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一夫多妻制だった日本で女性は何を考えていたのか…藤原道綱の母が「蜻蛉日記」に綴った恥も外聞もない愛憎

プレジデントオンライン / 2024年2月4日 14時15分

「藤原道綱の母」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

平安時代は一夫多妻制で、男性は何人もの女性と結婚していた。右大将道綱の母が書いた「蜻蛉日記」には、夫の浮気に嫉妬する女性の気持ちが余すところなく描かれているという。歴史小説家・永井路子さんの著書『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。

■謎に包まれた王朝三美人の一人

彼女の名前はわからない。

何年に生まれて何年に死んだかもわかっていない。言いつたえでは、王朝三美人の一人、ということになっているが、肖像画が残っているわけではない。

辛うじて、その子の名前をとって右大将道綱の母、とだけよばれている。はなはだ漠然とした存在だが、それでも、私たちが見すごすことができないのは、彼女が日本における「書きますわよマダム」の元祖であるからだ。

そしてそこには、恥も外聞もない、女の愛憎のすさまじさが、あますところなくえがかれているからである。

自分の私生活をバクロする――今でこそ珍しくもないことだが、それまで、そんなことをやった女性は一人もなかった。その意味で彼女は「勇気ある先駆者」といわなければなるまい。

■時の権力者がいかにヒドイ男かを書きまくった

彼女の書いたのは、ある男性との二十余年の交渉のいきさつである。しかもこの男性というのが、藤原兼家という当時の最高権力者だ。今ならさしずめ総理大臣――いや、彼は現代の総理クラスのミミッチイ小物ではない。なかなか豪快な、スケールの大きい、一代の王者である。

――王者と私の二十年!

これならゼッタイにマスコミは飛びつく。が、残念ながら、当時は新聞も週刊誌もなかったから彼女はいくら書いても、一円の原稿料もはいりはしなかった。

にもかかわらず、彼女は書いた。書いて書いて書きまくった。

なぜか? 書かずにはいられなかったからだ。一代の王者として、もてはやされるその男が彼女にとって、いかにヒドイ男であったかを、どうしても書かずにはいられなかったのだ。彼女は「蜻蛉日記」とよばれるその作品のはじめに、こう書いている。

「世の中で読まれている物語にはウソばかり書いてある。ホントの人生はそんなものじゃない。私はホントのことを書くのだ」

だから、ここに登場する兼家は、きれいごとの王朝貴族ではない。図々しくて、不誠実で、浮気で……。その私行はあますところなくあばかれている。

■悪筆でもラブレターを送り続けた兼家

「蜻蛉日記」を流れているのは、こうした「男」を見すえるすさまじいばかりの女の執念である。まず書き出しのあたりを読んでみよう。

二人の交渉は、兼家がラブレターをよこすところから始まる。当時彼はまだ役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司である。彼女の父はといえば、いわゆる受領(ずりょう)階級――中級官吏だから願ってもない縁談だった。まわりは大さわぎするが、それを彼女は、冷然と書いている。

「使ってある紙もたいしたこともないし、それに、あきれるほどの悪筆だった!」

これでは、未来の王者も全く形なしである。

稀代(きたい)の悪筆が彼女を幻滅させたともしらず、兼家はせっせとラブレターを送り続ける。このころのラブレターはみな和歌だ。

「藤原兼家」
「藤原兼家」(画像=菊池容斎作/Hannah/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■妻たちの中で一番愛されることが望み

――いかにあなたに恋いこがれているか。

というような当時の歌だが、それもあまりうまくはない。が、まわりにせっつかれて、彼女も返歌をせざるをえない。

――どうせ本気じゃないんでしょう?

という歌を書くのだが、これは当時としてはお定まりのコースである。男が好きだと言い、女がウソでしょうと応じる。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる、というのは当時の結婚の標準コースで、したがって彼女も、それほど兼家をきらっていたわけではない。

ついでにいうと、兼家との結婚は、たしかに良縁だが、決してシンデレラ的なものではなかった。大臣家のむすこと受領層の娘という結びつきは、よくあることで、げんに兼家は同じくらいの身分の藤原中正の娘、時姫とすでに結婚し、子供をもうけている。といっても時姫が正妻で彼女が二号だというわけではない。当時は一夫多妻は常識で、中でいちばん愛されること、それが女の望みだったのだ。

その意味で、彼女は一時期まさに勝利者だった。王朝三美人の一人と言われたくらいの美貌の持主だったらしいから、兼家は熱心に訪れた。そしてその熱意にほだされた形で彼女は彼に身をまかせる。一月のうち三十日――つまり毎晩わが家に来て欲しいなどと大それた望みを持つのもこのころだ。

■ほかの女に目移りした夫を和歌で糾弾

が、彼女を手に入れたとなると、少しずつ兼家の足が遠のきはじめる。やがて彼女はみごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は、夫がほかの女にあてた恋文を発見してしまうのだ。

――まあ、なんてこと!

勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれはじめるのだ。

言いわけをして出ていってしまった夫の車のあとをつけさせるようなはしたないことも、あえてやっている。今ならさしずめ、私立探偵を頼むといったところである。

相手はじきに知れた。町の小路に住む、さる皇子のおとしだねとかいう女である。そこまでわかればわかったで、なおも胸の中は煮えくりかえる。その後兼家がたずねて来て、しきりに戸をたたいても、あけようともしない。仕方なしに立ち去った彼に、翌日、いや味たらたらの歌を送りつける。

嘆きつつひとり寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る

あなたが来ないのを嘆きながらひとり寝る夜は、どんなに夜あけが来るのがおそいことか、ちっとはおわかりですか。夜の明けるのと門をあけるのをかけたこの歌は、百人一首にもはいっている有名な歌である。

■子供を亡くし、捨てられた女に「胸がせいせいする」

その後も兼家と顔をあわせれば、わざと冷たくしたり、頼まれた縫いものを断わってしまったり、彼女の気持ちはこじれるばかりだ。が、兼家はもともと移り気だったらしく、町の小路の女との間に子供までつくったが、その子は早世してしまった。女もやがて捨てられてしまう。それを聞いて彼女は書いている。

「いつか私と同じ苦しみを味わわせてやりたいと思っていたら子供までなくして、私以上にひどいことになった。きっと嘆いているだろうと思うと、胸がせいせいする」

とは鬼女さながら、すさまじいかぎりである。

が、町の小路の女との間がさめたといっても、兼家の浮気はおさまったわけではない。時折りは思いがけなくやって来はするものの、次々と女のうわさが伝わって来て、彼女の心は休まるひまがない。

■女の屈折を余すところなく描いた「蜻蛉日記」

兼家の浮気のうわさ――それはとりもなおさず彼女の敗北を意味するのだ。美貌と才気、この二つをもってしても、彼をひきとめ得ない敗北感、それをひしひしと味わうのは、彼の車がしらんふりをして彼女の門前を通りすぎるときだ。「蜻蛉日記」には、このへんの女の心の屈折を描いて余すところがない。

その点、彼女の作家的な力量は大したものだけれども、私は人間としてはどうも彼女は好きになれない。あまりのプライドの高さとエゴイズムがカチンと来るのだ。

たとえば兼家の第一夫人、時姫に対する態度がそうだ。時姫に対しては彼女は嫉妬していないが、これはむしろ、時姫にわざと弱味をみせまいとする彼女一流のプライドのなせるわざかもしれない。

それかあらぬか、時姫の所へも兼家がよりつかなくなったと聞いて、ここぞとばかり同情の歌を送ったりするのだが、時姫だって、兼家が彼女に惚れはじめたころは、きっと嫉妬にさいなまれていたに違いないのだから、そこへ、同病相あわれむ歌を送るなどは、ある意味では意地悪でもある。時姫もそれを感づいていたとみえ、このときは、

「大きなお世話よ」

と、しっぺがえしをくわせている。

■北条政子の嫉妬は陽性だが、道綱の母は…

どういうものか私は「蜻蛉日記」を読んでいると、だんだん兼家が気の毒になってくる(少し男に甘いのだろうか)。いいわけを言ったり、ごきげんをとったり、汗だくの奮戦だ。あるときはすねて山ごもりしてしまった彼女に手をやいて、とうとうその寺にのりこんで、あたりのものをばたばた片づけ、引っさらうようにして家に連れ帰る。

――全く手のやける女だ。

内心そう思いながら、陽気に冗談などいって連れ出すあたり、まことにご苦労さまだ。案外、彼女も、ひねくれながらもそうした兼家に甘ったれているのかもしれない。

が、甘ったれるにしては彼女の嫉妬はいささか陰性すぎる。先に書いた北条政子――逆上のあまり二号のかくれがを打ちこわしてしまった彼女の嫉妬は、いかにもいなか者らしく荒っぽいが、陽性で、多少ユーモラスでさえある。が、「蜻蛉日記」の作者の場合は、陰湿ないやがらせの色が濃い。

■死にもしないのに「遺書」を書く陰湿さ

たとえば「嘆きつつ……」の歌の事件のときだって、わざと門をあけずにいれば、男はうんざりして別の恋人、町の小路の女のところへいってしまうのはあきらかだ。意地を張ったおかげで、みすみす彼女はライバルに夫を渡してしまうのだ。

永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)
永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)

あるときは、死にもしないくせに「遺書」を書いたりしている。病気になったふりをしたり、死ぬふりをするというのは、男から捨てられかけて、ノイローゼ気味になった女のよく使う手である。中にはそれが昂じてほんとに病気になってしまう人もいるが、遺書を書くというくらい男をうんざりさせるものはない。これではますます相手がうとましくなってくる。

その意味では「蜻蛉日記」は王朝版「夫にきらわれ方教えます」である。そう思ってみると現代でもすぐに役立つ人生の書ともいえそうだ。

もっとも、こんなことを書けば、あの世の彼女は言うかもしれない。

「わかっていても、やめられないのが女のヤキモチなのよ」

それはたしかにそうなのだが……。

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永井 路子(ながい・みちこ)
歴史小説家
1925年、東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、小学館勤務を経て文筆業に入る。1964年『炎環』で直木賞、82年『氷輪』で女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』ほか一連の歴史小説で吉川英治文学賞、2009年『岩倉具視』で毎日芸術賞を受賞。著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』『山霧』『元就、そして女たち』『源頼朝の世界』『王者の妻』などのほか、『永井路子歴史小説全集』(全17巻)がある。

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(歴史小説家 永井 路子)

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