変更を余儀なくさせ続けています。

「開発の短時間化や、参入障壁の溶解による競争の激化」
「アプリケーション的に、非物質的なアップデートで商品性能が向上できるようになったことで、流動性がUP」
「グローバライゼーションで、全世界のプレーヤーが競争相手に」
「プロダクトライフサイクルの短命化」

……などなど。これらの変化によって、たとえば商品は「出したその日から時代遅れが始まる」という、何ともせわしない状態になっています。

交通ビッグデータ分析とモノのインターネットの概念を示すデジタルデータ転送のイメージ
写真=iStock.com/NanoStockk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NanoStockk

企業の側からすれば、それはお客様がすぐに飽きてしまうことに応えようとした結果だと主張するかもしれませんが、実は顧客の側からすると「そんなにすぐに新商品を出すから、気に入っていたものも何だか古いもののような気がして買い替えてしまうだけ」という、ある種の「高速回転の共犯関係」が成り立ってしまっている。

数年前に、若者研究の一環で当時の大学生数人と、とあるモーターイベントに行ったとき、そこに展示されていた世界初公開のコンセプトカーを見た1人が、「あっ、これ前に見たことあります」と言いました。

初公開なので彼の言っていることは勘違いなのですが、「ネットでこんなようなものを絶対に見た」と自信ありげ。事実を伝えて彼も勘違いだと理解したのですが、それくらい「本当に新しいものを見せても、既視感が事実すら上回って押し寄せている」ということです。

そんな既視感を、さらに新しさで上回ろうとした結果、高速回転はさらに速くなり……「ほかの人に食べられたくないので、まだ生焼けなんだけど食べちゃう」。有名な「焼肉生焼け理論」のようなこの状況は、個人も法人も、本質を置き去りにしながら拙速に物事を回転させてしまっているんじゃないでしょうか。

■どのサービスも似たような結論にたどり着く

1つ目の「情報が多すぎる」こととも相まって、人々の中で「既視感=どれも新しく見えず、知っているものに見える」と「達観=選択肢は多いしうつろいも激しいので、どうしたらいいのかわからない。どれでもいいや」が広がっているように感じます。

ある大学生が、商品の選択に関するインタビューのときに、「コンビニに売っている時点で、間違いないってことだから、そこから先は何でもいい」と答えたことがあります。豊かになったがゆえに、その対象に対しての前向きな好奇心や関心が失われる。

しかもこの結果は、価値の作り手が怠けていた結果ではなく、むしろ高速回転する社会に対応し続けたがゆえに招いているというパラドックスが皮肉です。アジャイルな開発体制で、リーンスタートアップ的思考で、ユーザーリサーチもしっかりやって、高速PDCAで最適化し続けた結果、どのサービスも似たような結論にたどり着く、という話は僕もクライアントビジネスの中で、何度も見てきました。

真面目に勤勉にやっているだけではその落とし穴に気づけない可能性があります。そんな、真面目に状況に高速で対応する日々に対して、「ここではないどこか」を望んでしまいがちなのかもしれません。

■日本はある種の無理ゲー社会

3.向かい風が強すぎる

3つ目は「向かい風の強さ」。われわれはさまざまな逆境を生きているということです。日本は年功序列と少子高齢化の悪魔合体の結果、「権限の大きい年長世代が多く」「権限の小さい若手世代が少ない」という構造になっています。現状に不満を感じ変化を求める側からすると、ある種の無理ゲーが至る所で発生しているわけです。

その結果、「このままではいけない!」とはうっすら誰もが思っているが、「新しい動きを承認する権限がある人たちが古い考え方」というジレンマが至る所で発生してしまっています。日本財団の調査で明らかになっている「日本の若者は世界を変えられると信じていない」というスコアも、この無理ゲー構造が原因の一端なのではないかと、どこか達観している若者たちと日頃触れていて感じます。

この向かい風は実は、かつて社会が、個人同士の間に暗黙のうちに結んだ数々の「古い約束」が正体なのではないかと僕はにらんでいます。

「一杯目はビールってもんだろ」
「若手は二次会までついてきて、イヤでもカラオケ歌うもんだろ」
「女性は仕事より家庭を優先するもんだろ」
「黒人は白人より、社会的に地位が低くて当たり前ってもんだろ」
「儲けのためなら、社員が不幸でも、環境が汚染されても問題ないだろ」

「この社会ではこのことについては、こういうことにしておきましょう」という約束。それが時代の変遷によって機能しなくなり、「古い約束の破棄」をするために、上書きする新たな約束が生まれる。

