なぜ「日本の偉人の墓」は全国に点在しているのか…遺体と霊を分ける日本固有の「仏壇」の不思議
プレジデントオンライン / 2024年3月14日 16時15分
※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
■仏壇のない家、仏壇の意味を知らない人が増えている
最近、特に都市部では仏壇がない家庭も多い。これは昭和30年代の高度経済成長の時代に郷里を離れて都会に移り住む人が急増し、田舎の実家には仏壇があるのでわざわざ都会の転居先にまで仏壇を持たない人が増えたことと、マンションなどに住む人が多くなって仏壇を置くスペースがなくなったことも原因と考えられる。
そして、都会で新たな生活をはじめた人たちは親との交渉も少なくなり、したがって先祖とのつながりも希薄になっていった。今は東京や大阪などの大都市では都会進出組の2世、3世、あるいは、4世が一家を構えている。だから、仏壇の意味が分からない人も少なくないようである。
■推古天皇の時代からあった「仏壇の一種」
『日本書紀』の朱鳥元年(686)の条には天武天皇が国ごとに仏舎を作って仏像をまつり経典を読誦せよとの勅令を発したと記されている。この「仏舎」は仏像を納める厨子の役割をしたようで、後に普及した先祖の霊を納める仏壇とは異なると考えられている。恐らく当時の豪族などの富裕な家に仏舎がそなえられたものと思われる。
また、それより早く推古天皇の時代(在位592~628)には法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)が作られたとされている。これは推古天皇の念持仏(個人的に礼拝するための仏像)を納めたものである。
また、同じく法隆寺には橘夫人念持仏厨子というものがあり、橘夫人の念持仏の阿弥陀三尊像が納められている。橘夫人は藤原不比等の妻で、聖武天皇の妃(きさき)の光明皇后の母である。これらも仏壇の一種と考えられているが、後に一般的になった仏壇のように先祖の霊をおさめるのではなく、あくまでも仏像をおさめる厨子だったと考えられている。
■かつて御所にあった仏間「二間」「黒戸」
また、平安時代には御所の清涼殿の東側に「二間(ふたま)」という仏間が設けられ、ここに歴代天皇の念持仏が納められていた。さらに、室町時代には清涼殿の北側に「黒戸(くろど)」という細長い部屋があり、二間とおなじようにここに歴代天皇の念持仏や位牌(いはい)、経典、仏具などが納められ、中に天皇が入って僧侶の加持祈祷(きとう)などを受けた。室内や戸が護摩の煤などによって黒くなっていることから黒戸と呼ばれた。
第101代・称光天皇(在位1412~1428)、第103代・後土御門天皇(在位1464~1500)は黒戸で崩御した。黒戸には位牌が納められていたことから、それ以前の仏像のみをまつる厨子よりも仏壇としての役割が大きかったと考えられる。ちなみに、御所にあった二間や黒戸は明治の初年に撤去されることになり、念持仏や位牌は京都の泉涌寺に移されることになった。皇室が率先して神仏分離をする必要があったためである。
■歴史上の偉人の墓が全国に複数ある理由
仏壇は中国やタイなど他国には見られない日本独自の風習で、檀家(だんか)制度が確立した江戸時代以降、一般家庭にも普及した。そして、日本で仏壇が特異な発展を遂げたことには日本古来の葬送儀礼と深い関わりがある。
古来、日本では遺体を埋葬する「埋葬墓」と死者の霊をまつる「詣り墓」とがあり、前者を「塔所」、後者を「廟所(びょうしょ)」と呼んでいた。そして、廟所については複数設けられることも一般的だった。源頼朝などの歴史上の人物の墓(廟所)が方々にあるのはそのためである。
このような遺体と霊をわけてまつることを「両墓制」と呼んでおり、これはインドなど各地に見られる墓制である。しかし、インドなどでは遺体は火葬にしてガンジス川などに流すが、死者の霊については特に仏壇や廟所のようなものを設けてまつる習慣はない。この点が同じ両墓制でも大いに異なるのである。
