「源氏物語」の作者は男好きなんでしょうね…藤原道長から皮肉られた紫式部がピシャっと返した一言
プレジデントオンライン / 2024年2月22日 7時15分
■熱狂的なファンを生んだ『源氏物語』
紫式部は、夫藤原宣孝没後から家に籠って『源氏物語』を書き始めていた。その後、出仕しても、内裏や土御門殿の賑やかさに溶け込めずに精神がすり減り、その憂愁に抗うように『源氏物語』を書き継ぐのであった。
その頃、宮廷では既に『源氏物語』は読まれていた。『源氏物語』を読んだ一条天皇は、「紫式部は、『日本書紀』を読んでいるのだろう」と言われた。それで日頃から紫式部を快く思っていない女房が、「たいそう学識を鼻にかけている」と殿上人などに言いふらして、「日本紀の御局」とあだ名を付けた。
紫式部は「とても滑稽なことです。わたしの実家の侍女の前でさえ包み隠していますのに、そのような宮中などでどうして学識をひけらかすことをしましょうか」(『紫式部日記』)と、不愉快に思うのであった。
それでも読者は多かった。その一人が、詩歌管弦に秀でた当時最高の文化人である中納言藤原公任で、宴会で酔いに任せて、几帳という衝立で囲まれた中にいる紫式部を覗いて、「失礼ですが、この辺りに若紫さんが控えておいでではないですか」と言った。紫式部イコール『源氏物語』のヒロイン紫上に見立てたのだ。
■「低俗な読者」だった藤原道長の下品なひとこと
紫式部は返事もせず、「この場には光源氏に似たようなお方はいらっしゃらないのに、まして紫上がいるはずはないわ」と、大文化人の言葉を黙殺した。詩歌管弦に秀でていても物語理解力は不満ということか。
このエピソードから推測すると、それまでは「藤式部」と呼ばれていたのが、物語の流布によりヒロイン「紫上」の名に基づき「紫式部」と呼ばれるようになったのだろう。
藤原道長も読者だ。道長は自ら上等な美しい紙や筆・墨・硯を用意し、女房たちが紙を選び、能筆の人に書写させ、豪華な『源氏物語』の本を作らせている。『源氏物語』を最初に作者の所から持ち出したのも道長であった。
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このように讃えるべき面があるが、読者としては低俗だ。このような色好みの物語を描く作者は色好みだと見たのだから。道長は紫式部に言った。
(このような物語を書くので好色者と評判が立っている貴女だから、見かけた男がそのまま口説かずに素通りすることはないでしょう)
殿藤原道長(『紫式部集』・『紫式部日記』)
これに対し紫式部は、
(まだ誰にも靡(なび)いたことのない私ですのに、誰がいったい好色者だなどと噂を立てたのでしょうか)
紫式部(『紫式部集』・『紫式部日記』)
と、ピシャッと言い返した。
『尊卑分脈』の彼女の注記に「道長妾」とするのは、このようなエピソードからか。
■自分と登場人物を重ねる菅原孝標の娘
道長の流儀でいけば、不倫小説を書く作家は不倫体験者になるし、殺人事件を手掛ける作家は殺人犯になってしまう。小説の主人公イコール作者と見なす、最も低俗な読者だ。
もっとも詠者自身が主人公であることの多い和歌や、作者イコール「私」という日記文学の盛行がもたらした影響もある。近現代の私小説の愛読者もそう読むだろう。
自分とヒーローあるいはヒロインと重ねて読むミーハー的な読者が、『更級日記』の作者菅原孝標の娘だ。『源氏物語』の文章をすらすら諳んじるほど物語に没頭した孝標の娘は、
菅原孝標の娘(『更級日記』)
と、物語中の人物に己を投影させる。
夕顔の君は夕顔というニックネームの如く、はかなく散ったが、その短い期間、光源氏のこの上ない寵愛を受けた。美人薄命を絵に描いたような女であった。はかなげながら可憐で朗らかな性格で、光源氏は彼女にのめりこみ、死後も面影を追う。
■読者から見事に作家へ転身
宇治の大将薫は『源氏物語』後編、いわゆる宇治十帖の主人公で、光源氏の若妻女三宮が柏木衛門督という藤原氏の男と密通して生まれたのだが、表向きは光源氏の子だ。
