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だから徳川家は265年将軍職を世襲できた…吉宗が世継ぎのバックアップに立ち上げた「御三卿」というシステム

プレジデントオンライン / 2024年1月25日 8時15分

狩野忠信作「徳川吉宗像」(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

大奥は将軍の世継ぎを作るために女性を集めた生殖の場だが、ドラマ「大奥」(フジテレビ)で描かれる10代将軍家治の時代は、それでも後継者がいないという問題が発生。経営史学者の菊地浩之さんは「将軍家のスペアとしては既に尾張・紀伊・水戸の『御三家』があったが、8代将軍吉宗の時代から江戸城内に『御三卿』が設置され、これが家治の時代に機能した」という――。

■ドラマ「大奥」のヒロインは現在の天皇家とも血縁関係にある

1月18日からフジテレビ系でドラマ「大奥」がはじまった。ついこないだまで、NHKでも、よしながふみ原作の「大奥」ってやってなかったっけ? ともあれ、時代劇自体が少なくなっている現代で、大奥はドラマとして格好の題材なのだろう。

よしながふみ原作の「大奥」は男女逆転のパラレルワールドだったが、今回の「大奥」は、将軍は男、正室は女という――まぁ、当たり前といえば、当たり前の設定である。

時代は江戸時代中盤、10代将軍・徳川家治(いえはる)(亀梨和也)の正室、五十宮(いそのみや)倫子(ともこ)(小芝風花)が主人公だ。五十宮というからには皇族で、父は閑院宮(かんいんのみや)直仁(なおひと)親王、祖父は東山(ひがしやま)天皇、甥に光格(こうかく)天皇がいる。ちなみに、現在の天皇家は光格天皇の子孫である。

■10代将軍の御台所として皇族が嫁いできたわけ

徳川将軍家は3代将軍・家光以来、正室に京都の公家か皇族を迎えてきた。

家光の妹・東福門院和子(まさこ)が後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(皇后)として入内し、兄のために高貴な公家の娘を花嫁候補として物色。関白・鷹司(たかつかさ)信房(のぶふさ)の娘で、家光より2歳年上の孝子を選んだらしい。しかし、家光は男色にふけって女性には全く興味がなく、正室との仲は最悪だったといわれている。

ともあれ、家柄の釣り合いだけで、徳川将軍家と京都の公家・皇族との婚姻はその後慣例となった。家光の例を見るまでもなく、何せ政略結婚なので、相性がマッチするとは限らない。5代将軍・徳川綱吉も正室とは不仲で、正室に殺されたという伝説すらある。

ところが、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)は夫婦仲が円満だった。家宣は温厚で優秀、自己主張をしない秀才タイプで、公家文化に憧れがあった。一方、正室・天英院(てんえいいん)はなかなかの才女で、相性バッチリだったようだ。天英院の父・近衛(このえ)基煕(もとひろ)は家宣との関係から朝廷での地位が向上した。これが京都の公家側にとって好材料になったのだろう。嫁に出す娘に「お前が公方(くぼう)(将軍)サンと仲ようなったら、お父ちゃんの出世間違いなしやで」と言い含めたに違いない。以後、徳川将軍と正室の関係は正常化に向かっていく。家治の父・家重も正室とは仲が良かったと伝えられる。

■倫子の出産は将軍の正室としては155年ぶりの快挙

さて、ドラマ「大奥」の主人公・五十宮倫子は満16歳で結婚。18歳で長女を出産した(長女は翌年に早世)。22歳で夫が将軍に就任。その翌年、23歳で次女を出産した。将軍の正室が子どもを出産したのは2代将軍・秀忠以来、155年ぶりという快挙である。2人の子どもに恵まれたことが示す通り、夫の家治との夫婦仲が良かった。そして、わずか34歳で死去。

次女はまだ10歳、3年前に尾張徳川家の世子と婚約したばかり。幼い娘を残して死ぬ母親もかわいそうだが、残された娘も不憫(ふびん)である。しかし、その娘も2年後には早世してしまう。とにかく、将軍家の正室・側室、子女には寿命が短いケースが多く、調べるとポッコポッコ死んでいてもの悲しい。

倫子の子が2人とも女子だったので、家治の周囲は側室を強くプッシュしたようで、次女出産の14カ月後、側室・お知保の方に、待望の長男・竹千代(のちの徳川家基(いえもと))が生まれる。その2カ月後には、側室・お品の方に次男の貞次郎が生まれている。ちょっと勇み足じゃない?

「徳川家治像」18世紀
「徳川家治像」18世紀(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■後継者問題が発生し、徳川家御三卿から選ばれることに

ところが、家治はここでピタッと子作りをやめてしまう。まだ満26歳なのに……。そして、これが後に大きな禍根(かこん)を残した。次男・貞次郎は生後4カ月で早世。長男・竹千代はすくすくと成長し、徳川家基と名乗ったのだが、鷹狩りの帰りに急に体調不良を訴え、満16歳で急死(毒殺の噂(うわさ)が立った)。一転して将軍後継者が不在になってしまったのである。

家治は満43歳。家康だったら再び子作りに励むところだが、家治にその気力は無かったようで、養嗣子を迎えることになった。

家治には異母弟・徳川重好(しげよし)がいた。いわゆる御三卿(ごさんきょう)の一つ・清水徳川家の家祖である。ただし、満34歳にして子がなく、仮に養嗣子に迎えても再度養子を迎えなければならないので、候補から除外されたらしい。御三卿は他に田安徳川家、一橋徳川家があった。

