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なぜ寝台特急ブルートレインは大ブームを起こしたのか…あらゆる世代を引き付けた「夢の超特急」の栄枯盛衰

プレジデントオンライン / 2024年1月27日 6時15分

金谷―島田間を走る夜行特急「さくら」 - 筆者撮影

青い車体が特徴の寝台列車「ブルートレイン」は2009年に引退するまで多くのファンに愛された。なぜ「ブルートレイン・ブーム」と呼ばれるほどの人気を博したのか。鉄道ジャーナリストの松本典久さんの著書『夜行列車盛衰史』(平凡社新書)より、一部を紹介しよう――。

■ブルートレインだけに掲げられた「ヘッドマーク」

国鉄の夜行特急が最盛期を迎えたころ、ブルートレインは趣味の対象として大きな話題になり、東京駅や大阪駅などでブルートレインにカメラを向ける人々の姿が目立つようになってきた。東京駅では「さくら」「はやぶさ」「富士」「あさかぜ」などが発着していたが、当時、列車の先頭に立っていたEF65P形にはヘッドマークが掲げられていた。実は当時、これが唯一定期列車に掲げられていたヘッドマークだったのである。

ヘッドマークは、戦後に運転された特急「つばめ」「はと」で起用されたのをきっかけとして国鉄特急列車のシンボルとなった。1956(昭和31)年に誕生した初の夜行特急「あさかぜ」にも用意され、先頭に立つ機関車に掲げられた。その後、夜行特急は20系客車の登場でブルートレインとして発展していくが、ここでもヘッドマークは使用され、列車名にちなんださまざまな意匠のヘッドマークが誕生した。

■ヘッドマークは現場からは嫌われていた

一方、列車にヘッドマークを掲出することは、業務面で大きな手間となる。特にブルートレインは長距離で運行され、始発から終点まで1両の機関車が担当することはまれだ。途中で機関車を交換するなら、ヘッドマークはそれぞれの機関車に取り付けておく必要がある。

ただし、製作費や保管場所を考えるとヘッドマークを無数につくるわけにはいかず、必要最小限の枚数で回していかねばならない。列車運行のためには、機関車、客車、乗務員などそれぞれの運用を定め、効率的に安全な運行を行っているが、ヘッドマークにもこれらと同じ扱いが必要なのだ。

■鉄道ファンにとって「暗黒の時代」の到来

やがて現場や管理者からヘッドマークの扱いが煩わしいという声が出てきた。1969(昭和44)年には門司機関区の電気機関車でヘッドマークの使用が中止となり、翌年10月には九州島内のディーゼル機関車もヘッドマークの掲出を中止した。これで九州を走るブルートレインは、すべてヘッドマークなしの運行となった。

この九州の動きはほかの線区にも波及し、1973(昭和48)年10月以降、ヘッドマーク付きで運行されているブルートレインは東海道・山陽本線の直流電気機関車だけとなってしまった。さらに1975(昭和50)年3月改正では、東京機関区が担当する東京発着のブルートレインだけとなってしまったのである。

ちなみに「SLブーム」として社会現象を引き起こした国鉄のSLも1975(昭和50)年12月で本線運転を終了、1976年3月には入換え用として残っていたSLも運用を終え、国鉄全線で完全引退となった。

鉄道愛好者、ブルートレイン愛好者にとっては、まさに暗黒の時代となってしまったのだ。

■70年代のブルトレブーム

しかし、東京発着のブルートレインだけにヘッドマークが残ったという「希少性」は、新たな鉄道愛好者を呼び寄せることにもなった。

月刊『鉄道ファン』誌では1975年1月号で「ブルー・トレイン」特集を組んだ。巻頭グラフに始まり、ブルートレインの魅力をいろいろな切り口で紹介、70ページを超える大特集にまとめられていた。同年6月号には50.3ダイヤ改正による車両の組み替えなどを紹介した「“ブルー・トレイン”スペシャル」という記事が入り、さらに7月号には「あなたの“ブルー・トレイン”」というやはり70ページ超の特集が組まれた。

このあたりがきっかけになったと想像できるが、ポストSLのテーマとしてブルートレインに注目が集まり、やがて「ブルートレイン・ブーム」へと進んでいくのだ。

一般のマスコミが「ブルートレイン・ブーム」に注目するのは、1978(昭和53)年に入ってからだ。国立国会図書館の蔵書リストで調べると、同年4月発行の『ブルートレイン&スーパートレイン』(二見書房)あたりが口火をきったと思われる。これは64枚のカードで構成された商品で、写真・解説は鉄道写真家の廣田尚敬氏が担当している。

