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なぜ大谷翔平はどんな時も「1塁ベースまで全力疾走」するのか…高校時代から憧れ続ける「野球選手」の名前

プレジデントオンライン / 2024年3月19日 7時15分

公式戦初勝利を挙げた日本ハム(当時)の大谷翔平(=2013年6月1日、札幌ドーム) - 写真=時事通信フォト

大谷翔平選手は2013年、日本ハムに入団して「二刀流」に挑戦した。10年にわたり大谷選手を取材しているスポーツニッポン新聞社MLB担当記者、柳原直之さんの著書『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)より、プロ1年目のエピソードを紹介する――。

■大谷選手を困らせた初めての質問

2013年4月某日。初めて生で見た大谷は困惑の表情を浮かべていた。いや、正確に言うと「浮かべさせて」しまった。練習終わりに鎌ケ谷スタジアムの正面入り口で行われた囲み取材。終盤で大谷に「将来的に長嶋さんや松井さんのような国民的スターを目指したいですか?」と問いかけた。これが大谷に投げかけた初めての質問だった。

言い訳になる。この質問は事前にデスクから指示が飛んでいた。その日の練習内容には全く関係がなかったが、私はスポーツ紙の取材はそういうものなのかと疑問には思わなかった。当時の大谷と長嶋氏、松井氏との関連性は皆無だ。大谷は「いやぁ、特に……」と苦笑いしながら、首をかしげていた。

振り返れば、いかにもスポーツ紙らしい「見出し」を狙った質問だ。今でも反省している。当時の大谷の何とも言えない困惑した表情はこれからもきっと忘れないだろう。

■取材できる機会は原則「1日1回」

大谷は2012年秋のドラフト前にメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが強行指名。その後、何度も交渉を重ね、熟慮の末に入団を決意した。入団後の大谷のメディア対応は原則「1日1回」。理由はひとつ。投打二刀流でミーティングなどの準備、練習、体のケアなど、常に多忙を極めるからだ。このルールが、2017年の退団まで続き、後のエンゼルス移籍後も踏襲されていくことになる。

当時の私は、日本ハム担当の休日、もしくは日本ハム担当が別件で都合の悪い日を手伝う「遊軍記者」として、鎌ケ谷を訪れる機会が急激に増え始めていた。

スポニチの日本ハム担当は北海道総局(現北海道支局)所属で札幌在住のため、東京本社の記者が日本ハムの2軍取材をカバーしなければならなかった。主な目的は右足首痛のため2軍調整中だった大谷の取材。私が住んでいた千葉県船橋市の社員寮は鎌ケ谷まで電車で約30分と遠いわけではなく、地理的要因も大きかった。

■怪物揃いの中でも図抜けたポテンシャル

当時はファン、球界関係者含め、大谷の二刀流に懐疑的な見方が多く、注目度も今よりは限定的だった。だが、一度その投打を生で目にしたメディアやファン、相手チームは一様に驚きの声を挙げ、目を奪われていた。投げては150キロ台を何度も計測し、打ってはフリー打撃ではあるものの、驚異的な飛距離の柵越えを連発。怪物揃いのプロ野球の世界でも、ポテンシャルの高さが図抜けていることは明らかだった。

同じ4月のある日。極度の不振から2軍落ちを志願した当時40歳の稲葉篤紀(現日本ハム2軍監督)と交互にフリー打撃を行っている日があった。照りつける太陽の下、大谷は食い入るように柵越えを連発する稲葉の打撃を見つめていた。

稲葉は「(自身は)スイングが小さくなっていたので大きくすることを意識した。本塁打を狙いにいった。(自分に刺激されて)大谷は力んでいたけど……」と笑い、大谷は「稲葉さんの打撃はムラが少ない。一緒にやることで学ぶことが多い」と真剣な表情で話していた。

稲葉篤紀さん
稲葉篤紀さん(画像=Cake6/CC-BY-SA-4.0,3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

■稲葉氏は「選手だけでなく人間として尊敬する」

大谷は入団前から稲葉を憧れの人物に挙げ、後にその理由について「グラウンドに落ちているゴミがあれば拾い、全力疾走もする。選手だけでなく人間として尊敬する」と語っていた。大谷はメジャー移籍後、ゴミ拾いを含めたマナーの良さや礼儀正しさが注目されるようになるが、花巻東で過ごした3年間はもちろん、この稲葉との出会いから大きな影響を受けていた。

その後もよく鎌ケ谷に通っていたが、大谷の中で私の顔と名前は一致していなかっただろう。比較的選手と近い距離で話すことができるキャンプを取材していない遊軍記者の立ち位置は難しいものだ。そんな中、転機が訪れた。12月。私はスポーツ部野球担当になってから1年も経たずに、北海道総局に異動を命じられ、日本ハム担当を拝命した。

スポニチの日本ハム担当は主に球団幹部や監督ら首脳陣を担当するキャップ1人(先輩記者)と、主に選手を担当する記者1人(私)の2人体制。プロ1年目を終えたばかりの大谷は当時、二刀流としての地位を確立していなかったとはいえ、日本ハムで最大の注目選手だった。異動を命じられたのは12月のオフの自主トレ期間中。ここから大谷の一挙一動を追いかける日々が始まった。

■「二刀流として戦力になる」強いこだわり

12月28日。緊張感を覚えたと同時に、心が躍った。遊軍記者ではなく、担当記者として初めての大谷の取材は、花巻東の3学年先輩でもある西武の菊池雄星(現ブルージェイズ)とのトークショーだった。岩手県花巻市で開催された「ふるさと復興応援イベント」。東日本大震災の復興支援と地元への恩返しを目的に大谷と菊池の2人が発案し、野球少年ら約3000人を前に技術指導などを行っていた。

