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このやり方で3000の兵で15万の兵に逆転勝利できた…豊臣秀吉が大絶賛した"生涯無敗"の戦国最強武将の名前

プレジデントオンライン / 2024年2月21日 16時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

大軍に勝利する武将はどんな戦術を使っているか。歴史家・作家の加来耕三さんは「“生涯無敗”の戦国武将・立花宗茂は少数の兵をもって大軍を討ち破り、不利な局面を有利に一変するのが得意な奇跡の武将だった。宗茂は敵の布陣を徹底的に調べて、ウィークポイントを探し出し、軽く突いて目算をつけた後、合戦ではそこを狙って集中攻撃を加えた。小さな単位を次々とつぶして勝利をつかんだ宗茂の戦い方は、現代のビジネスでもそのまま実践することができる」という――。

※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

■大軍に戦術はいらないが、弱者には戦術が必要

小よく大を制す――戦術の力で、戦略の劣勢をひっくり返した例といえば、

“日本三大奇襲戦”の一つに、幕末の歴史家・頼山陽(らいさんよう)が数えた「桶狭間の戦い」(1560年・永禄3年)が、真っ先に思い浮かびます。

実兵力2万5000の今川義元の大軍に対して、挑む織田信長はわずか3000弱ほどの兵力しかありませんでした。しかし、皆さんもご存知のように、信長はわずかな兵力で奇襲を敢行し、今川軍を尾張(おわり)から撃退しました。

今川軍にすれば、負けるはずのない戦いであったはずです。味方は2万を超える大軍であり、敵はわずかに3000なのですから、戦力の実力は、自乗に比例する――数の力で正攻法に押せば、簡単に勝てる、と義元は考えていたことでしょう。

わずか3000の兵を相手に、細々とした作戦を立てる必要はない、と考えていた今川方は、敵将である信長のことを一切リサーチしていませんでした。

彼について少しでも調べていれば、信長が無鉄砲に思われる性格で、一か八か運を天に任せて、今川の本陣を探しつつ、突っ込んでくる可能性がある、と予測できたはずです。

しかし義元は、2万5000の兵をもって信長の居城・清州(清須)城を取り囲めば、すぐに相手は降参するだろう、と漠然と(「戦術」一つ持たずに)考えていました。

信長が劣勢をもって、清洲城を打って出て、今川の本陣めがけて襲ってくるという発想が、義元にはそもそも浮かばなかったのです。

織田勢に奇襲された後も、今川軍にはまだ勝ち目――少なくとも敵将信長を葬る――がありました。

なにしろ兵の数では、敵を圧倒していたのです。奇襲されても冷静に、これを迎え撃っていれば、当初は混乱しても、ついには返り討ちにできたはずです。

ところが今川軍は、碌(ろく)に警戒することもなく、各隊が分散して各々、食事をとっていました。敵地であるというのに、見張りも適当にしか立てず、すっかり油断していたのです。

■「偶然の勝ちはあるけれども、偶然の負けはない」

一方の信長は、しゃにむに今川の本陣を求め、駆けつづけていました。

わずかな兵力で、城に立て籠もっていても勝てるはずはありません。

ならば、油断している相手の隙を突いて、万に一つ義元の本陣に行きつけば、逆転して、勝利できるかもしれない、と信じて、その戦術を最後までやり切ったのが信長の信念でした。

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」

この言葉は、江戸時代後期の大名で、肥前平戸(ひぜんひらど)藩主の松浦静山(まつうらせいざん)のものだといわれています。静山は文武両道に優れた人物で、自ら藩校で講義を行い、剣術は心形刀流の達人でした。著した『甲子夜話(かっしやわ)』は有名です。

「偶然の勝ちはあるけれども、偶然の負けはない」――つまり、敗北にはすべて必然性がある、と静山は言っていたわけです。

そういえば、プロ野球の野村克也監督も、この言葉を好んで口にしていましたね。

日本史の合戦には、信じられないような強者の、逆転負けのケースがいくつもありますが、それは弱者側の巧みな「戦術」によってもたらされたものでした。

小倉城
写真=iStock.com/MrNovel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/MrNovel

■15万の大軍を3000の兵で破った戦術の達人・立花宗茂

当初に立てた「戦略」を遂行するために、刻一刻と移り変わる戦局にあって、積み重ねる作戦が「戦術」です。

現場で作戦を遂行するリーダーに、なくてはならない能力は臨機応変な反応といっていいでしょう。

実際の戦術とは、どんなものなのかを具体的にイメージしてもらうために、

“生涯無敗”の戦国武将・立花宗茂(たちばなむねしげ)が自ら用いた戦術を紹介しましょう。

この人物は豊臣秀吉が、「鎮西(ちんぜい)(九州)一」「日本無双」と称賛した武将です。15歳の初陣以来、自ら指揮した戦いで敗北を喫したことが一度もありませんでした。

