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毒母からあらゆる虐待を受けてきた4歳の女の子が、生まれたばかりの弟の首を絞めた"悲しすぎる"理由

プレジデントオンライン / 2024年3月7日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/stevanovicigor

肉体的、精神的ネグレクトなど、ありとあらゆる虐待を母親から受けてきたノンフィクション作家の菅野久美子氏。4歳のときに弟が生まれてから、母の無関心はさらにエスカレートしていった。母の愛を独占する弟が憎くて憎くてたまらなかった4歳の菅野氏は追い詰められ、ついに弟に手をかけてしまう――。

※本稿は、菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■生涯にわたって私を束縛した母の言葉

私が4歳のとき、弟が生まれた。母のお腹が日に日に大きくなっていくのを横目で見ながら、私は子ども心に、どこか不穏なものを嗅ぎ取っていた気がする。身重になった母は、自分のお腹を撫でさする時間が増え、それはとても愛おしそうだった。

そしてほどなくして、衝撃的な事件が起きた。

びっくりするほど小さくて頻繁に奇声を発する、へんてこな生き物が私の前に突如として現れたのだ。それは生まれたばかりの弟だった。母は、そのへんな生き物を愛おしそうに腕に抱き、頬ずりした。いつもと違う様子に感じた胸騒ぎを、私は今でも覚えている。そして、それは的中した。

そのときから母の関心は、がらりと変わった。どんなに私が「お母さん」と言っても、かまってもらえず、無視される。いつからか母の口からは「お姉ちゃんなんだから」という言葉が、しょっちゅう飛び出すようになった。その言葉は生涯にわたって、私を束縛した。

■弟が生まれて、私は透明人間になった

確かに弟は可愛かった。それは一般的な男の子よりも中性的だったからだ。

弟は今でこそ背が高くなり、がっちりした男らしさがある男性になったが、生まれたときから3歳くらいまでは目がくりくりとした、まるで「女の子のような」容姿をしていた。

そんな弟は、近所でも評判の子どもだった。

弟はベビーカーに乗っていても、中年の女性たちからいたるところで声をかけられた。「あの子、女の子みたいね。あら、男の子だって」「かわいいね」。そんなとき、母はまんざらでもないという顔で、笑顔を振りまいた。私はそのベビーカーの後ろをただただ、存在を消してついていくしかなかった。

母にとっては、弟はとにかく何よりの自慢の種(たね)だった。母は、弟が生まれてから、私を意図的にいないものとして扱うようになった。けっして忙しいからではない。私という存在を徹底的に無視するようになったのだ。どんなに母を呼んでも、甘えても、目を向けてもらえない。返事もしてもらえない。そんなことが増えはじめた。

まるで私は透明人間だった。弟が生まれてからというもの、そうやって母からネグレクトされる日々がぐんと多くなっていた。母の乳房も、愛情も、すべて弟のものになった。それは、私の自尊心をズタズタにした。

■虐待は、母の愛の証しだった

しかし、そんな私が唯一、母から愛情を受けることができる瞬間があった。それは、虐待されるときだった。弟が生まれてからも、母の虐待はまったく止む気配はなかった。

むしろ、逆にひどくなるばかりだったと言っていい。母は、弟が生まれてから外の顔と内の顔を巧みに使い分けるようになったのだ。家の外ではママ友たちに愛嬌(あいきょう)を振りまくようになり、家の中では私への虐待をエスカレートさせていった。しかし、弟に手を上げることは一度もなかった。

母は弟の育児のストレスのはけ口を、露骨に私にぶつけるようになったのだと思う。母にとって、私は完全にお荷物でしかなかった。それを、私も重々承知していた。

それでも母の暴力をただひたすら受けているとき、それは、私にとって母の愛を一身に浴びられる貴重な、喉から手が出るほど望んでいた瞬間でもあった。このときばかりは、母が私に向き合ってくれるのだから。

当然ながら子どもにとって、親は神のように絶対的な存在である。私は、母に与えられるこの痛みこそが、母のかたちを変えた愛情なのだと思い込むようになった。それは幼少期に母に植えつけられたバグなのだろう。バグは、今も私の人生に多大な影を落としている。

犬にベルを鳴らしてえさを与えると、ベルを鳴らしただけで唾液を分泌するようになる。それをパブロフの犬という。私にとって虐待は、母の愛の証しだった。私はパブロフの犬と同じく、痛みを与えられると、母から愛情を注がれる喜びを感じるようになった。そして今もパブロフの犬のように、愛情と痛みを切り離せないでいる。

