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私の母の葬式にジャニー喜多川氏は大きな花を出した…性加害に気づけなかったテレ東「ジャニ担」の懺悔

プレジデントオンライン / 2024年1月17日 14時15分

17日から社名が変わるジャニーズ事務所の本社ビル=2023年10月16日、東京都港区 - 写真=時事通信フォト

なぜジャニー喜多川氏による性加害問題は長年放置されてきたのか。元テレビ東京社員の田淵俊彦さんは「ジャニー氏の性的指向は業界人なら昔から誰でも知っているので、取り上げるまでもないと考えた。『週刊誌レベルの話』で『しょせん芸能界のこと』としか意識していなかったが、それは大きな間違いだった」という――。

※本稿は、田淵俊彦『混沌時代の新・テレビ論 ここまで明かすか! テレビ業界の真実』(ポプラ新書)の第3章『病症Ⅱ:異常なまでの「忖度」をするという「だらしなさ」』の一部を再編集したものです。

■ジャニーズ事務所のアイドルたちとの出会い

2023年の芸能界は、まさにジャニー喜多川氏の性加害問題に終始したといっても過言ではないだろう。

しかし、そういったニュースは少し前まではほとんどテレビでは見られなかった。「テレビ局の忖度(そんたく)」と非難され始めて、重い腰を上げて報道を始めたというのが事実である。

なぜテレビ局は、ジャニーズ事務所に忖度しなければならなかったのか。(2023年10月現在、新聞報道などでは「旧ジャニーズ事務所」という表記を使用しているが、本書においては「現在」ではなく「当時」のことを記すため、わかりやすさを優先して旧社名である「ジャニーズ事務所」という表記で統一する)

そしてテレビは、同じようにほかのタレント事務所や芸能プロダクションにも忖度をしているのだろうか。事実の裏側に隠されている、癒着の真実とその理由に迫る。

ここから伝えるのは、すべて私が経験したか、今回自ら取材をしたことである。推測はひとつもない。もちろん、社会に出て数年しかたっていない20代前半の若造が見聞きしたことだから、正確にものごとの本質をとらえられていないかもしれない。

だが、その経験は紛れもない「事実」であり、語られることのなかったエピソードである。だからこそ、この章のテーマである「忖度」の正体をおぼろげながら浮かび上がらせることができるかもしれない。そう考えて、ありのままに記すことにする。

■歌番組のADになった入社2年目

取材に関しては複数の言質を取るようにした。また、その証言は情報提供者が伝え聞いたことではなく、あくまでも彼ら自身が経験したことに限った。そしてもうひとつ、最初にはっきりさせておかなければならないことがある。

これから伝えるジャニー喜多川氏の印象は、あくまでも当時の私の個人的な感想だ。本当の姿ではないかもしれない。それは私にもわからない。

もちろん、ジャニー氏を擁護する意図があるわけでもない。ジャニー氏の少年たちへの性加害と人権侵害は決して許されるものではないことは自明だからだ。

大学を出てテレビ東京に入社した私は、2年目からはアイドル歌番組に配属となってADをしていた。そんなある日、当時の上司であった沼部俊夫氏が私に声をかけた。

「ちょっと行くところがあるんだけど、一緒に来る?」

沼部氏は頭をつるつるにそり上げた強面で、やくざかと見まがうばかりの風貌だった。だが、性格はとても穏やかで優しかった。その容姿におさげのズラ(かつら)をかぶって、「おさげ沼リン」として画面にもちょくちょく登場していた。

■「ユー、このなかでどれがいいと思う?」

そして何と言っても、「ジャニーズ番」としてジャニー氏と直で話ができる稀有な存在だった。他局のプロデューサーからも一目置かれていた。そんな沼部氏から新入りペーペーの私に直々に声がかかったのである。

「何か特別なことがあるんじゃないだろうか」

そう直感したとしても、不思議はないだろう。

案の定、向かった先の後楽園スケートリンク(当時)にいたのはジャニー喜多川氏だった。ジャニー氏は初めて会った私にこう言った。

「ユー、このなかでどれがいいと思う?」

目の前のリンクでは、ローラースケートを履いた少年たちが勢いよくぐるぐる円陣を組んで滑りながら、ジャニー氏と私たちがいる場所まで来るたびに「こんにちは!」と満面の笑みで元気よく叫んでゆく。私は「あの子ですかね」とひとりの少年を指さした。