若くして、筑後(ちくご)国(現・福岡県南部)の柳河(やながわ)13万石余の城主となった人物です。

戦国最強の割には、知名度が今一つ⁉ 最近はアニメやゲームの影響もあり、戦国武将の人気投票でも上位にランキングされるようになりました。

宗茂は少数の兵をもって大軍を討ち破り、不利な局面を有利に一変するのが得意な、奇跡の武将でした。

例えば、同じ九州に拠点を持つ島津勢の5万の大軍に対して、わずか4000の兵で対抗した際は、立花山(たちばなやま)城に立て籠もり、一歩も退かない籠城戦を貫徹してみせました。

完璧に城を守り抜き、島津勢が豊臣秀吉の大軍来襲を知り、逃げ出すやすかさず、1500ほどの手勢を率いて、5万の島津軍を追撃し、後尾を翻弄(ほんろう)してみせたのです。

豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵においては、前半の「文禄(ぶんろく)の役(えき)」において、明(みん)の将軍・李如松率いる4万3000と、李氏朝鮮10万余の計15万の連合軍に対して、宗茂はわずか3000の兵で大勝してみせました。「碧蹄館(へきていかん)の戦い」といいます。

これは日本の合戦史上、類を見ないほどの戦力差をひっくり返した、一大逆転勝利といえるでしょう。

■攻撃を読んで、それをこちらが先に行えば、負けるはずがない

宗茂は一人の武将としても屈強でしたが(タイ捨流(しゃりゅう)剣法免許)、戦術を巧みに操って兵を動かすのが得意な指揮官でもありました。

戦術を決めるというと、軍議の席で地図を見ながら協議するイメージがあるかもしれませんが、宗茂は現場に斥候(せっこう)を放って情報を多面的に集め、敵の布陣、地勢を徹底的に調べ、ときには自ら出向いて、軽く攻撃を仕掛け、相手の反応を確かめたりもしました。

可能な限り、自ら現場に足を運んで“現況”を理解し、それをもとに具体的な戦術を立てるのが宗茂のつねでした。

自分だけは安全な場所にいたまま、部下からの現場報告をもとに作戦を立てるような指揮官は少なくありません。が、それでは連戦連勝、不敗の成果をあげることは難しかったと思います。

戦う現場指揮官として、立花宗茂ほど、それ以前の10代において、実父の高橋紹運、養父の戸次道雪(べっきどうせつ)(鑑連(あきつら))の二人に、実地で鍛えられた武将はいなかったでしょう。

あるとき、「あなたはなぜそんなに強いのか」と豊臣家の同僚大名に問われた宗茂は、次のように答えたといわれています。

「彼のなすところをもって、これを我がなせば、すなわち克(か)たざることなし」(『名将言行録』)

相手が仕掛けようとしている攻撃を読んで、それをこちらが先に行えば、負けるはずがない、と宗茂は言っているのです。

そのためには徹底して自らを鍛え、敵以上の「戦術」を組み立てるべく、現場に出て、ありとあらゆる情報を集め、可能性を考え、それらに対処する方法を考える必要があります。

そういえば、防衛大学校仕込みの「5×4×3×2×1」方式で戦略を考える、というのを聞いたことがあります。まずは5通りの大きな作戦を考え、それぞれが失敗した場合の代案を4通り作り、さらにそれが失敗した場合の3案、2案と策を練るという方法。

もし、この方式通りにやったとすれば、おそらくいかなる事態に遭遇しても、慌てることなく対処できたに相違ありません。

分析し、最善の策を考え、次善の策を用意し、もしもことごとく不測の事態が生じたときは、さらなる第三の策を考えておく。

これでどうして、敗れることがあるのでしょうか。

戦いの敗因の大本は、つねに“油断”につきます。

チェス
写真=iStock.com/simpson33
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/simpson33

■大軍の急所を突けば、敵は一気に崩れる

島津氏や毛利氏のような、戦国の大国の主ではない宗茂は、大友氏の家臣として、少数の兵を率いて大軍と戦うことが多かったため、戦術を使ってひっくり返す道を探るしか、勝つ方法、生き残る道がありませんでした。

