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アントニオ猪木は弟子に「俺を殴れ」と言った…世紀の一戦「猪木・アリ戦」が真剣勝負だったといえる理由

プレジデントオンライン / 2024年2月15日 15時15分

モハメド・アリのギャラは約20億円(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/itasun

1976年、プロレスラーのアントニオ猪木は、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとの異種格闘技戦に挑んだ。だが試合は引き分けに終わり、猪木の闘いぶりから「八百長」とも批判された。プロレスラーの藤原喜明さんは「猪木にとって、モハメド・アリ戦は一世一代のギャンブルであり、文字通りの真剣勝負だった」という――。

※本稿は、藤原喜明、佐山聡、前田日明『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社)の一部を再編集したものです。

■モハメド・アリのギャラは約20億円

世間にプロレスラー、そして自分の強さを認めさせる――。

異種格闘技戦とは、そのために始まったものと言っていい。

猪木は76年に「プロレスとは最強の格闘技である」という大風呂敷を広げ始めた。

ボクシングの現役世界ヘビー級王者モハメド・アリと対戦するという前代未聞の一戦は、当然、実現までの交渉は難航した。

しかし、猪木側はあの手この手で粘り強く交渉し、アリ側が要求する条件をほぼすべて受け入れ、ついに契約締結にたどり着く。

アリのギャラは610万ドル。当時のレートで約20億円。

アリ戦はそれだけのリスクを背負った猪木の執念によって実現に至った。

負ければ、プロレスラーとしての地位は失墜し、会社は潰れ、莫大(ばくだい)な借金だけが残るという、猪木一世一代の大ばくちでもあった。

その猪木から最も信頼された弟子、プロレスラーの藤原喜明が「猪木VSアリ戦」について語った。

■正真正銘の人生をかけた闘い

国内の試合で印象に残ってるのは、やっぱりアリ戦だよ。正真正銘の人生をかけた闘いだった。

大風呂敷を広げるだけなら誰でもできるけど、実際にアリとやるなんて猪木さんにしかできないことだよ。闘うだけじゃなくて、カネも用意しなきゃいけないだろ。何十億だもんな。

だから最初にアリ戦の話を聞いた時は「まさか⁉」だったよな。

実際に実現するってなっても「お金、大丈夫かよ?」って。当時はまだ新日本が会社として軌道に乗ってなくて、給料が遅れたりするのも普通だったから、「そんな大金をどう用意するんだ?」って思ったし、借金して万が一のことがあったらどうするんだろうと思ったけど、やっちゃうんだよな。

■猪木は精神的に追い詰められていた

確か俺も巡業を2シリーズ休んで、猪木さんにずっとついていたんだよ。

猪木さんは試合に向けて、コンディションを整える練習とスパーリングをずっとやっていた。アリキック(スライディングキック)の練習をしてるところなんて見たことがなかった。

でも、躁鬱(そううつ)が激しいというかね。突然、「俺、勝てるよな?」って聞いてきたり、「藤原、俺を殴れ」って言ってきたり、精神的に追いつめられていたようだったな。

あの試合、ハッキリ言えば死ぬか生きるかだからね。

よく「真剣勝負」って簡単に言うけど、猪木さんは負けたら会社も潰れるだろうし、破産だろう。

アリだって負けたらボクサー生命がおしまいでしょ。尋常じゃない緊張感があった。これがホントの真剣勝負だよな。

■真剣勝負では糞尿だって垂れ流し

それに、闘いで何がいちばん怖いかっていったら、ペールワン戦もそうだったけど何をやられるかわからないっていうことなんだよ。知っていれば、心に余裕が生まれるけど、知らないっていうのは、本当に怖い。

しかも両者ともに背負ってるものが大きいから、ますます冒険した試合ができないんだ。

猪木さんはアリキックを繰り返して仰向けの体勢で、アリは「立ち上がれ」って挑発する展開が延々と続いて、引き分けに終わった。

真剣勝負はああいうものなんだ。侍が真剣で斬り合う果し合いだって、向かい合って微動だにせず、糞尿(ふんにょう)だって垂れ流し。

何時間もその状態が続いたあと、一瞬の隙を見て一太刀で勝負は決まるのと同じだよ。

刀を持つイメージ
写真=iStock.com/Josiah S
一瞬の隙を見て一太刀で勝負は決まる(※写真はイメージです) - 写真=iStock.com/Josiah S

■「大凡戦」「茶番劇」とこき下ろされた

だけど世間の評価は散々なものだったな。今の総合格闘技なんかを見慣れたファンだったらもしかしたら理解できるのかもしれないけど、当時はまったく理解されなかった。

「大凡戦」「茶番劇」……ってこき下ろされた。しかも、矛先は“寝てばかりで闘おうとしない”ってことで猪木さんに向けられた。

アントニオ猪木(右)がモハメド・アリにローキック(アリキック)を浴びせる(東京・日本武道館、1976年6月26日)
写真=時事通信フォト
アントニオ猪木(右)がモハメド・アリにローキック(アリキック)を浴びせる(東京・日本武道館、1976年6月26日) - 写真=時事通信フォト

