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学部長は「タイガースの負けです」と語った…受験戦争の全盛期に勃発した"東大・京大ダブル受験"の熾烈な戦い

プレジデントオンライン / 2024年1月30日 13時15分

京都大学の百周年時計台記念館(写真=CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)

1987年、国立大学の受験制度が変更され、東京大学と京都大学の“ダブル受験”が可能になった。初年度は1512人の“ダブル合格者”が出たが、彼らはどちらを選んだのか。教育ジャーナリストの小林哲夫さんの著書、『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』(光文社新書)から一部を抜粋して紹介しよう――。(第1回)

■「合格最低点」をどのように割り出していたのか

【1984年】

京都大を受けるためには共通一次試験で何点ぐらい取ればいいか。

受験生の自己採点とにらめっこしたところで、京都大合否のボーダーラインは見当がつかない。共通一次全受験生のデータが必要になってくるが、文部省(当時)、大学入試センターは平均点を出すぐらいで大学ごとのボーダーラインを示さない。そこでたよりになるのが予備校の調査だ。

1980年代、全国展開していた河合塾、駿台予備学校、代々木ゼミナールの三大予備校は共通一次情報に強かった。この年、河合塾は受験生約34万人の自己採点データを集め、これらを分析して各大学に合格するためのボーダーラインを示した。同塾の塾史にこの作業の流れが記されている。

キーステーションは、名古屋をはじめ東京、大阪、福岡、仙台に置かれている。このデータが最終的に名古屋の本部に集められ、コンピュータ集計される、各大学別、学科別の得点分布が出力され、それをもとにそれぞれの地区でボーダー会議が開かれたのは、試験実施からわずか1週間後。全国から職員が集まり、30〜40人の担当者が、延々12時間にわたって議論を続け、各大学学部の合否ボーダーラインが決定していく(『ルポ・河合塾の75年』河合塾、2009年)。

大学新聞はこうした様子を冷ややかに見ていた。「予備校側の新制度入試対策がいよいよ軌道にのってきたともいえるだろう」(京都大学新聞83年3月16日)、「大学の偏差値による序列化、受験産業の肥大化――教育への介入といった新たな問題が生じつつある」(京都大学新聞84年3月16日)。

【図表1】1984年の京都大学合格者別高校ランキング
1984年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)
◆入学定員2526人/志願者6688人/合格者=現役1015人、浪人1403人(53.8%)/入学者2536人(女子234人)

■合格者の半数以上が浪人生

【1985年】

浪人は全9学部で過半数を超えており、医学部では7割以上を占めている。女子は法学部で29人増の49人となった。智辯学園和歌山が前年比5人増で6人合格した。

【図表2】1985年の京都大学合格者別高校ランキング
1985年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)

「和歌山県当局の強い要請と藤田照清大僧正の私学教育に懸ける熱意とが醸成し、昭和53年4月に開校しました」(同校ウェブサイト)。

和歌山在住者が奈良の智辯学園中学校・高校に少なからず通っていたため、和歌山県知事が県内開校に向けて「強い要請」をしたことから、智辯学園和歌山はスタートした。同校の指導は熱心で、年間の授業日数は約250日(文部科学省調査によれば全日制高校の約9割が190〜209日)、コースによっては公立学校の1.5倍の授業時間がある。

「夏休みは、中学は8月中の約3週間、高校は8月中の約2週間です。冬休みは、中学高校とも年末年始の約10日間です」(同校ウェブサイト)となっており、夏冬の休業期間はかなり短く、その分、進路指導にあてている。

◆入学定員2526人/志願者6646人/合格者=現役1051人、浪人1491人(58.7%)/入学者2556人(女子271人)

■「東大・京大ダブル受験」の時代が到来

【1986年】

京都大アメリカンフットボール部「京大ギャングスターズ」が日本大に、そして社会人のレナウンにも勝って2回目のアメフト日本一となる。このときチームの主将をつとめた農学部4年の泉信爾(しんじ)氏はこう話す。

「よく『なんでこんなに強いのですか』と聞かれるんですが、アメリカンフットボールという競技自体が体力のほかに頭脳が要求されるからです。体力が他より劣っている分、頭脳で勝負しようと」(『螢雪時代』85年8月号)。泉氏は都立西高校出身で大学卒業後、三和銀行に進んだ。1980年代半ばは京大ギャングスターズの黄金時代で東海辰弥氏、屋敷利紀氏(いずれも富山・高岡)などのスターが生まれた。四天王寺から初めて合格者を出した。

【図表3】1986年の京都大学合格者別高校ランキング
1986年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)
◆入学定員2686人/志願者6396人/合格者=現役1298人、浪人1393人(58.7%)/入学者2705人(女子281人)
【1987年】

京都大と東京大のダブル受験を可能にする制度が導入される。この年から国立大学受験の機会を複数化するため、二次試験をA日程(3月1日〜)とB日程(3月5日〜)に分けて行う「連続方式」を実施した。京都大はA日程をとる(法学部のみAB両日程)。ところが東京大がB日程だったため、京都大、東京大の併願が可能となり、両校を受験する者が進学校中心に相次いだ。

