なぜナイキ1足が「20万円超のプレ値」になったのか…「みんなと同じだけど違う」という矛盾したニーズ
プレジデントオンライン / 2024年1月27日 14時15分
※本稿は、本明秀文『スニーカー学 atmos創設者が振り返るシーンの栄枯盛衰』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■なぜスニーカーが投資の対象に変化したのか
スニーカーを教材に、経済の仕組みとお金の稼ぎ方について解説していきます。それはバブルの作り方と崩壊のプロセスを理解することでもあります。
はたして、スニーカーブームとは一体なんだったのか。
この一連の狂騒を通じて見えてくるのは、次に儲かる転売商材はなにかという身近なトピックから、スニーカーに限らずあらゆるビジネスに共通する教訓まで、幅広い要素になるはずです。
なぜなら、スニーカーはとても特別な商材だからです。
本来、スニーカーは履けば1年で靴底に穴が空く気軽な消耗品であり、日常生活に欠かせない生活必需品だったはずです。それがやがて個性を主張するためのファッションアイテムとして扱われるようになり、高級車や高級時計のようなステイタスシンボルや、株式や不動産と同じような投資財として扱われるまでに至りました。
言ってみれば、この世に流通する商品のあらゆる要素を兼ね備えているのが、スニーカーというアイテムなのです。
つまり、スニーカーを紐解けば経済がわかる。それも国際経済という大きなトレンドが理解できると言っても大袈裟ではないでしょう。
■ナイキ一人勝ちになったワケ
2014年から巻き起こったハイプスニーカーブームとは、つまり「ナイキ」ブームとイコールでもあります。なぜ、これほどまで「ナイキ」のひとり勝ち状態になったのか。
先ほどの項目でエアマックス95ブームについて説明しましたが、さらに時代を遡って同社の歴史を振り返りつつ、国際政治の流れと絡めながら説明していきましょう。
「ナイキ」が創業したのは1964年のこと。当初は「オニツカタイガー」(現・アシックス)のランニングシューズをアメリカで販売する代理店として創業しました。
71年からは「オニツカタイガー」から技術者を引き抜いて自社ブランドのランニングシューズの製造を開始していたものの、当時の「ナイキ」は何度もメインバンクから融資の継続を拒否されるほど、吹けば飛ぶような規模の小さな会社でした。
ただし「ナイキ」は当時から広告プロモーションが極めて上手でした。そのマーケティングへの熱意が描かれているのが、ちょうど2023年に公開された映画『AIR/エア』です。この映画はバスケットボールシューズの市場で苦戦を続けている「ナイキ」が期待の新人だったマイケル・ジョーダンと契約し、エアジョーダンが誕生するまでのストーリーを史実をもとに描いたもの。
■アディダスが完敗した経緯
しかし、当時のジョーダンは生粋の「アディダス」ファン。80年代の人気ヒップホップグループのRUN-DMCが「アディダス」のスーパースターをシューレースを通さずに履いてメディアに登場していたように、当時は「アディダス」こそが世界一のスニーカーブランドとして認知されていたのです。
さて、そこからどうやってジョーダンを説得したかは実際に映画を観ていただくとして、重要なのは、エアジョーダンの登場をきっかけに「ナイキ」のスニーカーがファッションアイテムとして人気を獲得するようになったこと。
その人気ぶりは凄まじく、アメリカではエアジョーダン5の発売時には殺人事件まで起こりました。
そして現在の「ナイキ」のプロモーション戦略にも通底する重要な点が、ブレイク直前のカリスマを、破格の待遇でプロモーションに起用することが挙げられます。
当時のNBAはどん底だった70年代からマジック・ジョンソンが登場し、シャキール・オニールやマイケル・ジョーダンなどのスター選手がしのぎを削るNBAブームが起きはじめていた頃。
そのブームはアメリカ国内に留まらず日本でもNBA人気の高まりとともに90年から『週刊少年ジャンプ』(集英社)で『SLAM DUNK』が連載を開始し、一気にバスケットボール人口が増えたことを記憶している人も多いでしょう。
