「平安のF4」から紫式部まで貴族が「藤原だらけ」なのはなぜか…系図研究者が解説する藤原家の基礎知識
プレジデントオンライン / 2024年1月28日 6時15分
■紫式部も道長も、道長のセレブ仲間の貴公子もみんな藤原氏
2024年の大河ドラマ「光る君へ」が始まった。「源氏物語」の作者・紫式部(吉高由里子)を主人公に据え、後に彼女を娘の家庭教師(女房)として雇い、摂政として平安時代で最も権力を握ったといわれている藤原道長(柄本佑)らとの人間関係を絡めたドラマになるという。
紫式部(ドラマではまひろ)の父は、藤原為時(ためとき)(岸谷五朗)。そう、この父子も藤原一族なのだ。
でも、ドラマでは、藤原為時と藤原兼家(段田安則)の対面で、兼家の方が雇い主で明らかに格上。「一族」という感じが全くなかった。そこで、系図をひも解いてみると……藤原兼家は、藤原為時の曾祖父の兄の高孫(孫の孫)にあたる。他の登場人物――たとえば、ロバートの秋山竜次が演じる藤原実資(さねすけ)でも道長の又従兄弟(またいとこ)だから、為時はかなり遠縁。現代社会なら、ほぼ他人じゃん。まぁ、将来の夫・藤原宣孝(のぶたか)(佐々木蔵之介)も結構遠縁なのに、「為時の親戚」と紹介されているから、当時の感覚ではギリギリ親族なのだと理解しておこう(【図表1】参照)。
第3話時点で、道長は右大臣・兼家の正妻の息子。藤原公任(きんとう)(町田啓太)は関白の嫡男で、道長の祖父の兄の孫。藤原斉信(ただのぶ)(金田哲)は大納言の息子で、道長にとっては従兄弟に当たる。そして、字が美しく三蹟の一人に数えられる藤原行成(ゆきなり)(渡辺大知)は道長の伯父の孫だ。「F4」として出てくる若者たちはみんな藤原一族の中でもトップレベルに身分が高い。
■平安時代に栄華の頂点を極めた藤原氏は誰が始まりか
では、そもそも藤原氏とは何者で、なぜ朝廷で比類なき権勢をふるって来られたのか。みなさん中学高校の日本史の授業で習ったとは思うのだが、軽~くおさらいしておこう。
藤原家の祖・藤原鎌足(かまたり)は、旧姓を中臣(なかとみ)といって、645年6月、乙巳(いつし)の変で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)とともに蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち果たした。鎌足の死に臨んで、天智天皇から藤原姓を賜り、子孫は藤原を名乗った。
■藤原不比等の4人の息子から藤原氏は4つに分かれていった
その子・藤原不比等(ふひと)は大宝律令の制定や「日本書紀」の編纂(へんさん)に関わったという。後述するように、娘を天皇の后として藤原家繁栄の基礎を固めた。また、4人の男子は俗に「藤原四兄弟」と呼ばれ、政敵・長屋王(ながやおう)を失脚させたのを皮切りに、かれらの子孫が政変に次ぐ政変で政敵を倒して藤原氏ばかりが権勢を握り、第二段階として兄弟・従兄弟で政争を繰り返した。「光る君へ」はこの第二段階の頃の話である。
ちなみに、「藤原四兄弟」の末裔(まつえい)は、長男・藤原武智麻呂(むちまろ)の子孫が南家(なんけ)と称され、以下、藤原房前(ふささき)の北家(ほっけ)、藤原宇合(うまかい)の式家(しきけ)、藤原麻呂(まろ)の京家(きょうけ)と呼ばれる。当初は式家が勢力を誇っていたが、房前の高孫(孫の孫)の藤原良房(よしふさ)が摂政(せっしょう)に就任して以来、摂政・関白を世襲し、北家の子孫――中でも摂関家――が隆盛を極めた。南家の末裔が公家・武家でも少なからず存在するが、式家・京家の子孫を称する家系はほとんど存在しない。
■娘を天皇の后として宮廷に送り込み、閨閥により特別な家系へ
藤原氏が摂政・関白に就任する大前提として、娘を天皇の后(きさき)に送り出し、次期天皇の外戚(がいせき)(母方の親族)となることがあげられる。【図表2】
不比等の娘・宮子(みやこ)が第42代の文武(もんむ)天皇、その異母妹の光明子(こうみょうし)が第45代の聖武(しょうむ)天皇の后になっている。古代天皇家は母親の出自を重視していたという。蘇我家没落後、しばらく皇族の娘を后に迎えていたが、ここにも少子化の波が訪れ、代わりに藤原氏から后を迎えることになったようだ。
逆に天皇家から藤原家に嫁を出す例も現れた。第52代の嵯峨天皇は子女が多く、子どもを1軍と2軍に分けて後者を臣籍降下させた。そのうちの一人・源潔姫(みなもとのきよひめ)を藤原良房(よしふさ)に嫁がせた。当時、皇族の女性を臣下に嫁がせることは禁じられていたが、臣籍降下させた娘なので抵触しないという体(てい)を取った。