同年10月には西村京太郎氏の『寝台特急殺人事件』(光文社カッパ・ノベルズ)も上梓された。書名は「寝台特急」となっているが、ここに「ブルートレイン」のルビが添えられていた。ちなみに本書が西村氏の鉄道トラベルミステリーの原点ともいえる作品となった。

国立国会図書館蔵書リストによると、ブルートレイン関連書籍は同年に7点、翌年には14点と倍増、以後、JR発足にかけて毎年十数点が発行される盛況となった。

■ブルトレブームでも国鉄の経営は厳しかった

また、テレビでも取り上げられ、1978年3月5日には「日曜☆特バン 激走 夢の寝台特急 ブルートレインのすべて」がTBS系で全国放送された。番組は国鉄がスポンサーとなっていた日本テレビ系の「遠くへ行きたい」などにも出演していた女優の岸ユキさんらが寝台特急「富士」に乗車、ブルートレインの旅を紹介するというもの。

寝台特急「富士」
寝台特急「富士」(写真=Gohachiyasu1214/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

また、翌1979(昭和54)年4月18日にはNHKの「新日本紀行」で「『青い流れ星にのって』〜ブルートレイン・さくら号〜」も放映されている。

1978年 東京駅 ブルートレインの撮影に群がる人々
撮影=桟敷勇次郎
ブルートレインの撮影に群がる人々 - 撮影=桟敷勇次郎

こうして人々やマスコミからの注目を受けていたものの、実はこの時代、国鉄の経営は後述のように厳しい状況にあり、またブルートレインをはじめとする国鉄の利用者数も落ち込んでいた。

■文字のみのマークからイラスト付きマークへ

そんななか、東京駅に集まる中高生たちの姿にヒントを得たのだろうか、国鉄ではシェア改善策のひとつとして1978年10月ダイヤ改正を機にヘッドマークのテコ入れを始めた。それまで文字だけで表現されていた特急電車のヘッドマークをイラスト入りのカラフルなものに変更したのだ。

ブルートレインの客車の前後にも文字だけのトレインマーク(先頭部は機関車が連結されているので、実質的にはテールマーク)が付いているが、これは翌1979年7月からイラスト入りに替えた。

このイラスト入りヘッドマークによる増収への効果は不明だが、PR効果はあると判断されたのだろう。国鉄晩年の1984(昭和59)年2月には九州エリアでヘッドマークが復活、同年10月には上野発着の「あけぼの」(ヘッドマーク復活は上野〜黒磯間)、「ゆうづる」(同じく上野〜水戸間)でヘッドマークが復活した。さらに翌1985(昭和60)年3月までに全国でブルートレインのヘッドマークが再掲出されるようになった。

■赤字経営の国鉄が断行した値上げの連発

ブルートレインを中心とした国鉄の夜行列車が変化していく時代、国鉄の運営そのものも大きく変化していった。

実は国鉄の運営は1964(昭和39)年度に単年度収支で8300億円の赤字となった。当初は繰り越し利益でカバーしたが、1966(昭和41)年度決算で完全な赤字に転落してしまう。その状況を何とか改善すべくさまざまな合理化もはかっていたが、その一方で運賃や料金の値上げにより収支のバランスをとることも考えたのだ。

この状況下で最初に実施されたのは、明治の鉄道創業時より引き継がれてきた「等級制度」の廃止である。1969(昭和44)年5月10日から2等は「普通」、1等は「グリーン」と呼ばれるようになった。これは呼称の変更だけでなく、運賃(乗車券)・料金(特急・急行・座席指定・寝台などのサービスに対する対価)制度が抜本的に変化したのだ。

現在、グリーン車を利用する際、乗車券(運賃)にグリーン券(グリーン料金)を合わせて購入するスタイルだが、等級制度の時代は1等運賃、2等運賃と運賃そのものが等級別に設定されていた。等級制廃止で運賃が一元化され、グリーン席を利用する場合は、グリーン料金を加算する方式になったのである。