ローラースケート靴の靴紐を結んでいる少年
写真=iStock.com/PeopleImages
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PeopleImages

ジャニー氏は「ユーもそう思う? なかなかセンスいいね」と言った。

あとになって知るのだが、この場はのちにスーパーアイドルグループとなる光GENJIの最後のひとり、センターを選ぶ大事なイベントだった。メンバー7人のうちの「光」である2人と「GENJI」のうちの4人は既に決まっていた。

そしてそのときに選ばれたのが、光GENJIのなかでも絶大な人気を誇った諸星和己氏であった。私が指した少年は、諸星氏だったのだ。

■光GENJIの絶頂期、SMAPの誕生に立ち会う

このエピソードからわかるように、ジャニー氏という人は初めて会った相手にもわけ隔てなく接し、それがたとえ若造のADであったとしても気にすることなく意見を求め、その声を聞く耳を持っていた。

その一件がきっかけで、何となくジャニー氏は私に目をかけてくれるようになり、私は「ジャニーズ事務所担当(ジャニ担)」となった。そして光GENJIの絶頂期を目の当たりにし、のちに国民的アイドルとなる「SMAP」の誕生にも立ち会うことになる。

SMAPは当時、6名。最年少の香取慎吾氏は小学6年生だった。ほかのメンバーも含め普段は学校があるので、夏休みになるとまとめて撮影をするために千葉に合宿に赴いた。

夕方に撮影が終わったあとの私の仕事は、「風呂に入って、6時に大広間に集合!」とみなに号令をかけて大広間で宿題を教えることだった。同じ食卓を囲み、夜は一緒に雑魚寝をした。いま思えば、一番大変だったが、一番楽しく充実しているときでもあった。

彼らは私を兄のように慕い、頼りにしてくれていた。私は彼ら一人ひとりを名字ではなく「拓哉」「正広」などと名前で呼んでいた。遊びたい盛りの年ごろでありながら厳しいレッスンや芸能活動で忙しい彼らは、「心細い」ところがあったのだろう。私によくなついてくれていたのではないかと思う。

■「頼ってくれているんだ」と思えて嬉しかった

私がジャニーズ担当として関わったのは、『ヤンヤン歌うスタジオ』をはじめとして光GENJIからSMAPにバトンタッチされたドラマ『あぶない少年』、デビュー前のSMAPをレギュラーに抜擢して毎週違う会場から生中継をするといった無謀の歌番組『歌え!アイドルどーむ』ほか、SMAPが司会の『ポップシティX』『朝シャン!音楽壱番館』『ヤンヤンもぎたて族』などかずかずの番組だった。

当時はスマホどころか携帯電話もなかった。収録や編集が終わってヘトヘトに疲れ果てて家に帰ると、家電が鳴る。出ると光GENJIのメンバーが「焼肉を食べに行きたい」とねだるので、またタクシーを拾って夜中に出かけてゆく。そんな生活だった。

そんなわがまま放題の彼らのおこないも、私には「頼ってくれているんだ」と思えて嬉しくもあった。

■母の葬儀に大きな花を出したジャニー氏

こんなふうに私は完全に少年たちの「おもり役」のような感じだった。彼らはおりにつけ、「ジャニーさんがこう言った」とか「ジャニーさんはこうしてくれた」と目を輝かせて私にしゃべってくれた。

いつも彼らが強調して言うのは、「ジャニーさんはよく人の話を聞いてくれる」「こちらに意見を求めてくれる」ということだった。それを聞くたびに、私は後楽園スケートリンクでの出来事を昨日のことのように思い出していた。

ジャニー氏は、人の心をつかむのがうまい人だった。

私がジャニーズ担当のADだった1988年の年末、母がガンで亡くなった。するとジャニー氏は、葬式に「ジャニーズ事務所」と「光GENJI」という花だけでなく「喜多川擴(ひろむ)」という本名で大きな花を出してくれた。

白い菊の花
写真=iStock.com/Yuuji
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuuji

いまのように情報があまりない時代だったので、私はそれを見て「ジャニーさんって擴っていう名前なんだ」と思ったのを記憶している。

前年の1987年に「STAR LIGHT」で華々しくデビューをした光GENJIの人気は絶大なものがあった。

光GENJIの人気ぶりを象徴するエピソードがある。

バレンタインデーのことだ。テレビ東京の神谷町社屋の前に、続々と工事現場用の大型ダンプトラックがやって来た。積んでいるのは砂利ではない。山のようなチョコだった。そして、それを道路にガーッと落としてゆく。すべて光GENJIへの贈り物だ。

■少年たちの苦しみに気づけなかった

テレビ東京では光GENJI主演の『あぶない少年』が放送されていたので、ファンはテレビ東京あてにチョコを送ってきたのだった。

もちろん、私の田舎の兵庫でもその人気に変わりはない。しかも、亡くなった母は小学校の教師をしていた。葬儀に訪れた教え子たちが「光GENJI」からの花を見てざわつく声は、いまでも忘れられない。「えー、なんでこんなところに光GENJIの花があるの? 田淵先生とどんな関係?」という感じだ。私は誇らしく感じていた。

ジャニー氏は、そういうことをする人だった。

私はジャニーズ担当としてかなりの時間を所属アイドルの少年たちと過ごしていた。光GENJIをはじめとして、男闘呼組、少年忍者(のちの忍者)、デビュー前のSMAP、平家派、ジャニーズJr.……。

自分が関わっているすべての若者たちの誕生日を手帳に記して、その日が来るとプレゼントをあげるのを欠かさなかった。それほどまでに彼らと密に接していた。

だから私が後悔しているのは、あんなに多くの時間を一緒に過ごしていた彼らが「苦しんでいた」ことになぜ気がついてやれなかったのかということだ。

もしそのことに気がついたとしても当時の私の立場で何ができたのか、それは想像がつかない。だが、少なくとも彼らの悩みを聞き、彼らと一緒に悩み、何らかの解決策を模索できたのではないか。そう思えて仕方がないのだ。

■テレビ局は「共犯」なのか

今回のジャニー喜多川氏の問題を経て、テレビに関する重要な論点が浮き彫りになってきた。それは、テレビが扱う芸能人および芸能事務所に、テレビはどれだけ責任を負うべきなのかということである。

一部には、テレビ局も共犯者のように非難する報道も見受けられる。

しかし、テレビが芸能人や芸能界の不祥事にどれだけの責任を持てるかというと、「それは難しい」というのが正直な実感である。

撮影中のテレビカメラ
写真=iStock.com/flyingv43
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/flyingv43

テレビ局には独自のネットワークがある。例えばあるタレントが不祥事を起こしたとする。すると、夕方くらいには広告代理店(主に電通だが)から電波担当を通じて「明日のどこそこという雑誌にこういう記事が載る」という連絡が来る。そこには、次の日に発売されるはずの雑誌の記事まで添付されていることもある。

そしてそのタレントが出演しているCMや番組の洗い出しが始まる。番組提供からCMを外したり、番組から映像を削除したりするという作業が着々とおこなわれるのだ。

テレビは生身の人間を扱っている。その個々がどんなことをするかまで管理をすることはできないし、それはテレビの役目ではない。

■テレビ局が責められるべき2つの大罪

また、ジャニー氏が性加害をおこなっていたことを知りながらジャニーズ事務所のタレントを重用したということに対する非難もあるが、テレビが個人ではなく集合体である以上、そのなかにはさまざまな意見や考え方があるため、統一見解を取ることは難しい。

現在でも、テレビ局の間で「ジャニーズ事務所のタレントを使うか、使わないか」という判断が割れているのがその証拠だ。

ジャニー氏の作り上げるエンタメの世界は優れたものだった。だからタレントは人気を得ることができたし、社会的に支持を得た。彼らを番組に出演させることで、テレビ局が視聴率を獲得していたという現実もある。そんな状況下では、どんな事情があったとしても「有利なパイを使わない」という選択肢はなかっただろう。