ふつうに戦っても勝てない相手に対して、どうすれば勝てるのかを考える必要があったのです。

そのため宗茂は、敵情を探るための“物見”を何度も、何人も、繰り出しました。

敵の布陣を徹底的に調べて、ウィークポイントを探し出していくのです。

宗茂はどれほど敵の数が多くても、必ず手薄な部分(弱点)があることを、数多くの合戦経験から熟知していました。

もちろん、物見をしただけでは、どこの部隊が弱いのかがハッキリしない場合もあります。

そんなときは、緒戦でウィークポイントと思われた箇所を、自らわずかな兵を率いて、軽く突いてみます。こちらの攻撃に対する相手の反応を見て、やはりあそこの動きが鈍い、弱そうだ、崩せる、と目算をつけていくのです。

そして合戦では、敵の弱い部分を狙って集中攻撃を加えます。

百戦錬磨の立花軍が一糸乱れぬ動きで、敵の弱点を錐が回転するように突いていくのですから、相手はひとたまりもありません。

多くの場合、敵陣はそこから崩れていきました。

宗茂の攻撃は、敵が大軍であればあるほど、効果を増します。

■ビジネスにも通底「戦える単位まで敵を頭の中で割っていく」

敵からすれば、わずかな兵で何ができるのだ、と相手を侮っていた分、弱点を突かれ、自陣の一角が崩されるとたちまち混乱し、パニックを引き起こして、簡単に戦意を喪失してしまうわけです。

なんとか落ち着きを取り戻し、敵が反撃に転じて来ると、立花軍は無理してつづいての敵対などしません。さっさと、引き上げてしまうのです。

逃げる立花軍を嵩にかかって、追ってきた敵軍はどうなるか。宗茂は伏せておいた第二部隊、第三部隊に命じての、一斉射撃や槍での奇襲攻撃を食らうことになるのです。

いくら戦術に自信があっても、ふつうは大軍を前にすると、震えあがってしまい、まともな思考ができなくなるものです。

大会社の社員は堂々としており、中小企業の従業員はびくびくしている、といわれるのがこれです。

しかし宗茂は、明の兵数が15万の大軍だと聞いても、彼の頭脳は15万という塊(かたまり)では敵をとらえませんでした。配置の兵数を地図上で分けていき、自らの兵力と同じ単位に砕けるまで、敵を頭の中で割っていきます。

敵の弱い部分を探し出し、その部隊をひと塊ととらえて勝負に出るので、宗茂は感覚的には自分たちと同数ぐらいか、せいぜい倍ぐらいの敵を相手にしている、といった心持ちだったのではないでしょうか。

味方の将兵たちにもそのように伝え、彼らの士気を鼓舞して、小さな単位を次々とつぶして勝利をつかんだ宗茂の戦い方は、現代のビジネスでもそのまま、実践することができるのではないかと思います。

■「集中」と「スピード」で戦いを制する

立花宗茂の例も、前述の織田信長の例も、戦術において重要なことは「集中」と「スピード」であることを教えてくれています。

いかに戦力を、一点に集中させるか?
いかにスピード感をもって、素早く行動に移せるか?

織田軍の桶狭間の戦いは、信長が戦術を今川本陣への直接攻撃に絞り込み、あとは本陣へ到達するまでひたすら走り続けたことが成功につながりました。

少ない兵力で清州城に籠もって戦っても、とうてい勝ち目はなかったでしょう。

少しでも奇襲をためらっていたら、わずかしかない勝機を逃していたはずです。

同様に、立花宗茂も兵力を一点に集中し、相手の弱点を攻め立て、傷口を広げて戦いを勝利に導きました。

一方、平安時代末期に活躍した源義経も、「集中」と「スピード」に長けた戦いの申し子のような人物でした。

急峻(きゅうしゅん)な山肌を騎馬で駆け下りて、平家の陣を背後から奇襲した“一ノ谷の戦い”や、嵐の中、わずかな船で四国に渡り、少数で平家を強襲した“屋島(やしま)の戦い”──。

加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)
加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)

いずれも、戦力を一点に集中して、素早く敵陣に襲いかかったものでした。

義経は、この難しい作戦を実行するにあたり、選りすぐりの兵を集めています。

一ノ谷の戦いにおける“鵯(ひよどり)越えの逆(さか)落とし”をする際も、そもそも難易度の高い騎馬戦ができる郎党や武者の中から、さらに腕の優れた者を選抜していました。

同じほどのスピードで、鵯越えを駆け下りられる人間が揃わなくては、せっかくの奇襲が成り立たなくなってしまいます。

戦術を実行する上で、「集中」と「スピード」は不可欠です。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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