■「徳川御三家」と吉宗の子を祖とする「御三卿」の違い

ここまでスラスラと述べてきているが、「御三卿って何だっけ?」とおっしゃる読者も多いと思う。

徳川「御三家」はわりとよく知られている。家康の9男・義直、10男・頼宣(よりのぶ)、11男・頼房(よりふさ)を家祖とする尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家のことである。2代将軍・秀忠(ひでただ)の子孫が途絶えたとき、紀伊徳川家から8代将軍・吉宗が迎えられた。つまり、将軍家のスペアというわけだ。

そして、吉宗は、家康と同様に子どもや孫を家祖とする分家(清水・田安・一橋)を創設した。それが御三卿である。3家あって、その当主が民部卿(みんぶきょう)とか刑部卿(ぎょうぶきょう)とかいう官職に任じられたので、御三卿と呼ばれたのだ。

江戸東京博物館で2010年に「徳川御三卿展」が開催されたとき、御三卿は「将軍の跡継ぎを輩出することを目的に創設」されたと説明されている。そういえば、中学か高校の日本史の授業で、吉宗が自分の子孫を将軍に就けるために御三卿を創設したという風に聞いた覚えはないだろうか。

たしかに、14代・家茂(いえもち)まで、8代・吉宗の子孫が将軍に就任しているのは、御三卿があったからに他ならない。水戸徳川家出身の15代・慶喜が、一橋家の養子になったことで将軍候補に躍り出たことも有名である。

【図表1】徳川御三卿の初代から二代

■御三卿はいつでも撤退できる新規事業部のような存在

しかし、それは結果論だと思う。将軍に次男以下の男子がいた場合、分家を立てて大名に取り立てることが一般的で、吉宗だけが特別だったわけではない。

たとえば、3代将軍・家光は、長男の家綱を後継者と位置付け、次男の徳川綱重(つなしげ)を甲府25万石、末男の徳川綱吉を館林25万石の藩主とした。ただ、家綱に子がなかったので、綱吉が将軍になり、館林藩は廃藩。綱吉の子も早世して、綱重の子・家宣が将軍になったため、甲府藩も廃藩となった。かれらの跡を継ぐ親族がいなかったからだ。御三卿がそれらと違ったのは、吉宗の子孫が子沢山だったので、将軍を輩出してもなお幕末(というか現在)まで存続したというだけに過ぎない。

ちなみに、徳川御三家も綱重・綱吉兄弟も親藩大名であるが、御三卿は大名ではない。将軍の親族という位置付けだった。家禄は10万石だが、特定の地域をまとめて与えられたわけではなく(たとえば、田安家の場合は武蔵・下総・甲斐・摂津など6カ国合計で10万石)、家臣は旗本の出向組だった。なんだか中途半端で、いつでも事業撤退(廃止)できるプロジェクトに見える。

■男子はやっかい者で、松平定信も田安家から養子に出された

当初、幕府は御三卿を「家」として存続させるつもりがなかったようだ。そのため、男子は厄介者で、なるべく他家の養子に押し付けようとした。

越前松平家が家格引き上げを狙って、吉宗の子(もしくは孫)を養子にしたいと願い出ると、一橋家の初代・宗尹(むねただ)の長男が養子に出されてしまう。通常、長男は跡継ぎ候補なので、他家の養子に出されることは珍しい。しかも、その長男が早世すると、3男を再び越前松平家の養子としている(次男は早世)。

結局、4男の一橋徳川治済(はるさだ)が家督を継ぎ、さらにその弟も福岡藩黒田家の養子に出されている。藩主・黒田継高(つぐたか)は男子が死去していたため、外孫(娘の子)を養子にすべく幕府に打診したが、幕府は一橋徳川家からの養子を強引に押し付けたのだという。

寛政の改革を実施した松平定信は、田安家の初代・宗武(むねたけ)の7男で、兄の田安徳川治察(はるあき)が病弱だったため、田安家としては次期当主の予備として残しておきたかったようなのだが、幕府が強硬に久松松平家の養子へ送り出したことは有名である。

東京都千代田区の皇居(旧江戸城)田安門
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に八代将軍吉宗の第二子宗武が一家を創立して御三卿・田安家を興した - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■11代将軍に選ばれたのは一橋家の家斉だった

家治の後継者問題が発生したとき、田安家はすでに治察が子どもがないまま死去してしまったので、開店休業状態だった(のち一橋家から養子を迎えて再興)。一方、松平定信には出番がなかった。どうも徳川家には、他家の養子に出された人物を後継者にしないという不文律があったようだ。

だから、家治が養嗣子を迎えるとしたら、一橋徳川家くらいしかアテがなかったのである。かくして、一橋徳川治済の長男・豊千代(のちの徳川家斉(いえなり))が家治の養嗣子に選ばれた。ここに至るまで、策士の治済が暗躍したという噂もある。

豊千代が家治の養子に出向く際、治済は「お前が将軍になれるのは、家治の子どもが少なかったからだ。お前はそうならないように子どもをいっぱい作れ」と言い含めたという。だからなのか、家斉は大奥で房事に明け暮れ55人もの子をなして、これまた後々まで禍根を残した。なんでもほどほどがちょうどいいということであろう。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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