■等級制度の廃止とグリーン料金の新設

また、寝台の呼び名も変わった。等級制度だった最末期、寝台は1等と2等に分かれ、1等は個室タイプがA室および個室、中央通路式のカーテンで仕切るタイプがB室、2等は客車寝台および電車寝台となっていた。等級制廃止で1等はA寝台、2等はB寝台となった。個室も引き続き使用され、これはA寝台1人用個室などとなる。

24系開放式A寝台の車内(寝台急行「銀河」車内にて。2008年2月9日撮影)
24系開放式A寝台の車内(寝台急行「銀河」車内にて。2008年2月9日撮影)(写真=Nkensei/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

ちなみに寝台料金は旧等級の運賃差額を見込んだ設定で、A寝台使用時に1等運賃差額の補塡に相当するグリーン券を買う必要はない。言葉にすると複雑に思えるが、扱いはシンプルになったのである。

この等級制度廃止時に合わせて運賃・料金の改定も行われ、初乗り運賃は2等20円から普通車・グリーン車利用ともに均一30円になった。また、寝台料金も改定され、客車3段式の場合、上段800円、中段900円、下段1000円と各段別で設定されていた価格が上・中段はともに1100円、下段は1200円となった。

■当初の寝台料金は東京の旅館1泊よりも安かった

この時代、国鉄の運賃および料金は国鉄自身が自由に設定できるものではなかった。基幹となる運賃は国会の承認が必要だった。そのうえで運輸大臣(現在の国土交通大臣に相当)が認可する方式だった。また、料金は国鉄が骨子を作成、これを運輸大臣が承認した。

こうした制度上の違いはあったものの、1970年代、比較的安易に実施されたのが料金改定だった。1974(昭和49)年に導入が始まった2段式のB寝台は当初1900円だったが、1975(昭和50)年11月には3000円、翌1976(昭和51)年11月には4000円となった。

さらに1978(昭和53)年10月には4500円、1981(昭和56)年4月に5000円、1982(昭和57)年4月に5500円、1984(昭和59)年4月には6000円となってしまう。わずか10年で3倍超になってしまったのだ。

ちなみに東京・新橋界隈の日本観光旅館連盟に属す一般的な旅館で見ると、1974年ごろは1泊2500〜3500円、1984(昭和59)年ごろは4000〜7000円と2倍ぐらいに宿泊料金が値上がりしている。

両者の価格を比較すると、当初、旅館より安く泊まれたブルートレインだったが、10年間で旅館並みか旅館以上の価格となってしまったのだ。

■度重なる値上げで起こった「ブルートレイン離れ」

国鉄の値上げは料金に留まらず、抜本的な運賃にも矛先が向いた。国鉄経営を支援するという建前で1977(昭和52)年12月には「国有鉄道運賃法」が改正され、国鉄では物価等の変動による経費増加見込額を限度として運賃を設定、それが運輸大臣の認可を受けられれば運賃改定ができるとされた。結果として1970年代後半からは運賃と料金がセットで改定されるようになる。

この度重なる運賃と料金の改定により、国鉄から利用者離れが起こる。当然、国鉄側も値上げすれば利用が減ることは想定していたが、値上げ幅で減少分をカバーできると踏んでいたのだ。しかし、事態は国鉄の予想を上回った。寝ている間に目的地に移動できる便利なブルートレインだったが、さすがにこの値上げによる影響は大きく、乗客のブルートレイン離れが進んでしまうのだ。

■夜行列車のライバル「夜行バス」

さらに1980年代に入ると高速夜行バスも増えてくる。

日本の高速自動車道は、1965(昭和40)年に名神高速道路が全通、1969(昭和44)年に東名高速道路が全通と、鉄道整備に比べてやや遅れをとっていたが、その後、全国各地で急速に建設が進み、1982(昭和57)年には中央自動車道、1983(昭和58)年には中国自動車道、1985(昭和60)年には関越自動車道も全通、さらに東北・北陸・九州など主幹路線が次々と建設されていった。

こうした高速自動車道の整備に合わせて高速バスや高速夜行バスの路線が続々と誕生していったのである。

その運賃はおおむね国鉄の運賃と同じレベル。しかも所要時間は国鉄の普通列車を上回るケースも多く、強力なライバルとなったのである。さらにブルートレインで比べてみると特急料金と寝台料金が加算される。単純に価格だけで比較すると高速夜行バスに大きく水をあけられることになった。