その薫に愛された浮舟は光源氏の従妹で、宇治十帖のヒロイン。薫の寵愛を受けながら光源氏の外孫に当たる匂宮とも関係を持ってしまい、二人の貴人の愛の板ばさみに苦しみ、自殺を決意したが果たせず出家。薫の愛を拒み続ける。
このような、はかなく美しい夕顔や浮舟に孝標の娘は憧れた。高じてくると、多分自分が夕顔や浮舟になったつもりで物語を書くようになったのだろう。『夜半の寝覚』『御津の浜松(浜松中納言物語)』『自ら悔ゆる』『朝倉』などを書いたと伝えられている。『夜半の寝覚』は現存部分だけでも五巻あり、かなりの長編であったらしい。
『浜松中納言物語』は全六巻もあり、首巻を欠くが現存する。『源氏物語』、特に宇治十帖の強い影響を受けている物語である。『自ら悔ゆる』『朝倉』は散逸して現存しない。やや低俗な読者から脱皮し、見事に作家に転身したのだ。
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貴人に愛される夕顔や浮舟のようになりたいという彼女の夢は、三十三歳で下野守橘俊通との結婚で潰えてしまったが。
■「登場人物は誰?」宮中をにぎわせたモデル問題
世間一般と異なり、狭い宮廷であり、そこに評判小説が流布すると、おしゃべり好きの女房たちの中で、モデル問題が生じるのは必然だ。
紫上のモデルは、公任でなくても藤式部自身と考えたくなり、作者は「紫式部」と呼ばれるようになる。だが、藤式部は自分ではないと否定した。その理由は、周りには光源氏のような方はいないから、という。そうすると、同時代に光源氏のモデルもいないわけだが、それでは収まらない。
私も女房になった気持ちで、光源氏モデル詮索に参加してみよう。
A女房「光源氏様のモデルは、私たちと同時代のイケメンで色好み、そして歌の上手な藤原実方様よ」
B女房「違うわ。実方様は藤原で源ではないし、天皇の皇子ではないわ。官位だって正四位下で左近衛中将という中流階級よ。左遷されたのは北の陸奥だし、赴任先で落馬して非業の死を遂げたのだから、光源氏様とは全く違うわ。光源氏様のモデルは絶対に、醍醐天皇の皇子の西宮左大臣源高明様よ」
私は、B女房説に味方して、光源氏と源高明の類似点をまとめてみよう。
![光源氏と源高明の類似点](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/e/b/1200wm/img_eba501437ec21dd5cfb403f24e8e9560576216.jpg)
■光源氏のモデルと噂された源高明のふるまい
B女房「どう。道長様だの実方様など諸説あるけれど、光源氏様のモデルは絶対に源高明様よ。これだけ類似点があるもの。高明様が色好みであったことは、彼の歌集『西宮左大臣集』を見れば分かるわ。僅か七十八首の歌集だけれど、全歌恋歌よ。冒頭の歌なんて光源氏様の歌としてもおかしくないわ」
成程、B女房の言うように『西宮左大臣集』を見ると、冒頭歌は「女に」の詞書で高明は「須磨の海人の」と歌い始め、
(噂に魅力的だと聞くばかりで見たこともない女に恋する私はどうしたことか)
源高明(『西宮左大臣集』)
と詠む。「須磨の海人」「見ぬ人恋ふる」の二句から、光源氏が京の北山で従者から明石入道の娘の話を聞き、逢ったことはないが心ひかれたことを、『源氏物語』第五帖「若紫」の読者は思い合わせるのではないか。高明は光源氏になりきって詠んでいるのだ。
『西宮左大臣集』は高明没後に他者により編まれたと考えられているが、「須磨の海人の」を冒頭に置いたのは、編者も高明光源氏モデル説を意識しているのだ。
![京都・宇治の平等院鳳凰堂](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/7/4/1200wm/img_74dd61174762a43dc514f2f72a06282f462168.jpg)
■高齢で妖艶な色好み…源典侍のモデル問題
