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なぜ秋の園遊会では「ジンギスカン鍋」が恒例メニューなのか…皇室と羊料理の知られざる関係

プレジデントオンライン / 2024年1月29日 15時15分

西のホルモン、東のジンギスカン(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/GI15702993

天皇・皇后が催す秋の園遊会では、「ジンギスカン鍋」が恒例メニューとなっている。ノンフィクション作家の中原一歩さんは「総理大臣や各国大使、各界の著名人などは、絢爛豪華な晴れ着をまとったまま、羊の焼肉の煙に包まれる。そこには皇室と羊料理の歴史が関係している」という――。

※本稿は、中原一歩『寄せ場のグルメ』(潮出版社)の一部を再編集したものです。

■秋の園遊会ではジンギスカン鍋が振る舞われる

園遊会とは春と秋の年2回。東京・赤坂の赤坂御苑で催される天皇・皇后主催の特別な「宴」である。

招待されるのは総理大臣や日本に駐在する各国大使、各界で活躍する著名人など「選ばれし者」だ。そこで振る舞われる料理の数々は、天皇家の料理番と名高い宮内庁大膳課が取り仕切る。

ある日、この園遊会に出席したという知人から、こんな話を聞いたのだった。

「園遊会というから寿司や天ぷらなど和食が出てくると思ったんですけど、秋の園遊会では毎年、ジンギスカンが振る舞われるんですよ。使用されるのは鍋の中央部分が兜のように盛り上がった独特の形をしたジンギスカン鍋。大膳課の料理人がその場で焼いたものを小皿で提供するんです。出席者は絢爛(けんらん)豪華な晴れ着をまとったまま、羊の焼肉の煙に包まれるんです。なんだか笑えちゃって」

■西のホルモン、東のジンギスカン

私はジンギスカンと聞いてハッとした。

天皇家と寄せ場の関係はともかく、「労働者の食いもん」という文脈では、ジンギスカンと寄せ場は、ひとつの線でつながる。

「西のホルモン、東のジンギスカン」。私は勝手にそう呼んでいる。

そもそも、干支のひとつとして知られる羊(未)は、日本最古の歴史書『古事記』に登場する。

そう書くと、日本人にとって羊は歴史的にも馴染み深い動物のように思えるが、専門家に言わせれば干支に描かれた羊は実は「山羊(やぎ)」なのだ。

羊と山羊は生物学上同じ種属で、そもそも見分けがつきにくい。干支は陰陽五行説に由来し、中国から伝来したものだが、中国で描かれている羊がそもそも山羊。

つまり、中国人も、日本人も羊と山羊を勘違いしていたことになる。

■「緬羊百万頭計画」という国策

となると、日本人と羊の本格的な邂逅(かいこう)がいつなのか気になるところだ。

調べてみると、それは今からおよそ150年前。黒船来航によって江戸幕府が守り抜いてきた鎖国政策に終止符が打たれ、開国によって西洋文化が一気に国内に流入した明治初期にまでさかのぼる。

米国から初めて日本に羊が持ち込まれたのが1872年。当初の目的は食肉ではなく羊毛の原材料だった。

転機となったのは1918年。天皇を国家元首とする大日本帝国が主導し、「緬羊(めんよう)百万頭計画」という国策が発布する。

緬羊とは牧畜された羊の別称。当時、中国東北部(満州)の極東と呼ばれる極寒地域に進出していた日本にとって、麻よりも防寒に優れた羊毛は軍隊、警察、鉄道員の制服の素材として必需品だった。

しかも、日露戦争後、日本は国際連盟を脱退。米英という主要な羊毛の輸入国を敵に回す結果となった日本にとって、国産羊毛の供給は急務だったのだ。

■大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた

こうして羊の生育に適した雨の少ない全国の高地で、羊の牧畜が開始される。

その後、日本は日清、日露戦争を経て、太平洋戦争へと突入。

結論から言うと時の政府が目指した羊毛の増産計画は、終戦の年にあたる1945年の時点で、わずか18万頭しか達成できず、目標の100万頭には遠くおよぶことはなかった。

日本における羊の飼育頭数が94万頭まで激増したのは戦後の1957年。

しかし、その数年後に羊毛の輸入自由化が決定されると日本の牧羊は衰退の一途をたどる。

実はこの「緬羊百万頭計画」を指揮した人物こそ、時の内務卿だったかの大久保利通だ。

大久保は、羊毛の供給と並行して、と畜された羊の食べ方の普及に努めた。

大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた
写真=iStock.com/tracielouise
大久保利通が羊の食べ方の普及に努めた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/tracielouise

