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パワハラ指導は指導者が楽をしているだけ…スポーツ界から「理不尽な指導」がなくならない根本原因

プレジデントオンライン / 2024年3月8日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/nito100

スポーツやエンターテインメント界では、いまだに先輩から後輩への「理不尽な指導」が横行し、痛ましい被害が絶えない。神戸親和大学教授の平尾剛さんは「根底には『理不尽を乗り越えなければ良い結果は出ない』という誤った考えがある」という――。

■2023年は「ハラスメント」の年だった

私にとって2023年は、この先も記憶に残り続けるに違いない。なぜなら、権力勾配に無自覚な「ハラスメント」がここまで社会に広がっていた現実を、まざまざと見せつけられたからである。

なかでもエンターテインメント界に君臨してきたジャニーズの消滅と、上級生からのいじめによる劇団員の急死が発覚した宝塚歌劇団の件には衝撃を受けた。華やかで、きらびやかに映る世界の裏側では目も当てられない人権侵害が渦巻いていたことに、いまもまだ驚きを禁じ得ない。

あわてて言葉を継げば、「驚く」というのはいささかナイーブすぎる。よくよく思い起こせば、これら一連の事態が私には「青天の霹靂(へきれき)」ではないからである。

■「人権軽視」の姿勢をずっと黙認してきた

ジャニー喜多川氏の性加害問題は、1965年に『週刊サンケイ』が報じてから、さまざまなメディアが報じてきた。宝塚歌劇団についても、劇団員に厳格なまでの上下関係が強いられる事実はさまざまな媒体が報じている。

阪神間に住む私は、駅のホームで走り去る阪急電車に頭を下げ続ける劇団員を実際に目にしたことがある。いじめによる自死が発覚したいまから思えば過剰だと感じられるも、当時は厳しい環境に自ら進んで身をおき、夢に向かって懸命に努力を続ける若者の姿として、むしろほほ笑ましく眺めていた。

つまり私は、襖(ふすま)一枚隔てるほどの距離感で人権軽視の気配を感じ取ってはいた。にもかかわらず、それをゆるがせにし、異議申し立てもしなかった。ゆえに問題が明るみになったいまになって、これ見よがしに驚いてみせるのは欺瞞(ぎまん)以外のなにものでもない。「やっぱりそうだったのか」というのが正直な心境で、驚いてみせるという態度はうしろめたさから逃れる言い訳にすぎない。

もしあのとき異議申し立てをしていたとしても、これらの事態を防げたかどうかはわからない。おそらくなにも変わらなかっただろう。そうであったとしても、この自責の念を手放すことはできないし、してはならないだろう。同じ社会を生きるひとりの人間として、すべきことを放念してきた過去を反省したうえで今回は書きたい。

■「結果さえ出せば手段は問わない」という共通感覚

華やかできらびやかに映る世界の裏側には人権侵害がはびこっている。この構図はそのままスポーツ界にも当てはまる。

指導者や年長者からの暴力や暴言は、部活動からプロスポーツに至るまで枚挙にいとまがない。大阪市立桜宮高等学校(当時)のバスケットボール部員が顧問の暴力を苦に自殺した2012年以降、暴力根絶が目指されながらもいまだにこのテの事件は頻発している。指導者と選手、先輩と後輩のあいだでのハラスメント事例は後を絶たない。

エンターテインメント界およびスポーツ界でハラスメントが横行している背景には、「結果さえ出せば、その手段は問わない」という考えが通底していると思われる。

華やかな歌と踊りや卓越したプレーと勝利。それさえあればいい。観る者をエンパワーメントできているのだから、そこに至るプロセスにはとやかく言わない。少しくらい常識を逸脱する言動が見受けられても、相応の結果を出しているのだから仕方がないと、積極的に見過ごされてきた。

私たちが抱く「結果さえ出せば、手段は問わない」という共通感覚が、エンタメ界およびスポーツ界でのハラスメントを見て見ぬふりさせてきた。

■「理不尽を乗り越えなければ良い結果は出ない」という思い込み

いや、エンタメ界やスポーツ界だけではない。平成元年の新語・流行語大賞に「セクシャル・ハラスメント」が選ばれてからずっと、社会のあちこちでハラスメント事例が炙り出されている。人権を軽視した各種ハラスメントの横行は、いまに始まったわけではないのだ。