よいか悪いかを別にして、テレビとはそういうものだ。

だが、以上のことを踏まえてもテレビ局が責められるべき大きな「罪」がある。それは、2つの「認識不足」である。ひとつ目は、ジャニー氏の性加害の根底には「少年への人権侵害」という大きな問題が潜んでいるということの認識不足である。

私は35年前、ジャニー氏の同性愛指向を知りながら、愚かにも「少年たちが苦しんでいる」と気がつかないまま見過ごしてしまった。それは「人権侵害」という認識が欠けていたからである。

同じように、テレビ局もそういった認識不足から、「大きな問題」であるとは考えなかった可能性がある。

■「週刊誌レベルの話」で「しょせん芸能界のこと」

そしてもうひとつは、「ものごとの重要性」に対する認識不足である。

テレビは今回の問題が騒動になってもしばらく沈黙を保って、報道することはなかった。「週刊誌レベルの話」で「しょせん芸能界のこと」だという意識しかなかった。特にいま新しく起こったことでもないし、ジャニー氏の性的指向は業界人なら昔から誰でも知っているので、取り上げるまでもないと考えたのだ。

以上のような認識不足は非難されるべきであり、メディアとして許されるものではない。当時、身近にいた私も含め深く反省しなければならない。

ではその代わりにいったい何ができたのか。

その問いの答えは簡単には出せない。しかし、いまは答えがないその「問い」をテレビに携わる人間、そしてテレビの電波を財産として保有する私たち一人ひとりが考え続けるべきなのではないだろうか。

さらにここまで記してきた2つの認識不足以上に、「テレビの性癖」とも言える問題がテレビ局と芸能プロダクションの間には横たわっている。

それは、過剰なまでの「忖度」である。今回のジャニー氏の問題にテレビ局の忖度はあったのか。そして、有力な芸能プロダクションへの忖度は本当に存在するのか。次節で紹介する実例を読みながら、読者のみなさんそれぞれの答えを見つけてもらいたい。

■誰も逆らえなかった…ジャニーズ事務所への忖度

やはり、まずはこの話題から切り込んでいくしかないだろう。

タレント事務所、芸能事務所への忖度というとイコール「ジャニーズ事務所への忖度」というイメージが今回の問題で強まった。

1980年から1990年代にかけてちょうど私がテレビ業界に足を踏み入れた時期は、ジャニーズ事務所の全盛期であった。

田淵俊彦『混沌時代の新・テレビ論 ここまで明かすか! テレビ業界の真実』(ポプラ新書)
田淵俊彦『混沌時代の新・テレビ論 ここまで明かすか! テレビ業界の真実』(ポプラ新書)

たのきんトリオは健在で、シブがき隊、少年隊、そして前述したような光GENJIの大成功があった。ネクストジェネレーションとして、男闘呼組やSMAPがいた。ドラマを企画しようとすると、必ずジャニーズ事務所のタレントが候補に挙がった。

現在ほど情報社会ではないだけに、一度生まれたトレンドやムーブメントに対して観客はいま以上に敏感だった。光GENJIを真似した小学生たちが、みなローラースケートを肩からさげて学校に行ったという社会現象は伝説となっている。

そんな飛ぶ鳥を落とす勢いの事務所に、誰が逆らえるだろうか。

少しでも歯向かうような素振りを見せようものなら、容赦ない制裁が加えられる。不利益をこうむるのだ。その実例をここに告発しよう。(第2回へ続く)

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田淵 俊彦(たぶち・としひこ)
元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授
1964年兵庫県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、テレビ東京に入社。世界各地の秘境を訪ねるドキュメンタリーを手掛けて、訪れた国は100カ国以上。「連合赤軍」「高齢初犯」「ストーカー加害者」をテーマにした社会派ドキュメンタリーのほか、ドラマのプロデュースも手掛ける。2023年3月にテレビ東京を退社し、現在は桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授。著書に『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社)、『発達障害と少年犯罪』(新潮新書)、『ストーカー加害者 私から、逃げてください』(河出書房新社)、『秘境に学ぶ幸せのかたち』(講談社)など。日本文藝家協会正会員、日本映像学会正会員、芸術科学会正会員、日本フードサービス学会正会員。映像を通じてさまざまな情報発信をする、株式会社35プロデュースを設立した。

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(元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授 田淵 俊彦)

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