富士山より高い4000mタワーを多摩につくる…正力松太郎が本気で計画していた「読売タワー」の空前絶後
プレジデントオンライン / 2024年3月21日 6時15分
■よみうりランドに富士山より高いタワーを建てろ
1966(昭和41)年、正力がバックミンスター・フラーに4000メートル級のタワーの設計を依頼した。建設場所は読売スター・ドームのある多摩丘陵のよみうりランド周辺だ。
フラーは高さ3700メートルと説明しているが、日本テレビの資料『550mテレビ塔設計に関する考察』(1968年6月)では4000メートルとあるので、ここでは4000メートルと表記する。
いずれにせよ富士山と同程度の人工構造物を立ち上げるプランだ。大風呂敷を広げるのは正力の常であったが、本人は至って本気だった。フラーと共同で計画を担った日系二世のアメリカ人、ショージ・サダオによると、正力はタワーの名前を「世界平和祈念塔(World Peace Prayer Tower)」にするつもりだった。
正力は敬虔な仏教徒で、1964(昭和39)年に開園したよみうりランドにもパゴダ(仏塔)や仏像などが点在する「聖地公園」をつくらせていた。
しかし、フラーはこの名前に難色を示す。塔をつくっても祈りの役には立たないとフラーは考えていた。科学者であるフラーは、自らの設計した建物に宗教的な意味が付与されることを嫌ったのかもしれない。
■塔の名前は「読売タワー」
名称変更を条件に設計を引き受けたフラーは「ワールド・マン・タワー(Tower of World Man)」とすることを求めた。この年、フラーは、講演をもとにした書籍『World Man』を著している。
この講演でフラーは、「どこに住んでいるのかと聞かれたら、私は『地球という小さな宇宙船で暮らしている』と答える」と語った。世界が抱える人口問題、環境問題、資源問題を解決するには地球規模で考え、グローバルな視野を持たなければならないと主張した。つまり、タワーを単なるシンボルとするだけでなく、実際に諸問題を解決する手段として構想しようとした。
だが、「世界平和祈念塔」にせよ「ワールド・マン・タワー」にせよ、浮世離れした名前であることには変わりなかった。結局、この塔は一般的には「読売タワー(Yomiuri Tower)」と呼ばれることになる。
■建築士「設計上の問題はありません」
正力の依頼を引き受けたフラーは、1966(昭和41)年八月に富士山に登っている。これは4000メートル級タワーの設計を念頭に置いた「現地視察」だった。
当時フラーは71歳。日本最高峰に登頂するには体力が懸念されたが、同行した正力の側近、柴田秀利とともに山頂まで登りきった。正確に言えば、自らの足で登ったわけではない。ブルドーザーが2人を頂上まで連れて行った。
富士山では、物資を頂上へ運ぶ方法としてブルドーザーが用いられている。前面に取り付けられた大きなシャベルの中に分厚い毛布を敷いたソファを置き、2人はそこに座ったまま富士を登った。音はうるさかったが、煙草をくゆらせながらののんびりした登山だったと柴田は振り返る。
富士登山を終えて東京に戻ったフラーに正力が尋ねた。「どうです、四千メートルの塔ができますか」。フラーは、「設計上の問題はありません。ただし耐震対策、風圧計算等、或る程度の実験をする必要はありますよ」と実現に自信を見せた。
■タワーの近くに3000メートルのピラミッド
富士登山を終えるとフラーとサダオは4000メートルタワーの研究を本格化させた。その年の12月に1万語に及ぶ報告書を完成させる。
「富士山ほどの高さであっても、その当時使われている技術で対処できないものは何もないことが判明した」と4000メートルタワーが技術的に可能であると結論付けた。
では4000メートルタワーの具体的な中身を見てみよう。タワーは3本脚の鉄塔で、テンセグリティ・マストによって構成されたものだった。テンセグリティ(tensegrity)とは、tension(張力)とintegrity(総合)をつなげたフラーの造語である。
柱同士をつなげることなく、張力を用いて一体化する構造で、少ない材料で強い建物がつくれるという特徴を持つ。