人類の歴史はこれの繰り返しだとすると、今の時代は、「ここではないどこかに間違いなく行ったほうがいいと多くの人が感じているが、かつての約束がそれを阻み、そのジレンマがさらに“ここではないどこかへ”行きたいという願望を強めている」時代といえるかもしれません。

窓ガラスの上から流れてくる無数の雨粒
写真=iStock.com/NanoStockk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NanoStockk

■目的にばかり資源を集中投下してきたツケ

4.問いが複雑すぎる

2020年初頭、全世界に広がったCOVID-19は社会の前提をひっくり返しました。ソーシャルディスタンス、マスク、リモート前提でのビジネスなどなど、それまでの社会では良しとされてこなかった慣習や行動を「やむを得ない」という強いロジックで推進していきました。そんなCOVID-19への対応は、人間社会にとって難しい問いでした。

WHO(世界保健機構)シニアアドバイザーの進藤奈邦子さんは、COVID-19の対応は複数の異なる観点や学問領域の知見を越境してマッシュアップして対応していたことを話しています。

たとえば、感染症の専門家の観点だけで対策を出すなら「家から出ない」が一番になりますが、それだけでは経済がダメになってしまい結果的に誰かの生活を瀕死に追い込んでしまうかもしれない。あるいは、移動の制限が人権に抵触するという恐れがあり、精神医学の観点から見ると人の心を蝕む恐れが見えてきます。

まさにCOVID-19は人類社会にとって「あちらが立てばこちらが立たず」の難易度S級の課題だったわけです。実際、WHOでは感染症や病原体、公衆衛生といった医療関連の専門家だけでなく、政策、法律、社会学、行動科学、人権、民俗学、精神医学など、さまざまな専門家を集めて「13人の賢人」という会議体を作って対応したそうです。

現代を生きる僕らが直面する課題は、このように「あちらが立てばこちらが立たず」の関係性ばかり。ハーバード・ケネディー・スクールで長年教鞭をとっていたロナルド・ハイフェッツは、問題を「技術的問題」(technical problems)と「適応課題」(adaptive challenges)の2種類に分類しました。

前者は「1+1=2」のように、誰が解いても解法と答えがある程度、一義的に定まりますが、後者は複数の変数が相互に作用し合い、ともすれば「その問題を解こうとしている本人の存在」すらも変数として作用を及ぼす、関係性の中で生じる課題です。

情報が多くなり、テクノロジーが速くなった今、個人にとっても法人にとっても技術的問題が解かれて減っていく一方で、まさに後者の「適応課題」が増えているといえます。

ただ、思えば昔から人間社会の課題はそのほとんどが「適応課題」だったのかもしれないのに、僕らが「技術的問題」だと思い込んで無理やり解こうとしていた。こうも解釈できるのではないでしょうか。

「売上のためならゴミが出ても仕方なし」「選挙で勝つためなら人数の少ない若者へのウケは後回しでも仕方なし」のように、物事や課題の論点を単一化し、目的に直接関係する変数に資源を集中投下する一方、それ以外の「目的にあまり関係してこない変数」については傍に置いておくというスタンスは、誰しもが多かれ少なかれやってきたことです。

今の時代においても、複雑さと難しさに耐えきれず、極論に走る人も顕在化しています。数秒で、端的に、シンプルに、結論だけを求めるような思考の態度は、ときとして課題そのものへの関心を削ぎます。高度で難しくなる課題を本質的にがんばって解こうという動きと、その反対側に向かう「難しくてよくわからないから、極論でもいいからシンプルに教えて」「何が悪者なのか決めて、それを叩けばOKってことにしない?」という動き。

この2つの正反対の思考が、さまざまな領域で昨今よく使われる「分断」という課題構造の本質の1つだと僕は思います。

エルメスのフランス本社前副社長の齋藤峰明さんの考察に「アメリカでハンバーガー屋さんが多いのは、人種のるつぼゆえに、どんな人でもおいしいと感じる最大公約数が求められるからではないのか」という仮説があって、なるほど多様性が高ければ高いほど選択肢も多様になるのかと思いきや、その逆の「かえって最大公約数に収れんされてしまう」という可能性もあるのだと考えさせられます。

■「何を良しとするのか」を再定義する

ただ、そうやって論点を単一化して局所最適を図ることで未来に回されてきたツケが、そろそろコップの限界まで近づきつつあるということに気がついたのが、「ここではないどこかへ」という気分の正体の1つではないでしょうか?