■国鉄に追い打ちをかけた「空路」の台頭

また、利用者の国鉄離れは、ブルートレインだけでなく、国鉄の稼ぎ頭となる新幹線やそれを基軸に在来幹線に広げられた昼行特急でも現れた。はるかに高額と思われていた空路との価格格差が縮まり、区間によってはほとんど差がない状態になってきた。

実はこの時代は地方空港の新設や整備も進められた。新たな空路が設定され、ジェット化も進み、その輸送力は拡張していく。結果としてシェアが国鉄から空路に移るのも当然の成り行きだった。

こうして国鉄の赤字は減るどころか増え続けていくことになる。

これは国にとって大きな問題となり、最終的に国鉄再建のための分割民営化に進むことになるが、それまで手をこまねいていたわけではない。例えば、赤字額の多い路線を「特定地方交通線」と定め、その廃止を進めた。そしてついに1979(昭和54)年には経費節減のため夜行旅客列車の廃止まで検討されている。

■ブルトレの必要性は国会でも議題に

同年6月5日の「参議院運輸委員会」議事録を見ると、夜行列車問題の口火を切ったのは漫才グループ「漫画トリオ」の横山ノックこと山田勇氏だった。

「夜行列車の効率が悪いということでその縮小、廃止が国鉄再建の一環としまして取り上げられておりますが、具体的にはどう取り組んでいくんでしょうか。効率の悪い列車をある程度削減するのもやむを得ないかもしれませんが、ブルートレインなどといいまして、愛称で非常に親しまれておる夜行列車もございます」

松本典久『夜行列車盛衰史』(平凡社新書)
松本典久『夜行列車盛衰史』(平凡社新書)

これに対して第一次大平内閣の運輸大臣を務めていた森山欽司氏は「東京―西鹿児島でございましたか、直通特急列車があるが、そういう汽車は本当に必要なのかと。(中略)せっかく新幹線ができたわけでございますから、朝早く乗っていただいてそして博多から鹿児島までの特急列車をつくれば同じ目的を達成するのではないかと」と答弁している。

森山氏は1975(昭和50)年3月に全通した山陽新幹線の活用で代用できるとしたのだ。実はこのダイヤ改正に合わせて博多〜西鹿児島間の特急「有明」は3往復から10往復に大増発されており、そのうちの半分は東京発の「ひかり」でも乗り継げた。今さら勉強不足を指摘する必要はないが、交通路としては完成していたのである。

■「ブルトレブーム」の陰で国鉄は赤字に苦しんでいた

この委員会には国鉄当事者も出席しており、国鉄総裁に就任して間もない高木文雄氏は、昨1978年10月改正で関西〜九州間のブルートレイン3往復などを廃止、様子を見ているとしたうえで、「夜行列車をうまく使って宿泊費その他が少なくて済むということで、会議等にお集まりになるのについて夜行列車を絶えず使っていらっしゃる方もございます(中略)需要に合った形で減らしていきたい」としている。

高木氏はブルートレインの価値を評価したうえで、国鉄全体の再建をめざしていたと思われる。実際、ブルートレインを削減したところで国鉄全体としてみれば大した合理化にはならなかったと思われる。それよりも全国一律だった国鉄運賃を輸送密度によって幹線と地方交通線に区分、それぞれに見合った価格に設定する方が得策としていた。これは高木氏の国鉄総裁退任後に実現することになる。

「ブルートレイン・ブーム」が巻き起こっていた時代、ブルートレインを取り巻く環境とそれを運営する国鉄は厳しい状態に追い込まれていたのである。

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松本 典久(まつもと・のりひさ)
鉄道ジャーナリスト
1955年、東京生まれ。東海大学海洋学部卒。幼少期から鉄道好きで、出版社勤務後、フリーランスライターとして鉄道をテーマに著作活動をしている。乗り鉄だけでなく鉄道模型や廃線などにも造詣が深い。著書に『夜行列車の記憶』『60歳からの青春18きっぷ入門増補改訂版』『軽便鉄道入門』(以上、天夢人)、『どう変わったか? 平成の鉄道』『ブルートレインはなぜ愛されたのか?』(以上、交通新聞社新書)、『紙の上のタイムトラベル 鉄道と時刻表の150年』(東京書籍)など多数。

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(鉄道ジャーナリスト 松本 典久)

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