モデル問題で被害を被ったのは、紫式部の夫藤原宣孝の兄の妻、つまり義姉に当たる源明子だ。内侍司の女官で従四位下相当の典侍なので、源典侍と呼ばれていた。『源氏物語』に詳しい読者諸賢であれば、私が言わんとすることを早くもキャッチしただろう。その通り、『源氏物語』に高齢で妖艶な色好みの、その名も源典侍が登場するのだ。
源典侍は物語の第七帖「紅葉賀」に初登場するが、その時既に五十七、八歳である。年齢にかかわらず多情で、しきりに光源氏にラブコールを送る。若づくりが激しく、若向きの真っ赤な扇を持ち歩いていたが、そこには『古今和歌集』よみ人知らずの歌、
(大荒木の森の下草が盛りを過ぎ硬くなってしまったので、馬も食べようとしないし、刈る人もいない)
よみ人知らず(『古今和歌集』雑上)
が書かれている。肉体の柔らかさがなくなって誰も見向きもしてくれない老齢の嘆きだ。
■紫式部の義姉は宮廷を離れた
源典侍は七十歳前後まで長生きし、再会した光源氏に妖艶な仕種を示す(『源氏物語』第二十帖「槿」)。口さがない女房連中が、物語の源典侍のモデルは、作者の義姉の源典侍とするのは無理からぬこと。紫式部も三十歳後半から四十歳に達しているだろうから、夫宣孝が生きていれば六十歳前後、その兄の妻ならば義姉は六十歳から七十歳。物語の源典侍の年齢に近い。
義姉明子に関する記述はほとんどないので、色好みであったかどうかは分からない。しかし口さがない女房雀たちが、物語作者の身近な人で、老いて典侍を務める明子をモデルと考えても仕方あるまい。
現代ならば、プライバシー侵害・名誉毀損(きそん)の訴訟を起こすところだが、彼女はいたたまれなくなって典侍を辞して、宮廷から離れたという。このことが更にモデルであることを裏付ける結果になった。それだから周りの人たちは、モデルにされないように警戒する。
紫式部(『紫式部日記』)
には、紫式部に対する警戒心がほのうかがわれるではないか。この批評は続いて「会ってみると不思議なほどおっとりして」とあるものの、作者の陰湿さを指摘しているように思われるのだが。
■紫式部は「時の人」になったけれど…
![山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/0/f/1200wm/img_0f2653c3f18e152ec965f8c9d2560155159717.jpg)
このように長編小説の作者と喧伝されようと、モデル問題を引き起こそうと、内裏では『源氏物語』の作者として「時の人」であった。
『日本書紀』『史記』などをマスターした女学者であろうと、一という文字さえ書けない振りをし(『紫式部日記』)、人目に立つことを避け続け、猫を被ったように控えめにし、自分には宮仕えは憂き世界と、自虐的に追い詰めていたのである。
そしてそれは、学んできた歴史書に対する批評に昇華された。「歴史などは人間の一面しか書いていない。物語にこそ委曲を尽くした人間の事柄が書かれている」(『源氏物語』第二十五帖「蛍」)という、有名な文学論を生んだのである。
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国文学者
1932年、東京生まれ。東京都立大学大学院博士課程単位取得退学。富山大学・聖徳大学名誉教授、元新潟大学教授。文学博士。カルチャースクールでの、物語性あふれる語り口に定評がある。著書に、『王朝歌檀の研究』(桜楓社)、『王朝貴族物語』(講談社現代新書)、『平安貴族のシルクロード』(角川選書)、『こんなにも面白い日本の古典』(角川ソフィア文庫)、『創られたスサノオ神話』(中公叢書)、『こんなにも面白い万葉集』(PHP研究所)などがある。
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(国文学者 山口 博 )
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