■地盤である欧州の経済状況
そんなNBAはアメリカのプロスポーツやエンターテインメント市場の成熟ぶりがうかがえる経済的な豊かさや自由の象徴でもあり、デニス・ロッドマンをはじめとしたファッションリーダーを生んできた場所でもあります。
“エア”のふたつ名の通りに高く跳び上がって飛ぶようにダンクを決めるマイケル・ジョーダンの姿に、当時の若者たちはアメリカの力強さを投影して試合を観ていたのです。
それに対し、エアジョーダンの登場以降の「アディダス」は苦戦を強いられます。というのも当時の欧州は経済面でも振るわず、テロも頻発していました。
英国ではサッチャー政権下による賃金の低下や失業率の上昇が起こり、映画『トレインスポッティング』で描かれているように若者たちは未来に希望を失っていたからです。(ちなみに『トレインスポッティング』の主人公にして薬物中毒者のレントンが劇中で履いていたのは「アディダス」のサンバでした)
さらに「アディダス」や「プーマ」の母国であるドイツでは、89年にベルリンの壁が崩壊。ソ連の崩壊によって冷戦が終わると、一気に世界中に自由主義の波が押し寄せ、アメリカ一強の時代が訪れます。そこにアップル社やマイクロソフト社がシリコンバレーから頭角を現すと「アメリカ製こそが最先端である」と、みなが考えるようになったのです。
「ナイキ」がスニーカー市場のシェアの大半を獲得できたのは、冷戦終結によって国際政治と経済のバランスが大きく変わったことと無関係ではありません。
■レアスニーカーのブームが起きたワケ
第二次スニーカーブームがなぜ起こったのかを理解するためには、90年代以降の若者のファッションに対する欲求を紐解いていく必要があります。
ファッションの醍醐味(だいごみ)は自分の個性を出すことにありますが、それ以上にコミュニティに馴染み、奇異な目で見られないために皆と同じ服装をする、というネガティブな動機もあります。
特に渋カジ以降は他人と差別化したいけれど、皆と同じ服装をしないと不安という、矛盾したニーズがどんどんと表面化していきました。
そのニーズにピッタリとハマったのが、いわゆるレア物と言われるアイテムです。たとえば渋カジの若者は生産量が少なく入手困難な「バンソン」や「ゴローズ」といったアイテムをこぞって身につけましたし、ヴィンテージジーンズが盛り上がったのもこの頃です。
同様に、裏原ブームの頃にヒットしたエアマックス95も入手の難しさが需要に火をつけました。
また、現在はファッションビジネスで当たり前になったコラボレーションという習慣も裏原の初期に誕生したことは説明した通りですが、いつしかコラボ品も他人と差をつけるための付加価値がついたアイテムとして受け入れられるようになりました。
■周りと同じがいいけれど、違いを出したい
この「みんなと同じがいいけれど、違いを出したい」という欲求が非常に強いことは、第二次スニーカーブームに沸いた人たちや、同時期に発生したノームコアブームの着こなしを見てみれば一目瞭然です。
ノームコアの人たちが匿名性の高い無地の服を着るのと同じく、スニーカーヘッズはまるで制服のように「シュプリーム」と「ザ・ノース・フェイス」に身を包み、足元は「ナイキ」のスニーカーを身につけています。そのままでは個性を表現する余地も無ければ、他人から羨望(せんぼう)されることも無いでしょう。
しかし、そこにレアで入手困難なスニーカーを履くことで、初めてみんなと同じ服装のまま、周りから羨ましがられるコーディネートが完成する、というわけです。
■ダンクが流行るとブームは終わる
エアマックス95が大ブームになった後、揺り戻しのように97年頃からスニーカー人気が急落しはじめるのですが、業界全体が低迷したわけではありませんでした。
エアマックス95に代わって人気を博したのが、バスケットシューズであるダンクです。当時『Boon』などの雑誌でヴィンテージデニムとの相性が良いと紹介され、特に紺黄のミシガンカラーは人気が高く、85年のデッドストックが20万円を超える高値で販売されていました。