お金を払った客が文句を言うのは仕方がないけど、あの時、テレビ、新聞、雑誌で猪木さんのことをボロクソに言った有名人の名前、俺は今でもハッキリと覚えてるよ。あいつと、こいつと、こいつって。すでに2人ばかり死んでるけどね。

何もわかってねえヤツらが、「あんなの誰でもできる」とか言いやがってな。

あと、何も知らねえ有名人ならともかく、記者連中までボロクソに書きやがってな。

俺は記者に言いたかったよ。「俺らが糞だったらお前らは糞バエじゃねえか!」って。糞にたかって食ってるわけだからな。何をくだらねえこと書いてるんだって。

■「どっちかが勝ってたら死人が出てたよ」

試合の判定で、遠山(甲)さん(日本ボクシング協会公認レフェリー)が猪木さんに勝ちをつけたけど、プロレス側と思ってた遠藤(幸吉)さんがアリにつけたから、俺たち新日本のセコンドは遠藤さんに激怒したんだよ。

アリの有効打がジャブ1発だったのに対し、猪木さんのローキックはかなりのダメージを与えていたから、猪木さんの勝ちだと思ったんだよ。

ところがドローだったんで「なんでだよ?」と思ったら、遠藤さんだけがアリにつけてたっていうんだよな。

それで俺と(ドン)荒川さんで「遠藤を探せ!」って会場中を走り回ったよ。とっ捕まえて、ぶん殴ってやろうってね。

だけどあとで考えたら、あれはドローでよかったんだよな。もしどっちかが勝ってたら死人が出てたよ。

だってあっち側にはピストルを持った人間がいたとか言われているし、もしかしたらこっちにもいたかもしれない。だから、たぶん遠藤さんは自分が悪者になってドローにしちゃったんだろう。今になればその気持ちがわかるよ。

■奴隷みたいな生活から這い上がってきた

この時の猪木さんの孤独は計り知れないよな。普段、自分の試合を「八百長」呼ばわりしてた連中の前で、堂々と真剣勝負で史上最強のボクサー、モハメド・アリと闘って引き分けてみせたのに、そのすごさが何ひとつ理解されなかったんだからな。

だけど、ペールワン戦もアリ戦も、すべてを失いかねないようなリスキーな試合だったけど、腹を決めてそこに出ていけるっていうのは、やっぱり若い頃ブラジルに行って奴隷(どれい)みたいな生活をして、そこから這い上がってきた気持ちの強さもあるんだろうな。たいしたもんだよ。

ブラジルで4年近く、朝日が出てから日が暮れるまで、手から血を流しながら働いてたっていうからな。

その後、日本プロレスに入団して、力道山先生の家に住み込んで、下積みが3年間くらいか。だから腹の据わった人になれたのかもな。

■難病には勝てなかった

あと、猪木さんは他人とは違う死生観を持っていたような気がするんだよ。一緒にブラジルへ移民しながら亡くなった人も見ているだろうし。ブラジルに向かう船の上で大好きだったおじいさんも亡くしているわけだもんな。それに力道山先生だって殺されているし。

だから人の命の儚(はかな)さを知っているからこそ、大きな勝負に出られたのかもしれない。

藤原喜明、佐山聡、前田日明『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社)
藤原喜明、佐山聡、前田日明『猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実』(宝島社)

だってアリ戦だってさ、ただアリと闘うだけじゃないんだよ。あの時、33歳の猪木さんが20億円だかのカネを用意して、負けたらすべてを失うんだから。俺にはできない。

まあ、猪木さん以外、誰にもできないよ。あの人は、人生のギャンブラーだな。

猪木さんは試合でもなんでも人生を賭けた大きなギャンブルを続けてきたんだけど、なんだかんだ言ってみんな勝ってきたんだよ。初めて負けたのが最後の病気だよ。さすがに難病だけには勝てなかったな……。

まあ、あまりにも長く闘い続けてきたから、ようやく楽になれたんだよ。

そういうふうに考えたほうがいいのかなと思うしね。

俺にとって神様みたいな人だったから、猪木さんと一緒に過ごした時間のすべてが幸せだった。

(カール・)ゴッチさんもそうだけど、2人とももうこの世にはいないんだもんな。

アリ戦、ペールワン戦と同じ76年の10月には、韓国で不穏試合と言われたパク・ソンナン戦もあったな。

だけど、パク・ソンナンの時は、俺はゴッチさんのところに行ってたからいなかったんだよ。ゴッチさんのところに行って1日6時間くらい練習をさせられてさ、あれは虐待以外のなにものでもないね(笑)。いやでも、楽しかったよな。

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藤原 喜明(ふじわら・よしあき)
プロレスラー
1949年、岩手県生まれ。72年に新日本プロレスに入門。新人時代からカール・ゴッチに師事し、のちに“関節技の鬼”と呼ばれる。84年に“テロリスト”としてブレイク。同年7月に第一次UWFに移籍し、スーパー・タイガー(佐山聡)や前田日明らとUWFスタイルのプロレスをつくり上げる。その後、新生UWFを経て、91年に藤原組を設立。藤原組解散後はフリーランスとして新日本を中心に多団体に参戦。2007年に胃がんの手術をするも無事生還し、今も現役レスラーとして活躍中。

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(プロレスラー 藤原 喜明)

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