「問いが複雑すぎて、ここではないどこかへと感じる」
「でも複雑さから逃げて極論に走ると、何かが見すごされ、こぼれていく」
「そこで見すごされた感情がさらに“ ここではないどこかへ” と感じさせる……」。

SDGsやDE&I(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)、ウェルビーイングなど、すべての人がより生きやすい社会の実現のためにさまざまな「社会運営のコンセプト」が生まれてきたこととも付合します。

全体最適で考えようとすると、自ずとその課題は多変量的になるし、「課題が複雑で難しすぎる!」と感じられるということは、それだけ人類がその課題を「ちゃんと解こうとしている証拠」ともいえます。

自分の担当領域や専門性、日常から実際に見えている風景を超えて、想像力を働かせて全体観をつかもうとすることは、「情報が多すぎて」「テクノロジーが速すぎた」結果、うながされてここまできた人類の進歩のポジティブな側面ともいえます。

高度に複雑な難しい課題を、全体観をもって解くために、何を道しるべにするべきなのか? 「売上」「応募者数」「人気ランキング」といった既存の変数を単一化して追い求めるのではなく、そもそも「何を良しとするのか」を再定義することが、適応課題の時代には必要で、それこそが「ここではないどこか」へ行くためのまず最初に必要になる態度なのでしょう。

■世界一幸せだった国・ブータンの幸福度が急落した理由

5.「らしさ」が揺らぎすぎる

若者の研究者として日々、大学生と会う中で、就職活動の相談を受けることも少なくないのですが、ある1人の学生からこんな悩みを打ち明けられたことがあります。

彼はいわゆる体育会に所属していて、そこで副将として部を率いて大会に向けて練習に励む精悍(せいかん)な青年でした。ですが、競技に打ち込む一方で、「こんなことばかりしていて果たして自分の将来は大丈夫なのか?」と、とても不安になることがあるというのです。競技に夢中に打ち込み、副将としてリーダーシップ経験も積み、大会でも成果をあげているのにもかかわらず、です。

吉田将英『コンセプト・センス 正解のない時代の答えのつくりかた』(WAVE出版)
吉田将英『コンセプト・センス 正解のない時代の答えのつくりかた』(WAVE出版)

その不安がどこから来るのか尋ねてみると、「高校のときのどうしようもない悪友が、シリコンバレーの企業でサマーインターンをしているのをSNSで見てしまったから」と。あいつが就活につながるインターンをしているのに、自分は毎日ボールばっかり追いかけていて、何の役に立つのか、空恐ろしくなる瞬間があるというのです。

彼の声に象徴されるような「果たして、今の自分の“自分らしさ”は、大丈夫なんだろうか?」という不安は、そこかしこで実際の声として聞きます。これは決して若者だけに限った話ではなく、経営者も部長も、ビジネスで企画をするすべての人が多かれ少なかれ、時代の空気から感じてしまうことなのではないでしょうか?

それは「自分自体のらしさ」だけではなく、自分が従事しているプロジェクトやチーム、企業、時間の使い方、すべてにおいて「自分らしさ・そのものごとらしさ」が、相対化されすぎるがゆえに揺らいでしまう現象で、「アイデンティティ・クライシス」ともいわれます。もっと社会が狭く、比べる対象が少なかったかつては、こんなことは社会問題になっていなかったはずです。

現に、かつて「国民総幸福量」で世界的に注目されていたブータンが最近は幸福度ランキングの上位からすっかり遠ざかっているのも、当時よりも国外の情報が流入するようになって、「あれ、僕らってもしかして貧しいのでは?」と揺らぎを覚えたからともいわれています。

ブータン・パロ県パロの渓谷高所にあるチベット仏教の寺院・タクツァン僧院
写真=iStock.com/Luigi Farrauto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Luigi Farrauto

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吉田 将英(よしだ・まさひで)
電通 コンセプター
1985年生まれ。慶應義塾大学卒業後、ADKを経て電通入社。シンクタンク部門のデザインリサーチャーとして、業界・メディアへの社会洞察提言を行ない、「電通若者研究部」代表を務めたのち、2015年から現職。現在、多くの経営者のパートナーとして、コンセプト・デザインを行なっている。生活者とクライアント、社会の声の傾聴を起点とし、大企業からスタートアップ、地方自治体まで幅広い領域のプロジェクトを手がける。関係性不全の解決から社会を前進させる「関係性デザイン」をポリシーに活動中。著書に『>アンテナ力』(三笠書房)、共著に『若者離れ』(エムディエヌコーポレーション)など多数。

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(電通 コンセプター 吉田 将英)

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