エアマックスを筆頭とするハイテクスニーカーが飽きられていくと、一部のイケてるスケーターたちがフラットソールでレザーアッパーのダンクを丈夫でスケートしやすいスニーカーとして履きはじめました。
時を同じくしてナイキジャパンに所属していた酒井くんやマーカスといった人材がCO.JP(コンセプトジャパン)と言われる日本企画のラインを立ち上げ、99年にオリジナルカラーのミシガンカラーが復刻。その後も2000年、2002年と立て続けにリリースされることに。表ダンクや裏ダンクといったアイテムをはじめ一気に14カラーほどが登場することになりました。
当時、CO.JPラインのダンクが人気を博した理由が、日本を訪れた外国人が現地で売っていないカラーのダンクを見つけて「日本には面白いダンクが売っている」と欲しがるようになり、海外での盛り上がりが逆輸入される形で日本でも注目を浴びるようになったこと。
■ブームの終焉と復活
その流れは今のインバウンドとも通底するものですし、裏原文化やコレクター文化といった日本ならではの特徴が、スニーカー全体のカルチャーに影響を与えた例と言えるでしょう。
しかし、結局その人気は長続きしませんでした。というのもカップソールのダンクはエアマックス95などと比べると、デイリーに履くには負担を感じる人が多かったように思います。
その後はスニーカー全体の人気も低迷することになり、当時何百足もダンクをコレクションしていた人たちの多くが、08年頃にダンクの価値が急落したタイミングで手放したり履き潰したりしてしまった。その他のコレクターにとっても同様だったようで、いわば1足1万円以下で手に入る大衆スニーカーとして、その時に多くのダンクが履き潰されてしまったようです。
そのダンクがふたたび脚光を浴びるのは、2018年のこと。トラヴィス・スコットやヴァージル・アブローといったファッションリーダーたちが急にダンクを履きはじめて注目を集め、2021年にはふたたびミシガンカラーが復刻。ダンクがコレクタブルなスニーカーという地位に返り咲くことになりました。もしダンクの人気が急落した際にコレクションを手放さず今でも持ち続けていたら、ひと財産になったでしょう。
■20年周期でトレンドは繰り返す
ファッション業界のトレンドは20年周期で繰り返すと言われていますが、同様にダンクブームもほぼ20年を境に繰り返していることが分かります。
ファッションの周期が20年である理由として、オジさん世代が若者の頃に流行ったスニーカーをある程度の生活の余裕ができて思い出すタイミングがちょうど20年ぐらい経った頃という側面と、オジさん世代にとって懐かしのアイテムでも若者にとって新鮮に映るという側面が絡み合っていることが挙げられると思います。
しかし80年代、00年代とダンクが流行った後にはスニーカーにとって冬の時代がやって来ています。そのため僕は常々「ダンクが流行るとスニーカーブームは去る」と主張してきましたが、実際に2023年現在ではあれほど人気を集めていたパンダダンクですら店頭で余ってしまうような状況です。
危惧していた通り、ダンクの流行はスニーカーブームが去る予兆であったように思います。
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アトモス創業者
1968年、香川県生まれ。日本未発売のレアスニーカーを販売し、原宿を代表するスニーカーショップとなった「チャプター」、ナイキなどとの大型コラボを展開する世界的なスニーカーショップ「atmos(アトモス)」を経営する、株式会社テクストトレーディングカンパニーの創業者。2021年、米スニーカー小売最大手のフットロッカー社に、3億6千万ドル(約400億円)で会社を売却。現在はフットロッカーアトモスジャパン合同会社のCEO兼チーフクリエイティブオフィサーとして、引き続きアトモスなどの経営を行う。
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(アトモス創業者 本明 秀文)
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