■“ダブル合格者”の数は1512人に

京都大、東京大は合格者をどれほど確保できるか、つまり定員に対する歩留まりが読めないため、定員よりも多めの合格者を出した。京都大は募集定員2716人のところ、合格者4140人とした。52.6%の水増しである。このうち50%を超えた学部は次のとおり(合格者、カッコ内は定員)。文350人(220人)、経済444人(240人)、理291人(4人)、工1501人(995人)、薬120人(80人)だった。工学部電気系学科の合格者数は定員の2倍となった。

【図表4】1987年の京都大学合格者別高校ランキング
1987年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)

京都大入学者は欠員8人と帳尻を合わせた。神がかり、奇跡的と言われたが、京都大は半年以上前から、東京大とダブル合格した場合の入学先について関西の予備校や進学校から情報を集めていた。これらを分析して水増し率30〜40%を予定していた。しかし、共通一次後東京大と情報交換したところ、想定以上に東京大に流れることがわかり50%に修正している。京都大は合格者1432人を失った。

『サンデー毎日』調査によれば、京都大合格者のうち東京大に合格した者が1512人にのぼった。理学部では合格者465人のうち東京大合格者が318人で68.4%と群を抜いて高かった。京都大理学部入学者は230人だったので、それよりも多い235人が辞退したことになる。彼らが東京大や国立大学医学部に進んだことは容易に想像できる。

この結果に京都大理学部長はこう話した。「ジャイアンツが強かった、タイガースの負けです」(『週刊朝日』87年4月10日号)。

■京大を第一志望に選んだ人も東大に進んだ

なぜ、京都大は負けたのか。

予備校の関西文理学院進学教育センター部長が、「心変わりが起きたのでないか」と受験生心理からこう考察する。「ダブル合格してしまうと、親とか親戚がいろいろ言うでしょ。『せっかく東大受かったんだから』とか。そういう雑音を聞いていると、本人だってちょっと考えますからね。そうなれば初心と違った判断を下す生徒がいたっておかしくないわけで。(略)東大中心の学歴主義はまだまだ根強いですから」(『サンデー毎日』87年4月12日号)。

京都大が第1志望だった者が東京大に進んだ。こうした要因によって東京大は定員より228人多く受け入れることになった。京都大の教員は危機感を抱いたようだ。数学者で教養部教授の森毅(つよし)氏が解説する。

「トップクラスが東大にとられたと頭をかかえている人もおるし、将来後継者のとき養成で困るでと心配する先生もおるけど、なあに学部のうちは東大さんに預かってもろうて大学院になったらこっちに来てもらおやんて悠長に期待しとる人もおるよ」(『朝日ジャーナル』87年4月17日号)。

■「偏差値では東大かもしれないが…」

京都大の合格者は水増しのため例年より約1400人も多い。京都大合格高校ランキングが大きく変わった。

灘102人(前年比73人増)、ラ・サール82人(同72人増)、愛光47人(同38人増)、東京学芸大学附属42人(同36人増)となっており、甲陽学院、洛南、千種、天王寺、四條畷、三国丘なども合格者数を増やした。洛南95人のうち現役は64人となっており、このうち東京大合格者が30人いる。

工学部と理科一類に受かった男子(京都・洛南)が話す。「京大に行くことに決めました。自分としては東大へ行きたかった。東京に行って足が棒になるほど下宿を探して歩いたんですが、いい部屋がない。かといってマンションになれば、両親に負担をかけさせてしまう。一日中、東京をかけめぐった結果、京大に決めました」(『週刊文春』87年4月2日号)。

農学部と理科二類に合格した男子(宮城・仙台第二)はこう言い切った。「自由な学風がいい。偏差値で東大かもしれないが、実績、就職では大した違いがあるわけではないし、好きなほうを選んだ」(『サンデー毎日』87年4月12日号)。

◆入学定員2716人/志願者1万5156人/合格者4140人/入学者2802人(女子304人)〈ここから合格者の現浪別は未掲載〉

■超進学校はこぞってダブル受験

【1988年】

文、経済、教育の3学部は定員のほとんどをB日程に移した。東京大文系学部との併願を避けたかったからだろう。そのため東京大とのダブル合格者は前年比約260人減の1250人となった。

ダブル合格者の学校別上位校は①灘59人、②開成37人、③東大寺学園36人、④洛星34人、⑤東京学芸大学附属28人、甲陽学院28人、⑦麻布26人、洛南26人だった(『サンデー毎日』調べ)。87年に京都大、東京大とダブル受験できるようになったとき、大阪星光学院、甲陽学院、広島学院、愛光、久留米(くるめ)大学附設、ラ・サールなど関西以外の中高一貫校が京都大合格者を増やすなか、東大寺学園は減少した(64人→54人)。

【図表5】1988年の京都大学合格者別高校ランキング
1988年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)