社会がまるで悲鳴を上げるように警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、目を見張る結果が出ているのだからと、それに至る手段には目を向けずに私たちは放置してきたのである。

抜本的にハラスメントをなくすには、まず「結果さえ出せば、その手段は問わない」というこのまなざしを、問い直さなければならないだろう。

この共通感覚の前提には、「苦痛や理不尽を乗り越えなければハイパフォーマンスは叶わない」という、別の信憑(しんぴょう)がある。苦痛や理不尽に耐え、歯を食いしばって乗り越えなければハイパフォーマンスは発揮できないと、多くの人が思い込んでいる。ハイパフォーマンスには苦痛や理不尽がつきものだと考えているからこそ、少々の厳しさならば仕方がないと結論づけるわけだ。

「ハラスメントはいけない」→「だが多少の苦痛や理不尽は必要」→「結果が出ているのだからよし」というように。

■楽しくラグビーをしていても日本代表になれた

長らくラグビー選手だった私は、「苦痛や理不尽を乗り越えてこそハイパフォーマンスが叶う」というこの考えを、懐疑的に捉えている。苦痛や理不尽を耐え忍んだ経験がないわけではないものの、選手時代の大半は楽しく愉快に取り組んでいたからだ。むしろ楽しめたからこそ19年ものあいだ競技を続けられたし、その結果として日本代表にも選ばれたのだと思っている。

しばしば伸び悩む時期は訪れたし、チームメートとのコミュニケーションに苦労したことも数知れない。不調に苦しみ、もがいたこともある。だが、主観的には耐え忍んだとは感じていない。ときに苦痛をともなう困難がありながらも、総じて楽しく、愉快にラグビーというスポーツに向き合ってきた。

スポーツをする上で厳しさが必要なことは否定しない。困難を乗り越える経験の積み重ねが人を成熟に導くことにも異論はない。

■ただ困難を与えればいいというものではない

元プロ野球選手のイチロー氏が、学生野球を取り巻く環境について「今の時代、指導する側が厳しくできなくなって。何年くらいになるかな。(中略)これは酷なことなのよ。高校生たちに自分たちに厳しくして自分たちでうまくなれって、酷なことなんだけど、でも今そうなっちゃっているからね」と言及している通り、まだ未熟な若者には、ときに厳しさがともなう大人の導きがいる。

イチロー
イチロー(写真=Derral Chen/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons)

だからといって、ただただ困難を乗り越えればいいというものではない。

苦痛や理不尽などの厳しさを、本人がどのように乗り越えるかが大切だからだ。厳しさと対峙(たいじ)する主体が楽しいと感じられなければ、スポーツ活動は単なる苦行へと成り下がる。

端から見れば苦痛や理不尽に顔を歪めているように見えても、心の奥底では楽しくてそれに取り組んでいる。いまはできないがいずれできるようになるという見通しのもとに、厳しい練習を自らに課す。心身がヘトヘトになりながらも継続できるのは、主体的には楽しんでいるからにほかならない。「苦痛や理不尽を楽しむ」というアクロバティックなこの心境こそ、成熟への階梯を上るためには欠かせないのだ。

■選手にない発想をどう提示できるかが指導者の腕の見せどころ

私に言わせれば、パフォーマンスを高めるには苦痛や理不尽などの厳しさを単に乗り越えればよいという信憑は、短絡でしかない。その壁をどのように乗り越えればよいかという視点が欠落しているからである。指導者や年長者は、とにもかくにも厳しさを与えればよいわけではなく、楽しく、愉快に取り組めるように選手や後進に促せるかどうかが腕の見せどころとなる。

語気を強めた命令口調での言葉がけもあれば、語調はソフトながら、その内容はとてつもなく厳しいという言葉がけだってある。

一言で厳しさといっても、それを表現する方法は工夫次第でどうにでもなるし、先のイチロー氏も「本人の発想にはない高いレベルを提示してあげるなどして導くコミュニケーションは、若い人の成長を大きく促すと思います」と、厳しさの押しつけではないコミュニケーションの重要性を語っている。

試合前に手を積み重ねるサッカーチーム
写真=iStock.com/Ridofranz
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ridofranz