中央に4000メートルの塔が据えられ、その塔は6本の支持ケーブルでつながれた3つの四面体(三角錐)で支えられている。この四面体は中央の塔と比べて低く見えるが、その高さはエッフェル塔と同程度の300メートル超に及び、集合住宅として使われることが想定された。
中央の塔の約600メートル以下の部分にはオフィスが入るほか、商業施設やスタジアムの整備も想定されていた。中央の塔の主な目的は電波塔だが、展望塔としての機能も有し、頂上には日本列島を一望できる展望台が設計された。
■時速36キロで昇るエレベーター
展望台へ向かうエレベーターは、一度に400人から500人を運べる五階建てで、「縦に移動する鉄道」と言ってもよい大きさだった。速度は分速600メートル。最高部の展望台まで約7分で到達する計算だ。なお、1968(昭和43)年完成の霞が関ビルのエレベーターが分速300メートルであるから、その二倍に及ぶ。
ちなみに、読売タワーの検討から遡ること10年前、建築家のフランク・ロイド・ライトが、高さ1マイル(約1.6キロ)のジ・イリノイ(マイル・ハイ・イリノイ)を公表している。そのビル内には分速1マイル(約1600メートル)の原子力エレベーターが想定されていた。
4000メートルタワーの2.7倍の速度であったが、ライトの提案自体、実現可能性が検討されていたわけではなく、あくまでもアイデアレベルにとどまっていた。
一方、読売タワーでは高速化に伴う問題が考慮された。4000メートルもの高さを急激に移動すると、気圧の変化で身体に影響が出てくる。そこで、エレベーターの気密性を高めることが考えられた。
なお、気圧を制御するエレベーターは、のちに台北101(2004年完成、高さ509メートル)で実現することになる。
また、高速エレベーターが故障した場合には、最上部からヘリコプターで救助する方法も検討されていた。
■建設費用は2160億円
問題は建設費用だ。正力から依頼された建築構造学者の内藤多仲が、タワーの建設費を試算している。フラーとは、ともに屋根付き球場の検討にあたった間柄である。
内藤の試算を見てみよう。高さは、内藤が設計した東京タワーの約12倍。鉄量は高さの自乗に比例すると考えれば、およそ150倍の鉄量を要することになる。東京タワーの鉄が3600トンであるため、その150倍で54万トン。1トン当たりの鉄の価格を40万円(当時)と仮定すると計2160億円かかる。
内藤は、「いずれにしても大き過ぎ、我々の経験をはるかに超越しているので工費の推算は困難である」と、この計算があくまでも概算にすぎないことを強調している。正確な見積もりではないとしても、予算内に到底収まりそうもなかった。
読売側が提示した予算限度額は3億ドル(1ドル360円として1080億円)だった。内藤の概算はその2倍である。
フラーは高さを2400メートルに抑えれば3億ドルの予算内で建設可能としたが、2400メートルと仮定しても東京タワーの高さの7倍以上。途方もない高さであることに変わりはなかった。
■ソ連の建築家に助言を求めると…
4000メートルタワーが計画されていた当時、世界は冷戦の只中にあった。内藤多仲によると、正力はこのタワーをアメリカ、日本、ソ連の3カ国の建築家に設計させて、親善のシンボルにする意向を持っていた。正力が当初「世界平和祈念塔」と名付けようとしていたように、冷戦時代の平和の象徴にしたかったのかもしれない。
3カ国の建築家とは、アメリカがバックミンスター・フラー、日本が内藤多仲、そしてソ連の建築家がニコライ・ニキーチンである。
ニキーチンは、モスクワ近郊で建設されたテレビ電波の送信塔、オスタンキノ・タワーの設計者である。このタワーは、1967年に十月革命50周年を記念して建設された。完成時の高さは537メートルで、自立式電波塔としては東京タワーを抜いて世界一となっていた。
内藤は、ニキーチンに4000メートルタワー建設について助言を求めた。だが、ニキーチンの返事は芳しいものではなかった。理論上は実現可能だが、データが不足しているので難しいと見ていた。内藤も同様の見解を持っていたようだ。