しかし、同校は88年に76人と前年比22人増となる。東大寺学園はもともと京大志向が強かったが、87年に東京大、京都大ダブル合格した生徒が多く、その影響で88年に両方を受験する後輩が増えたのでは、という見方があった。駿台予備学校からはダブル合格者629人を出している。

同予備校広報情報部次長はこう話す。「東大の辞退者は、一部の例外を除いてほとんどが京大に流れたと推定できます。第一志望が京大で、東大は複数受験のチャンスが与えられたので、いわばついでに受けたという受験生」(『週刊読売』88年7月9日号)。

■「就職を考えたらやっぱり東大」

京都大入学辞退者の進学先は東京大81.1%、早稲田大3.5%、慶應義塾大2.3%、東京工業大1.8%、上智大0.7%となっている。一方、東京大入学辞退者の進学先では京都大63.6%である(代々木ゼミナール調べ)。

林哲夫『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』(光文社新書)
林哲夫『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』(光文社新書)

京都大から私立大学に流れたケースでは、関東の受験生が早稲田の政経、慶應の医、上智の外国語などそれぞれの看板学部へ進んでいる。大阪星光学院の男子はダブル合格して東京大を選んだ。「親に説得されたんですよ。ボクは京大の方が良かったんだけど、就職のことを考えたら、やっぱり東大だといわれちゃって」(『週刊現代』87年4月9日号)。

これが心変わりというものなのだろう。農学部と理科二類に合格した女子(滋賀・膳所)は東京大に目もくれなかった。「ずっと京大にあこがれていた。未練は全然‼ 親はすこし東大を考えてみたらと言っていたけど。食料品関係の企業の研究室に入りたい」(『サンデー毎日』88年4月17日号)。

上位5校を初めて私立が独占する。また、上位30校のうち関東の開成、東京学芸大学附属、千葉、桐蔭(とういん)学園、麻布、浦和、筑波大学附属駒場はいずれも合格者が増えた。前年、ダブル合格を果たした先輩を見ならったと学校は見ている。定員179人オーバーになった。

◆入学定員2781人/志願者1万1822人/合格者4044人/入学者2960人(女子361人)

■「多くの問題」によりほぼ廃止に

【1989年】

東京大とのダブル受験は多くの学部でできなくなった。

1987、88年の「A・B日程の連続方式」は京都大の学校史にこう記されている。「この方式での合格者決定にもなお多くの問題が含まれていたため、平成元(1989)年にはB日程で第2次試験を実施した法学部を除いて、他の学部は分離・分割方式に踏みきった」(『京都大学百年史』98年)。「多くの問題」=入学辞退者への対応に懲りたのだろう。東京大と併願されれば混乱するだけだと。そこで、また新しい入試方式を採用することになった。

【図表6】1989年の京都大学合格者別高校ランキング
1989年の京都大学合格者別高校ランキング(出所=『京大合格高校盛衰史 天才たちは「西」を目指した』)

分離・分割方式は入試を前期・後期に分け、前期で入学手続きをすれば後期の受験資格を失うことになった。「A・B日程の連続方式」と併存しており、前期とB日程の併願はできるが、前期合格で入学手続きをとればB日程は受験できない。わかりやすくいえば、ダブル受験しても京都大前期の合格者はそこで京都大を選ぶか、入学資格を放棄して東京大にチャレンジするかの選択が迫られる。

入試の多様化というよりも複雑化である。短期間でコロコロ変わる受験方式は「ネコの目」と高校、受験生から評判が悪かった。農学部合格の男子(大阪・高津)はこう話す。「僕らにとってみれば入試制度をいじくりまわされるのは迷惑だし。大学側も何の為に入試制度を変えるのか、わかっていないんじゃないか」(京大学生新聞89年3月20日〈京都大学新聞とは別組織で、当時の統一教会系〉)。

■89年は京大の圧勝だった

駿台予備学校の広報情報部次長はダブル受験が可能だったらと仮定してこう話す。「京大の圧勝だった。(略)制度が同じなら、ダブル合格者は七百四十人程度いたはずです。ところが実際に東大合格と発表されたのは百九十二人。つまり五百五十人ほどは、東大の合格ラインを上回っていたのに、京大の手続きをとった……」(『週刊朝日』89年4月28日号)。

京都大にすれば、ダブル受験で東京大に合格できる優秀な人材に東京大を受けさせず、京都大につなぎ止めたという見方だ。定員は82人オーバーだった。

◆入学定員2781人/志願者1万5031人/合格者3581人/入学者2863人(女子374人)

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小林 哲夫(こばやし・てつお)
教育ジャーナリスト
1960年生まれ。神奈川県出身。95年から『大学ランキング』編集を担当。著書に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『高校紛争 1969―1970』(中公新書)、『中学・高校・大学 最新学校マップ』(河出書房新社)、『学校制服とは何か』(朝日新書)、『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)、『早慶MARCH大激変 「大学序列」の最前線』(朝日新書)などがある。

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(教育ジャーナリスト 小林 哲夫)

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