それまで皇族以外に就任事例がなかった摂政に、良房が臣下としてはじめて選ばれた背景には、藤原氏を特別な家系とする仕掛けが施されていたのだ。
系図を見てもらえるとわかるが。この時代はまだ、みんな「藤原」姓を名乗っている。平安末期もしくは鎌倉時代だと苗字が発生して、近衛(このえ)氏とか西園寺(さいおんじ)氏と呼ばれるようになる。
■家康の姓は「源」で苗字が「徳川」、藤原摂関家は「近衛」に
現在では姓と苗字は同義語であるが、明治以前は違った。たとえば、徳川家康の姓は源で、苗字は徳川氏である。苗字の7~8割は居住していた地名に由来するという。藤原摂関家の嫡流は代々京都の近衛に邸宅を構えていたから、近衛と呼ばれるようになった。
「光る君へ」でも紹介されているが、藤原兼家の邸宅は東三条にあり、兼家は東三条殿と呼ばれていた。ではなぜ、兼家の一族は東三条氏と呼ばれなかったのか。それはかれの子どもたちが別々に居宅を構え、代々そこに住んでいなかったからであろう。
日本は平安時代くらいまで招請婚(しょうせいこん)・母子相続が一般的だった。妻の家に夫が婿入りして、居館は父から娘(+その夫)に相続される。ドラマでも藤原為時が側室の家に泊まって、まひろの家に帰ってこないときがあった。貴族には何人かの妻がおり、その妻の家を渡り歩いていたのだ。
ところが、平安末期から父子相続に変わっていく。なぜかといえば、そこには収入の変化が関わっている。平安貴族の収入源は、官職にともなう報酬が主だったらしい。これに荘園からの上がりをプラスするくらい。だから、猟官運動が過熱する。当然、エライさんの息子は、若くして高い官職を与えられるから、居住実態が母子相続であっても、経済的には父子相続を実現できたのである。
■平安末期の貴族は母子相続から父子相続へシフト
しかし、平安末期に地方の治安が悪化して、地方からの税収が途絶え、国からの給与が危なくなってくると、平安貴族の収入源は荘園を基盤としたものにシフトしていく。そうなると、経済的基盤は父から息子への相続に変わらざるを得ない。当然、居宅も世襲となり、「代々近衛に住んでいるから近衛殿」という具合になっていく。
ちなみに、全財産が長男に譲渡される(長子単独相続)ようになるのは室町時代初期からで、鎌倉時代では分割相続が一般的。娘にも財産を分与していた。財産分与の決定権は父親にあるので、父親の権威が上昇する。平安末期に院政がはじまるが、これは天皇家が持つ荘園を経済基盤とした、父子相続が前提になっている。
また、長子単独相続でなければ、長男かそれ以外かの兄弟順序は重要なファクターにはなりえない(長期間、親の庇護を得られる長男の方が有利ではあるが)。実際、藤原道長は5男坊(ドラマでは3男だが、異母兄が2人いる)、その父・藤原兼家は3男坊だった。道長の場合、姉の詮子(あきこ)(吉田羊)の庇護が出世に大きく影響したと伝えられている。
■鎌倉時代以降、武家は分割相続から長子単独相続へ
ついでに言及しておくと、先述の通り、鎌倉時代は分割相続が一般的だった。よく知られているように、鎌倉武士の収入基盤は所領(土地)である。なので、鎌倉末期になると所領が零細化し、武士が総じて窮乏していく。その頃、徳政令(借金を棒引きする法令)が再三出されるのは、そうした背景があったからである。
その反省からか、室町時代になると長子単独相続が一般的となる。より直接的な動機は、南北朝時代が到来することによる戦乱の頻発であろう。原則として、合戦は兵力の多寡で勝負が決まる。勝つには、より多くの兵力を集めるしかない。そうとなれば、一族で結集し、族長に勝負を委ねることが合理的だ。
かくして、武家社会は分割相続から長子単独相続へと変遷していく。ただし、長子単独相続にもデメリットがあって、家督を継ぐか否かでは天と地も待遇が異なる。そこで、どこの家でも家督相続争いが勃発。1467年にその集大成ともいうべき応仁・文明の乱が起き、戦国時代に突入。そして、「どうする家康」の時代になるのである。
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経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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