富士山を超える高さであるために、通常のビルとは異なる過酷な自然環境を想定して設計しなければならなかった。
タワーの表面を覆う厚さ30センチの氷、氷が落下するエリアの安全対策、時速400キロの風に耐える構造等、克服すべき技術的課題はあまりにも多かった。
■一辺が3.2キロ、200階建ての巨大な四面体
検討の途中で正力は、100万人が生活できる空間に再編することを要求した。もともと読売タワーを支える3つの建物にも住宅を設ける想定だったが、これを拡張し100万人が居住できる案へ変更されることになる。
その結果、一辺2マイル(3.2キロメートル)の四面体(三角錐)の建築物として再考された。フラーはこれを四面体都市(Tetrahedron City)と名付けた。
200階建ての巨大な四面体の斜面に沿って段々畑のように住宅を配置するもので、世帯当たり200平方メートルの住宅を30万世帯分、合計100万人が暮らせる計算だった。
住居の半分はガーデニングやレクリエーションが楽しめるスペースで、50階おきに広い空中公園が設けられる計画だった。
正力が100万人の垂直都市への変更を求めた背景には、首都圏の人口増加と住宅不足があった。当時、多摩丘陵では大規模な住宅団地「多摩ニュータウン」の開発が始まろうとしていた。多摩ニュータウンは、東京都心で働くサラリーマンのベッドタウンとして、1966(昭和41)年12月に事業決定がされた。
多摩ニュータウンは面積3000ヘクタールで計画人口34万人。これに対して、四面体都市は、100万人をわずか440ヘクタールの土地に収めることができる超高密都市だった。
高騰する地価、増え続ける人口といった都市問題を解決する手段として四面体都市が位置付けられたわけである。都心との間を「超高速道路」で結び、大量の人を運ぶことが構想された。
超高速道路を100万人都市から都心へ通う通勤者の足にする一方、東京から四面体都市を訪れる観光客の交通手段にする算段だった。
■計画が頓挫した当然の理由
その後この案は、東京湾に100万人居住の四面体都市を浮かべるプランに発展していった。海上にあればすぐに移動できるし、原子炉の熱で海水を淡水化し、廃棄物をリサイクルしながら、気軽に地球を一周することができるといった壮大なアイデアだった。
結局、これらの一連の計画は最終的に頓挫する。前述のとおり、建設費用が当初の想定以上にかかることに加えて、技術的にも困難を極めたことがその理由だった。
内藤は、フラーの計画を「夢以上と思わるる奇想天外の案」と評した。その奇想天外の案を支えたのは正力だった。
屋根付き球場計画以来、フラーと正力を傍で見ていた内藤は、「フラー博士の哲学的超世間的な点が正力さんとピタッとあい、大分共鳴したのであった」と述べている。
フラーと正力の荒唐無稽さにあきれながらも、その規格外の発想に没頭する無邪気さに、ある種の羨ましさを感じていたのかもしれない。
屋根付き球場に続いて、フラーの4000メートルタワーも挫折した。しかし、それで諦める正力ではなかった。
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東洋大学理工学部准教授
1974年、茨城県生まれ。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了。博士(工学)。財団法人土地総合研究所研究員、東京工業大学助教等を経て、2024年2月現在、東洋大学理工学部建築学科准教授。専門は都市計画、建築・都市計画法制史。著書に『高層建築物の世界史』(講談社現代新書)、『高さ制限とまちづくり』(学芸出版社)、訳書にザック・スコット『SCRAPERS 世界の高層建築』(イカロス出版)がある。©新潮社
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(東洋大学理工学部准教授 大澤 昭彦)
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