ここで大谷は2年目の2014年シーズンに向け、開幕からの二刀流出場に向けて力強い言葉を残した。1年目の2013年は打者としては開幕スタメンを勝ち取ったが、初登板は5月23日のヤクルト戦(札幌ドーム)だっただけに「シーズン最初から(二刀流を)見せられるように頑張りたい」と言い切った。当時の栗山英樹監督から先発投手として2桁勝利を厳命され「(投手と野手)どっちも最初から戦力として戦える位置にいたい」とどん欲だった。

■メジャー移籍後、練習相手は水原通訳だけ

さらに当時の取材メモを振り返ると、興味深い談話が残っている。この時、菊池は大谷から年明けに行う母校での自主トレに誘われたことを明かしたが「丁重にお断りしました」と説明した。その理由については「大谷もプロ。職場も違うし、バラバラで良い。カズさん(前楽天監督、現取締役シニアディレクターの石井一久氏)にも“縛っちゃダメ”と言われた。先輩風を吹かせたくない」と語っていた。

大谷は「人に興味がない」ため、誰かを練習に誘うことは珍しい。2014年と2015年の沖縄・名護で行われた春季キャンプ前には、1週間ほど早めに前乗りする「先乗り合同自主トレ」に初日から参加。2015年、2016年と2年連続でダルビッシュと都内で合同自主トレも行った。

だが、メジャー7年目に突入した2024年現在、大谷は先輩、同期、後輩にかかわらず誰かと自主トレを行ったり、誰かを自主トレに誘ったりするようなタイプではなくなっている。大谷の練習パートナーは、メジャー移籍後、日本への一時帰国中だろうと一貫して水原通訳のみ。自身の影響力の大きさを鑑みてか。注目度が高くなりすぎた故に周囲に気を遣うようになったのか。大谷の思考はもちろん、周りを取り巻く状況の変化が影響しているのだろう。

大谷翔平選手と通訳の水原一平さん
大谷翔平選手と通訳の水原一平さん(画像=Moto "Club4AG" Miwa/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

■プロ1年目の年末年始はベッドで過ごした

2014年1月3日。年明け早々に、私は再び大谷の地元岩手県を訪れていた。野球ファンであれば、テレビのニュースや新聞記事で選手が「自主トレ公開日」と称して、自主トレ後に取材を受けているシーンを見たことがあるだろう。

花巻市内の母校・花巻東で行われる大谷の年明け初練習がその「自主トレ公開日」に設定された。私にとって初めての「自主トレ公開日」の取材でもあった。

大谷は「背番号(11)に合わせて」午前11時11分に始動した。2番手投手で、その後慶大野球部でプレーしていた小原大樹さんら3人とキャッチボールやウエートトレーニング。最低気温マイナス2度。小雪がちらつく銀世界の中で汗を流したが、実は大谷はこの年末に体調を崩し、元日まで自宅で寝込んでいたという。

■「ひとつでも多くチームに勝ちをつけたい」

「吐いたりしたのは久々。なかなか良い経験でした」

前年12月30日の夜に異変を訴え、31日に病院へ行くと「感染性胃腸炎」の診断で点滴を受けた。大谷本人いわく「原因不明」で、39度の発熱。食事ものどを通らず、元日はおせち料理も食べることなく、ゼリー飲料のみで過ごした。初詣に出かけることもできず、初夢も「うなされて覚えていない」というが、体調が回復したこの日は、仲間との久しぶりの練習に笑顔が絶えることはなかった。

大谷は「今季の目標を漢字1字で」と問われると、「勝」を選んだ。聞けば2年連続らしい。しかし、その重さは違った。「昨年は勝たせてもらったシーズン。今年はひとつでも多くチームに勝ちをつけたい」。他人の力ではなく、自分の力でチームに勝ちをつける。「何とか2桁勝てるように頑張りたい」と具体的な目標も掲げていた。

■疲労を回復するための「定時起床」

その後は鎌ケ谷に拠点を移し自主トレを再開。同月12日の自主トレ後に大谷が「睡眠」について語った説明が、特に印象に残っている。「今は毎朝、午前7時15分に起きています」。前年10月、宮崎でのフェニックス・リーグで中6日で3試合に先発し、計19イニングで2失点、防御率0.95と手応えをつかんでいたが、その一方で、なかなか抜けない疲労感を覚えたという。

柳原直之『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)
柳原直之『大谷翔平を追いかけて 番記者10年魂のノート』(ワニブックス)

そこで日本ハムグループの管理栄養士に疲労回復方法を相談。「睡眠時間を一定にするより、朝起きる時間を一定にしたほうが疲労回復に良いと聞きました」と「定時起床」のアドバイスを受けていた。

起床方法はいたってシンプル。午前7時15分にセットした携帯電話のアラームで起きた後、朝風呂に入って目を覚ます。就寝時刻はバラバラでも同じ時刻に起きることで、体内時計が安定し、体に無駄なストレスがかからないという。2013年12月初めから実践し「シーズン中も続けていきたい」と話した。

メジャー移籍後、大谷がシーズン中の過ごし方として最も大切にする「睡眠」のこだわりは、この頃から本格的に始まった。

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柳原 直之(やなぎはら・なおゆき)
スポーツニッポン新聞社MLB担当記者
1985年9月11日生まれ、兵庫県西宮市出身。関西学院高等部を経て関西学院大学では準硬式野球部所属。2008年に三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)入行後、転職し、2012年にスポーツニッポン新聞社入社。遊軍、日本ハム担当を経て2018年からMLB担当。「ひるおび」「ゴゴスマ」(TBS系)などに随時出演中。

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(スポーツニッポン新聞社MLB担当記者 柳原 直之)

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