■理不尽な指導はいつか成長を頭打ちさせる

もっとも、ただただ厳しさを押しつけ、それを乗り越えるように急かしてもそれなりには成長する。生ぬるい環境よりも教育的効果が高いのは確かだ。

だが、この指導方法ではいつか頭打ちとなる。理不尽に耐え忍ぶことで身につくのは、従順さでしかないからである。創造性は、主体的に取り組む姿勢からしか生まれない。誰かの指示を待ってしか動けなくなれば、伸び悩むのは必然だ。小成は大成を妨げるのである。

また、単に厳しさを押しつける指導は脱落者を量産する。首尾よくそれを乗り越えた一部のサバイバーはいいが、人知れずその道から外れゆく者たちを構造的に生み出す。耐え忍ぶか諦めるかという選択を強いるのは、もはや教育や指導ではなく、選別でしかない。

一部のサバイバーと、大量の脱落者を生み出すこの選別的指導法は、少子化や人口減少のフェーズにあるいまの社会にそぐわない。なにも全員をプロに育てよというのではない。プロになれずとも、せめて当人がそのプロセスや営みを肯定的に捉え、好きでい続けられるような指導をこそ目指さなければならない。つまりは誰一人取り残さないような心がけが求められる。

■理不尽な指導は「手っ取り早くて楽」

繰り返すが、苦痛や理不尽を本人がどのように乗り越えるかが大切だ。自らの至らなさを自覚したときの自信喪失や見通しが立たないことへの漠然とした不安、論理的に説明できない事態に立ち向かうときのいら立ちや逡巡(しゅんじゅん)を抱えながら、自問自答を繰り返すことで人は成熟を果たす。その結果としてパフォーマンスは高まる。

このプロセスをじっくり見守り、成熟へと導くコミュニケーションの仕方を、指導者や先輩は身につけなければならない。

いま、指導者や年長者に求められるのは、手っ取り早く相手を変えようとする、いわば促成的な手段としてのハラスメント的な言動ではなく、当の本人がプロセスそのものを楽しめるような促しだ。相手の成長をじっくり待ちながら、焦れる己を制御しつつ慎重に言葉を選ぶという構えなのである。

人間はか弱き存在である。踏みつければ踏みつけるほどにたくましくなる雑草ではない。雑草のようにたくましくありたいと願いながらも、ときにガラスのように壊れてしまうこともある。

か弱き者が、その弱さを経て強くなるためには、他者から注がれる温かなまなざしがいる。指導者や先輩が後ろ盾となり、ときに叱咤(しった)しながらも苦痛や理不尽に立ち向かう後進の背中をそっと押す。その人がその人らしくあるためには、少しだけその先を歩く年長者の包み込むような言動が不可欠だ。

■「結果さえ出せば手段は問わない」という思考からの卒業

華々しい結果だけに目を奪われることなく、それに至る手段をも注視する。個人の自由と尊厳を重んじるいまの時代はとくに、望まれる結果を手にするまでのプロセスを大切にしなければならない。誰しも聖人であれといっているわけではない。長期的なスパンで人の成熟を見守る目を育み、社会生活全般を人権という物差しでいま一度考え直してみませんかと、呼びかけているだけである。

宝塚歌劇団では、睡眠時間を削らなければこなせない過密スケジュールや、去りゆく電車に頭を下げるなどの無反省に繰り返されてきた儀式的な上下関係などが、伝統を重んじるというもっともらしい理由で今日まで続けられてきた。

スポーツ界でも、どのような状況であっても先輩や来客へのあいさつを欠かさない形だけの礼儀や、軍国主義的なふるまいが続いている。こうした旧態依然のしきたりにもピリオドを打たなければならない。

これまでの慣習や考え方をアップデートするにはそれなりの労力を必要とするし、勇気もいる。ただ耐え忍ぶのではなく、愉快に楽しむを美徳とし、厳しくも楽しいという雰囲気を作る。これはすなわち人権を重んじることにほかならない。

人権という観点から慣習や考え方を見直す。これがハラスメントをなくすための出発点であり、まず見直すべきなのが、「苦痛や理不尽を乗り越えなければハイパフォーマンスは叶わない」を前提とする「結果さえ出せば、その手段を問わない」という考え方だと私は思う。

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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。

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(神戸親和大教授 平尾 剛)

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