仏壇に死者の霊をまつる風習は日本の神に対する信仰(神道)に起源があるようである。日本の神はふだんは天界にいるのだが、その神を礼拝するときには神社の本殿や家庭などの神棚に招いて祈願をする。この習俗が仏壇での礼拝を可能にしたと考えられる。ちなみに、インドでも棚や机の上に祭壇を設けてシヴァ神などの神を礼拝する風習はあるが仏壇のような半固定的な設備を設けることはない。
■仏壇を購入・修理する時の独自の風習
われわれ日本人は、遺体や遺骨が埋葬されている墓所に行って供養をする一方で、家庭では仏壇に参って一家の安泰などを祈る。仏壇にはその家の先祖が宿り、これを鄭重にまつることによって生きているものに幸いをもたらしてくれると考えられているのである。
新たに仏壇を購入したときや修理が出来上がった時には「お霊(たま)入れ」という仏事を行う。「お霊入れ」を行っていない仏壇は食器棚や洋服ダンスと同様、単なる入れ物に過ぎない。しかし、「お霊入れ」を行うことによってそこに先祖の霊が入って来る準備ができるのである。
また、仏壇を買い替えるときや修理に出すときには「撥遣(はっけん)式」という儀礼が行われる。これは仏壇に宿る魂を抜き取る儀式で、これを行うことによって仏壇は単なる箱、入れ物になり修理の手を入れることが可能になる。そして、古い仏壇は粗大ごみなどに出すのではなく、寺院のお焚き上げなどで焼いてもらう。
「お霊入れ」や「撥遣式」は僧侶を呼んで行われるが、近年では菩提(ぼだい)寺を持たない人も多く、仏壇店が代わりに行い、要らなくなった仏壇は関連の寺院でまとめてお焚き上げを行うことが多くなってきている。
仏壇はインドや中国をはじめ他国には見られない日本独自の習俗である。そして、それは日本古来の両墓制に淵源し日本の神の信仰に基づくものである。一般庶民が年忌法要などを営み墓を建てるようになったのは室町時代以降のことで、このころから仏壇や位牌も一般に普及し、江戸時代になると、檀家制度の確立に伴ってほとんどの家庭に位牌をまつる仏壇が備えられるようになった。
■関西・北陸に豪華な金仏壇が普及した理由
最後に仏壇には大きく分けて「唐木(からき)仏壇」と「金(きん)仏壇」とがある。前者はケヤキなどで作った黒塗り、あるいは塗りを施さない素地のもので、主に関東以北で用いられ、後者は外側を黒塗りにして内部に金箔を貼った豪華なもので関西や北陸地方などで用いられる。
もともと仏壇は唐木仏壇のような簡素で小型のものだったと考えられる。しかし、室町時代に活躍した本願寺第8世の蓮如(1415~1499)が豪華な金仏壇を奨励した。そこで、京都を中心とする関西地方や西日本、蓮如が盛んに布教活動を行った北陸地方に金仏壇が普及したのである。
蓮如の時代、本願寺は参詣の人の姿も見えないほど荒廃しており、蓮如はその立て直しのためにさまざまな改革を行った。金仏壇の奨励も立て直しのために考案されたアイディア商品の一つで、高価な金仏壇を檀家が購入することで復興の浄財にあてたのである。このような経緯から、今も京都の本願寺の周辺には仏壇店が多く軒を並べている。
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文筆家、仏教研究家
1954年東京生まれ。早稲田大学大学院修了。東洋哲学専攻。仏教・インド関係の研究、執筆を行い現在に至る。著書は、『知っておきたい日本の神話』『知っておきたい仏像の見方』『知っておきたい般若心経』『よくわかるお経読本』『よくわかる浄土真宗 重要経典付き』『よくわかる祝詞読本』『教養としての「日本人論」』ほか多数。
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(文筆家、仏教研究家 瓜生 中)
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