■「硬くて、臭い」というトラウマ

羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と早期の飼育頭数の倍増を画策したのだ。

とくに食料に飢え、貧しかった農村部で羊肉は貴重なタンパク源として重宝された。

しかし、文明開化を契機に日本人が牛や豚などの食肉文化に触れてからわずか数十年。当時の人々にとって、食用ではない老廃羊の放つ特有の臭いと噛んでも噛みきれない硬い肉質は、受け入れ難いものだったに違いない。

戦争を知る世代のマトン(生後1年以上の羊肉)に対する「硬くて、臭い」というトラウマは、こうした戦中、戦後の記憶に由来する。

■満洲の料理にヒントを得た「成吉思汗(ジンギスカン)」

そんなトラウマを克服しようと、誰ともなく羊肉をニンニクや唐辛子の入った醤油ベースのタレに漬け込んで焼いて食べる知恵が生み出される。

「中国東北部に展開していた帝国陸軍(関東軍)が雇った中国人コックが日本に伝えた」
「現地に駐在していた日本人が、中国ではポピュラーな醤油ダレに漬け込んだ羊の焼肉・烤羊肉のレシピを教わり日本で普及した」

など、その食べ方のルーツには諸説あるが、いずれも大陸の羊料理にヒントを得たのは間違いないようだ。

時を同じくして、その食べ方が「成吉思汗(ジンギスカン)」と呼ばれるようになる。

満洲の料理にヒントを得た「成吉思汗(ジンギスカン)」
写真=iStock.com/okimo
満洲の料理にヒントを得た「成吉思汗(ジンギスカン)」(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/okimo

こうした緬羊をめぐる歴史の中で、主に東日本の各地に、羊肉を食べる文化が、まるで飛び石のように残る。

そして、その多くが林業、炭鉱、ダム建設など、山で働く労働者の貴重なタンパク源だった。これが寄せ場飯としてのジンギスカンの歴史だ。

■成田空港の近くにある「ジンギスカンの名店」

その店は成田空港近くの町道の脇に、看板も暖簾もあげずに、ひっそりと佇(たたず)んでいた。

私がはるばる車を飛ばして目指したのは、この地にある「元祖ジンギスカン」を謳(うた)う「緬羊会館」という名店だった(※)。

※現在は閉店

その店は成田空港近くの町道の脇にひっそりと佇んでいた
写真=iStock.com/kawamura_lucy
その店は成田空港近くの町道の脇にひっそりと佇んでいた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/kawamura_lucy

「成田の海の家」とも呼ばれていて、年季の入った引き戸を開けると、そこに広がるのは砂場だった。

そして、無造作にジンギスカン鍋が設置されたテーブルが5つほど置かれている。

初めての人はギョッとするかもしれない。

■「ジンギスカン発祥の地」は三里塚

台所で肉を切りながら、こっちを睨むように凝視するオヤジがいた。店を切り盛りする木村邦昭さん(79)だ。

ただお世辞にも、愛想がいいとは言えない。

頑固だが、ジンギスカンには人一倍、愛情がある。

「初めての人はびっくりするんだよ。砂の上でジンギスカンやるのって。けど、羊の脂が床に飛んでごらんよ。滑って危ないでしょ。砂だったら滑らないし、掃除をする手間も省ける。理にかなっているんですよ」

木村さんは、三里塚はジンギスカン発祥の地と言って譲らない。

実は、1875年、ここ成田市三里塚は、日本で初めて羊毛の自給自足を目的とした「下総牧羊場」が開設された地なのだ。

■「御料牧場」で羊の飼育を始めた

その後、1888年に同牧場は「宮内省下総御料(しもふさごりょう)牧場」となり、1969年に栃木県那須へと移転するまでの間、天皇家の台所を支える食の要衝(ようしょう)になる。

当時、この牧場では羊以外にも、馬、乳牛、鶏、豚などが飼育されていた。

こうして、三里塚は天皇家と切っても切れない縁で結ばれることになるのだ。

宮内庁が発行した『下総御料牧場史』には、こんな記録が残されている。

「1875年、ヨーロッパの王族専用牧場を模して、現在の千葉県成田市に開設した『宮内省下総御料牧場』で、皇室が着用する洋服の原材料となる羊毛を自給する目的で羊の飼育を始めた」(要約)

