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紫式部と藤原道長は本当に恋人関係だったのか…「平安最大のミステリー」に作家が出した結論

プレジデントオンライン / 2024年3月3日 13時15分

藤原道長〈『紫式部日記絵巻』より〉(写真=藤田美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

紫式部と藤原道長は恋人関係にあったのか。作家の岳真也さんは「密接な関係にあったことは間違いないが、残された歌や史料を調べた結果、2人に恋愛感情はなかったと断言できる」という――。

※本稿は、岳真也『紫式部の言い分』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです

■道長が紫式部に送ったあやしい歌

『紫式部日記』は一種の公文書であり、お上に差しだす「献上品」ですから、ときには自分にとって障りのあることを削り、装飾用の言葉を書きつらねたこともあったかもしれません。

すなわち、完全なノンフィクションではなく、フィクションのところも多少なりとあったかと思うのですが、なかに、こんな怪しげな式部と道長の歌のやりとりもあります。まずは道長からのものです。

すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ

彰子は出産のため、里(土御門殿)に帰っていました。紫式部もいっしょです。彰子がいる座敷には、妊婦が好む梅の実が用意されていました。また、彰子のかたわらには、愛読書の『源氏物語』が置かれています。

そういうなかで、道長は梅の実の敷き紙を一枚抜いて、さらさらと歌を書きつけ、紫式部に手わたしたのです。それが、さきの歌ですが、語句の意味を明かしておきましょう。

「すきものと名にしたてれば」は「酸っぱい梅の実は美味として知られる」ということですが、「すきもの」は好者(すきもの)(好色な人)の意をふくんでいます。

歌の後半も通して、全体を訳せば、

「酸っぱい梅の実は、美味と言われる。見た人が(梅の木を)手折らずにはいられないと思うが、いかがかな」と、問うているわけです。

この歌のさらなる底意には、

「『源氏物語』の作者は「好き者」として知られている。男が口説かずにはいられないはずだが、どうだろう」ということがあるか、と思われます。

つまり、冗談半分で道長が歌を詠んだとしても、紫式部に対して、誘いをかけているかのように読めるでしょう。

■冗談には冗談で返す

紫式部は歌を返しました。

人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ

簡略に訳せば、

「わたくしはまだ、男性に手折られたこともないのに、だれがそんなわたくしのことを、『好き者』などと言いふらしているのかしら。本当に心外なことだわ」となります。

「口ならし」は「酸っぱい梅の実を食べて口を鳴らす」と「言葉巧みに言いふらす」の両意を掛けています。

紫式部は結婚した経験もあるし、子どもがいることは周知の事実ですから、「男性に手折られたことがない」と詠んだのは、道長の歌に彼女のほうも戯言(冗談)で返したわけで、「道長さまは冗談がお好きね」とばかりに、するりとかわしたのではないでしょうか。

この歌を引き合いに出して、

「紫式部は道長の愛人ではなかったか」

という話も伝えられています。しかし、紫式部の側では、はっきりと道長の誘いを断わったのですから、まるで根拠はなく、「何をか言わんや」でしょう。

■私はあなたの家の戸を何度も叩いた

ところが、じつはこのあとに、もう一つ、気になること(歌のやりとり)があったのです。

「渡殿に寝たる夜、戸を叩く人ありと聞けど、おそろしさに音もせで明かしたるつとめて」(詞書)

この詞書の意は、

「渡殿の局で寝ていた夜、局の戸を叩く人がいる。わたくしはおそろしくて、声も出せずに夜を明かした早朝に」

となり、戸を叩いた本人(男性)の歌は、つぎのものです。

夜もすがら 水鶏よりけに なくなくぞ 真木の戸口に 叩きわびつる

歌を意訳してみます。

「自分は一晩中、戸を叩くような声で鳴く水鳥以上に、切ない思いで、堅い真木の戸をいくども叩きながら、嘆いていたのだよ」

紫式部は、すぐに歌を返しました。

ただならじ とばかり叩く 水鶏ゆゑ 開けてはいかに 悔しからまし

訳しますと、

「ただならぬ感じで、水鳥よりも盛んに戸を叩く人(あなた)がいたの。それでもし、わたくしが戸を開けていたら、どれほど後悔することになったかしらね」という内容です。

戸を叩いたのは道長だという想像も成り立ちますが、それは明記されていません。本当のところは不明です。しかも紫式部は、戸を開けずに、拒否したことになります。

その後、紫式部と道長の仲はどうなったかというと、もはや何の歌のやりとりもなく、記録も残っていないため、まるで分かりません。

■いったい誰が戸を叩いたのか

ただし、紫式部は分別盛りの30代後半(今日だと、50歳)、道長は40半ば(60すぎ)で、初老の身。もしや何らかの関係があったとしたら、まさに「老いらくの恋」ということになりましょう。