すべての根源には弟という異質な存在の出現があった。

■生まれたばかりの弟の首を絞めた日

とにかく私は、弟が憎くて憎くてたまらなかった。幼少期の記憶にあるのは、母からされた虐待と、弟への強烈な憎悪だ。やり場のない感情の風船は、最初は小さかったが日に日にふくれ上がっていく。今思うと、その中身は、ただただ「私を見て」という悲しみに満ち満ちていた気がする。そのひたむきで真っ黒な感情を、どうしようもなく制御できなくなっていた。

弟が邪魔で仕方がなかった。母の愛を独占し、周囲から愛(め)でられ加護される、この小さな生き物さえいなければ、母が私を見てくれるのではないか――。そんな思いは日に日に強くなっていくばかりだった。

あの日は、今でも忘れられない。それは、ひもじい思いの詰まった風船が「パチン」と弾けた瞬間だった。

母が買い物で外出した午後のこと――。気がついたら私は、ゆりかごの中でスヤスヤと寝息を立てている弟の首に、手をかけていたのだ。

じわじわと私は弟の首を絞めあげていく。

「びえええん!」

弟の顔は徐々に赤らんでいき、尋常ではない声で泣き叫びはじめた。苦しみのあまり、弟の泣き声は極限へと高まっていく。

「どうしたの? 何があったの? こんなに泣いちゃって。かわいそうに」

数分くらいの時間が流れただろうか。隣に住むおばちゃんの声で、私は我に返った。おばちゃんは縁側からヒョイとうちの居間に上がると、弟を布団から抱き上げてあやし出した。私は、とっさにそ知らぬふりをした。

「だって突然、泣きはじめたんだもん!」

そんなことを言った気がする。

「おぉ、よしよし。かわいそうに。お母さんはどうしたの?」
「買い物に行った」

私はぶっきらぼうに答えて、踵(きびす)を返した。

■子どもを追い詰める親のネグレクト

優しく抱き上げられる弟が、私はやっぱり憎らしかった。あのまま首を絞め続けていればよかった、とすら思った。そうすれば、この不愉快な生き物はこの世界からいなくなるのだろうか。あわよくば何事もなかったように消えてほしい。それが私の心に湧き上がる嘘偽りのない正直な感情だったと思う。

いつだって、誰かの温かな手の中に収まる弟。それに比べて私は、つねに手を振りほどかれる待遇に甘んじていなければならなかった。本当は母に甘えたいのに、私は、いつしか手を差し出すことすらためらうようになった。

この殺人未遂ともいえる事件、いやれっきとした殺人未遂事件を、弟はまったく覚えていないだろうし、生涯をとおして、私だけの秘密として墓場に持っていくと心に決めていた。

菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)
菅野久美子『母を捨てる』(プレジデント社)

それでもこうして文章にしているのは、親のネグレクトがここまで子どもを追い詰めるという恐ろしい現実を、できるだけ多くの人に知ってほしいからだ。弟には申し訳ない気持ちで、あのときのことを謝りたいと思っている。

もしおばちゃんが弟の泣き声に気づかず、そのまま私の凶行が止まらなくなり、弟が重い傷を負ったり、死んでいたらと思うと胸がつぶれそうになる。少しでも首を絞める力が強ければ、弟は今この世にいないかもしれない。

当時の私は、善悪や命の重みを今のように客観的に捉えられる年ではなく、幼過ぎた。だからこそ、感情のおもむくままに弟に手をかけたし、それが悪いことだとすら思わなかった。それほどまでに、母の愛を渇望してやまなかったからだ。そして、幸いなことになんとか弟を殺(あや)めずに済んだから、今の私がある。

それを考えると、あのときの私は、いや私たち一家は、いつ崩壊するともしれない危ういバランスの中にいて、生きるか死ぬかの瀬戸際にあったのだ。

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菅野 久美子(かんの・くみこ)
ノンフィクション作家
1982年、宮崎県生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像学科卒。出版社で編集者を経てフリーライターに。著書に、『超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる』(毎日新聞出版)、『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』(双葉社)、『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』(彩図社)、『家族遺棄社会 孤立、無縁、放置の果てに。』(角川新書)などがある。また、東洋経済オンラインや現代ビジネスなどのweb媒体で、生きづらさや男女の性に関する記事を多数執筆している。

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(ノンフィクション作家 菅野 久美子)

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