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研究開発でも練習量がすべてを決する -島津製作所社長 中本 晃氏

プレジデントオンライン / 2012年12月8日 17時0分

島津製作所社長 中本 晃 1945年、鳥取県生まれ。米子東高校から、69年大阪府立大学工学部卒業後、島津製作所に入社。品質保証部長、LC部長などを経て、2000年執行役員。01年取締役。07年専務取締役に就任し、広報、経理などを担当。09年より現職。一般社団法人日本計量機器工業連合会会長も務めている。

「社長就任おめでとう。君がある問題に直面されたとき、厳寒のなか、我等の柔道場に吹き込んできた雪を畳とし、こごえながら練習してきたときのことを思い出して乗り越えてください」

09年6月、現職に就いたとき、かつて一緒に汗を流した鳥取県立米子東高校柔道部の仲間が送ってくれた祝電には、こうしたことが綴られていた。とても嬉しく思いながら読んでいて、ふと頭のなかに浮かんできたのが井上靖の『北の海』である。

この小説を初めて手にしたのは1980年前後、島津製作所に入社してから10年くらい経った頃であった。もともと私は井上靖の著作が好きで、『氷壁』『敦煌』『天平の甍』などの代表作を読んでいた。そして、井上靖の自叙伝的な小説として有名な『しろばんば』の続編にあたる本書を開くと、その物語の世界のなかへ一気に引き込まれていった。

主人公の洪作少年は沼津の旧制中学を卒業したものの、上の学校の受験に失敗する。無聊をかこっていたある日、旧制四高(第四高等学校・現在の金沢大学)柔道部の部員と出会い、体の大きさや腕力に影響されがちな立ち技中心の柔道ではなく、寝技を中心とした「練習量がすべてを決定する柔道」があることを知る。そして、自分も四高で柔道をしたいと意を決するまでの話だが、私の青年時代とオーバーラップした。

小学校の頃、体があまり丈夫でなかった私は、学校を休みがちであった。中学校に入学した私は、体を鍛える目的で柔道部に入る。そして、柔よく剛を制す世界に魅了され、稽古に励んでいくうちに体力もつき、米子東高校へ進学した際には、柔道を続けることに何の迷いもなかった。

この米子東高校は1899年に創立され、旧制米子中学の流れをくむ歴史のある学校だ。柔道場は明治時代に建てられたものだった。それで建てつけが悪く、冬ともなると窓の隙間から雪が舞い込み、畳を白く覆った。しかし、そんなことなどお構いなしで、稽古に打ち込んだ。

「学をやりにきたと思うなよ、柔道をやりにきたと思え」「これから3年間、この世に女はないものと思え」

『北の海(上・下)』
井上靖著/初版1975年/新潮文庫

私も高校時代はそれに近いような毎日で、教科書は柔道場に置きっぱなし。合宿のときは、柔道部の稽古が終わると、今度は近くの警察署の柔道場に行って稽古を付けてもらうなどしていた。何の疑念も持たず、ひたすら練習する。日曜日以外はまさしく“柔道漬け”であった。

翻ってみて、この「練習量がすべてを決定する」ということは、私が携わってきた分析機器の研究開発の世界にも通じるものがあるように思う。大学で電子工学を専攻していた私は、島津製作所に入社してから液体クロマトグラフの開発に携わってきた。しかし、機械、物理、化学などさまざまな知識がないと、目指す機器のイメージができない。そこで、専門以外の論文を読んだり、実験を通して知識や経験を蓄えていく。そんな基礎的トレーニングともいうべきことをどれだけやり抜いたかで、開発した機器のよし悪しが決まる。

また、3年とまでいかずとも、1年くらいは寝食を忘れ、開発のことだけを考えて生活することも大切だった。そうして粘り強く取り組んだ結果、競合会社よりも優れた液体クロマトグラフを世に送りだし、年間売り上げ350億円の主力製品に育てることに貢献できたのだと思う。その意味で『北の海』は、わが人生を再検証させてくれる1冊のような気がする。

※すべて雑誌掲載当時

(島津製作所社長 中本 晃 伊藤博之=構成 坂本政十賜=撮影)

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