■ジンギスカンは宗教上の制約を受けにくい

ジンギスカンに限らず、宮中で初めて羊肉が供された月日は分からない。

ただ諸外国では羊肉を食べる国が多く、宗教上の制約を受けにくいことから、海外の要人を招いた晩餐会などで早くから羊料理が供されていたことは間違いない。

ちなみに園遊会でジンギスカンが振る舞われたのは、戦後初めて園遊会が開催された1953年。

現在、成田市にある三里塚御料牧場記念館には、御料牧場に行幸啓された昭和天皇・皇后の写真と共に、日本に駐在する各国の大使などを相手に、着物姿に襷(たすき)掛けの女性がジンギスカンを振る舞っている写真が展示されている。

当時は現在のようなジンギスカン鍋はなく、牛肉のステーキ同様、薄手の鉄板の上で羊肉を焼いて振る舞っていた。

こうして、園遊会では今もジンギスカンが振る舞われるということだ。

秋の園遊会に出席された両陛下(2023年11月2日)
写真=AFP/時事通信フォト
秋の園遊会に出席された両陛下(2023年11月2日) - 写真=AFP/時事通信フォト

■「御料牧場のジンギスカン」が三里塚名物に

緬羊会館のルーツも御料牧場の歴史と深い関わりがある。

終戦後、この地域の人々は、御料牧場から払い下げを受けた羊を飼育し、刈り取った羊毛を東京の製糸会社に納め、毛糸やホームスパン(羊毛の生地)を交換するなどして、家計を支えたという。

刈り取った羊毛を東京の製糸会社に納め、家計を支えた
写真=iStock.com/Serg_Velusceac
刈り取った羊毛を東京の製糸会社に納め、家計を支えた(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Serg_Velusceac

1954年、羊を飼育する農家が集まって遠山緬羊協会を発足させた。遠山とは三里塚にあった村の名称だ。

この遠山緬羊協会が目をつけたのが、御料牧場で行われていた園遊会で出されるジンギスカンだった。

そこで同協会がジンギスカン料理を提供するために建設したのが「緬羊会館」だった。

■三里塚街道は「ジンギスカン街道」と呼ばれた

成田市歴史郷土室の資料にはこう記されている。

「建物の建設は一部の現金出資者を除き、大部分が会員の勤労奉仕でした。奉仕1日=300円〜500円=1株と換算して出資金を集めました。焼肉料理がまだ珍しかった時代でもあり、ジンギスカン料理はあっという間に広まり、三里塚名物となりました」

1960年代以降、三里塚街道には十数軒のジンギスカン料理の看板を掲げる店や旅館があり、ジンギスカン街道と呼ばれたそうだ。

■「ジンギスカン発祥の地」には諸説ある

ここで触れておかなければならないのが、ジンギスカン発祥の地は諸説あるという点だ。

通常、ジンギスカンといえば真っ先に思い浮かべるのは北海道ではないだろうか。

確かに北海道では明治時代から緬羊の飼育が行われていた。「緬羊百万頭計画」の中心となったのも、広大な開拓地を有していた北海道だった。

一方の成田は御料牧場があったことから、明治時代のかなり早い時期に羊肉を食べる習慣があったことはほぼ間違いない。

おそらく、この時代に同時多発的に日本人は羊肉を食べ始めたのだろう。

ただし、前出した通り、食肉文化に馴染みが薄かった日本人にとって、羊肉が食文化として定着するまでは時間を必要とした。

ちなみに、ジンギスカンが北海道のソウルフードとして定着したのは、昭和40年代以降だ。

■御料牧場移転と空港闘争で一変

一時は「ジンギスカン街道」の異名をとるほど栄えた三里塚だったが、高度経済成長期になると様相が一変する。

中原一歩『寄せ場のグルメ』(潮出版社)
中原一歩『寄せ場のグルメ』(潮出版社)

1969年、町のシンボルだった御料牧場が、新東京国際空港(成田空港)建設のために移転することになるのだ。

それに伴い、三里塚は空港建設反対を掲げる住民と過激派のデモ隊、それを阻止しようとする警察、機動隊が対峙(たいじ)する最前線と化す。

あの有名な「三里塚闘争」の始まりである。

そして、日本の近代化と国際化を象徴する闘争の波は、あの木村さんが暖簾を守る緬羊会館にも押し寄せてくるのだった。

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中原 一歩(なかはら・いっぽ)
ノンフィクション作家
1977年佐賀県生まれ。青春時代、博多の屋台で働きながら執筆活動を開始。人物ノンフィクションや食をテーマに取材を続ける。著書に『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』(文藝春秋)『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)『マグロの最高峰』(NHK出版新書)『「㐂寿司」のすべて。――本当の江戸前鮨を食べたことがありますか?』(プレジデント社)など。

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(ノンフィクション作家 中原 一歩)

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