今井源衛氏は『人物叢書紫式部』(吉川弘文館)のなかで、こんなふうに書いています。

「……左大臣ともあろう者が、事前に何の手も打たず、前ぶれもなしに、いきなり夏の夜中にのこのこと女房の局の戸を叩きに出かけて、開けてももらえずすごすごと引き揚げるとは、何という醜態か。道長としては、出来が悪過ぎるのである」

いずれ、『源氏物語』と作者の紫式部があまりにも有名になったために、これらの歌の交換について、後世の人びとは、さまざまな解釈をしてきました。

今井氏は「日記にも家集にも相手が誰とはいっていない」のに、「藤原定家の撰した『新勅撰集』には道長だとある」と指摘。

根拠のない俗説をもとに、定家は「道長だ」と書き、さらにそれをもとにして、中世の『尊卑分脈』などの文書類が出現したのではないか、と説いています。

畳の上に置かれた巻物
写真=iStock.com/stoickt
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/stoickt

■史料に書かれた「紫式部=愛人」

『尊卑分脈』というのは、南北朝時代に編纂された諸家の系図の集大成ですが、そのなかで、紫式部の注に「御堂関白道長公妾云々」と記されていました。「妾」はいわゆる愛人(側室)ということで、最後の「云々」は「~と言われている」という意味です。

「それでは、やはり、道長の愛人だったというのは本当ではないか」と思われる方もあるかもしれません。が、これがおそらく定家の残した言葉の影響下にあること、くわえて「云々」と付けられていることに注目してください。

要するに「聞き書き」ということで、道長の系図中に「紫式部」の名があったとしても、事実かどうかは判ぜられない、ということです。

編纂者が、「紫式部は有名人だし、たしか道長公に雇われていたはず。それに艶っぽい歌も残っているし、『妾』というかたちで入れておこうか」などと考えたかもれません。

西暦1376年に成立したといわれる『尊卑分脈』ですが、源氏、平氏、藤原氏などの主要な系図集なので、たいそう貴重な史料と見なされています。けれど間違いも多く、とくに伝聞の記述については、かなり疑わしいようです。

角田文衛氏も、「一瞥したところでは、なんの不思議もない系図であるけれども、よく検討してみると(中略)、錯簡とも言うべき重大な誤写がそこに認められる」(『紫式部とその時代』角川書店)としています。

また、『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・伊井春樹氏も、その辺のことを語り、「……これだけの記述から先を読み取るのは不可能と言うほかはない」と結論づけていますし、例の『尊卑分脈』に関しても、ただの歌のやりとりからの「類推による」もので、取るに足らない、と見なしています。

■意外と病弱だった道長

もう一つ、これまた、今井氏の『人物叢書紫式部』に詳しく書かれていることですが、道長の健康状態はあまり良くなかった、という事実を付け加えておきます。

藤原道長といえば、つぎの歌が有名です。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

「この世は自分のものと思っている」などと歌に残した道長は、権力欲が強く、妻と愛人が何人もいましたので、精力がみなぎっている人物に思えますが、じつは意外と病弱だったみたいです。

長徳4(998)年、道長が33歳のときに大病を患い、死を覚悟したのか、帝に出家を願いでたことがありました。このときは無事に治りましたが、その後も、たびたび体調を崩すことがあったのです。

とくに道長が紫式部と歌のやりとりをした、といわれる寛弘5年の夏は、病気のために参内もしていません。

また、道長が著わした『御堂関白記』によれば、風病(風邪など)の記述も多く、50歳のときには「糖尿病」と疑われるような症状も出ていたようです。

■紫式部と道長の本当の関係

以上のように見てきますと、

「紫式部と道長の間に、恋愛関係はなかった」

岳真也『紫式部の言い分』(ワニブックスPLUS新書)
岳真也『紫式部の言い分』(ワニブックスPLUS新書)

それどころか、相聞歌めいた歌の交換も、ふたりのものではなかったのではないか、とすら思われます。

にもかかわらず、紫式部と道長のふたりを強引にむすびつけてしまう小説が最近、多く出まわっています。

知己の作家もいますし、ここでは書名と著者の名は出しませんが、いずれの内容も、ふたりは恋仲となり、式部は道長の愛人となる、というものです。なかには、ふたりの間には子どもも産まれ、紫式部が育てるなどという、とんでもない小説までが出版されています。

本書には、嘘偽りは書きません。道長は紫式部の良きパトロンであり、心と心の通いあう「ソウルメイト」だったのです。

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岳 真也(がく・しんや)
作家
1947年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院社会学研究科修士課程修了。2012年歴史時代作家クラブ賞実績功労賞、2021年『翔 wing spread』(牧野出版)で第1回加賀乙彦推奨特別文学賞を受賞。代表作に『水の旅立ち』(文藝春秋)、『福沢諭吉』(作品社)、ベストセラーとなった『吉良の言い分』(小学館)。最近作に『行基』(角川書店)、『織田有楽斎』(大法輪閣)、『家康と信康』(河出書房新社)など。現在、著作は170冊を超える。日本文藝家協会理事。

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(作家 岳 真也)

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