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つまらない人ほど「その話、オチは?」と聞く…オードリーを育てた放送作家が語る"面白いトーク"の本質

プレジデントオンライン / 2024年3月30日 14時15分

イタリアのラベンナで開催されるフィンスイミングワールドカップマスターズ大会の日本代表に決定した、お笑いコンビ「オードリー」の春日俊彰さん。「最高でも金、最低でも金」と意気込みを語った(=2015年5月7日、東京都) - 写真=時事通信フォト

どうすれば「面白いトーク」ができるのか。放送作家の藤井青銅さんは「私はタレントさんに対していつも『オチなんか、なくたっていい』と伝えている。落語でもオチ自体はいいかげんなものが多く、むしろオチにいたるまでの部分が面白いケースが多い。もし『その話、オチは?』と聞かれることがあれば、オチがないのではなく、トークが面白くないのかもしれない」という――。(第1回)

※本稿は、藤井青銅『トークの教室 「面白いトーク」はどのように生まれるのか』(河出新書)の一部を再編集したものです。

■日常会話に“オチ”は必要か

友達になにか話をしていると、たまに、「その話、オチは?」とツッコんでくる人がいます。とくに関西の人が多い。いや、これは偏見ですかね。関西芸人に影響された全国の人、でしょうか(これもまた偏見?)。

芸人同士の場合はそんな風にツッコむのも笑いを生みますが、芸人ではない普通のタレントさんに対して、私はいつも、「オチなんか、なくたっていいんですよ」と言います。誤解をしないように詳しく言っておきますと、「トークは、途中の話が面白ければオチはなくてもいい。もちろん、あってもいいけど」ということ。

たとえば、最後にアッと驚く大ドンデン返しの大オチがあるとします。しかし、そこに至るトークがえんえんと十分間退屈だったらどうでしょう? そんな話、聞く気になりますか? 逆に、途中のトークが面白かったら、最後は話の区切りさえつけばとくに大オチなんかなくてもいいのです。もう一回書きますが、あってもいいのですが。この話をする時に思い出すことが二つあります。「落語」と「欽ちゃん」。

まず「落語」から。落語は「おとしばなし」とも言いますから、たしかに最後に「オチ(通(つう)は気取って、サゲなんて言います)」があります。世の中の多くの人は、落語という芸は知っていても、落語を聞いたことがある方は、実は少ない。たいてい、テレビ番組「笑点」の大喜利くらいの認識でしょう。

■「落語のオチ」に本質的な意味はない

あれは落語家の余興ですから、一席の落語とは別物です。落語の演目として、多くの方がなんとなくイメージできるのは「寿限無(じゅげむ)」「饅頭こわい」「時そば」くらいでしょうか? ですから、なにか落語の話をすると、すぐに、「その落語のオチはなんですか?」と聞いてきます。

ところが少し落語を知っている人は、そんなことは言いません。「落語のオチは、いいかげんなものも多い」ということを知っているからです。もちろんよくできたオチもあるのですが、とってつけたようなオチや、ただのダジャレ、今となっては意味がよく通じないオチもあります。

最後に「そこは私の寝床です」なんてキメられても、普通の人は「?」でしょう。さらに落語は、噺(はなし)の途中で平気で切り上げたり、「〜の由来話でした」なんて言って終わる場合もあります。つまり途中が面白ければ、いちおう区切りがついたところで終わればいいのです。

もう一つ。欽ちゃん(萩本欽一)に番組で、コント55号当時のことを喋ってもらったことがあります。萩本さんは新人時代、プロデューサーにコントのネタ数を聞かれ、「無限!」と答えたとのこと。設定さえあれば、欽ちゃんは二郎さん(坂上二郎)をいじって、ツッコんで、転がして、いくつでもコントができるということ。

浅草演芸劇場
写真=iStock.com/TkKurikawa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TkKurikawa

■「ドカーンと受けたらオチだよ」

かつて岩城未知男さんが出した『コント55号のコント』という古い本を持っています。台本集です。岩城さんは、一般にはコント55号の座付き作家と言われている方。この本の「作者の言葉」には「私は、彼等のコントを二千篇近く書いて来た」とある(たぶんシャレだと思う)。

さらに「私は勝手に作者の立場でコントを書き、それを素材に彼等も、自由に演者の立場で別のコントに作り直すと云う様に、互いに、別の所で、別の作業を続けて来た」とある。これは本当でしょう。ですから、読んでみると一本のコント台本としては実に短い。その設定のキモをつかんで、欽ちゃんは長いコントを作り出していたんでしょう。では、コントのオチは?

「ないもん。オチって、ドカーンと受けたらオチだよ」

と萩本さんは答えました。つまり爆笑のコントを展開して、持ち時間が経過して大きな笑いがきたところで、欽ちゃんが「おしまい!」と頭を下げたら、結果的にそこがオチになるということ。

たしかに、『コント55号のコント』を読んでも、どのコントもオチはなんとなく一区切りになっているだけです。そう言われて思い出してみると、「その話、オチは?」とツッコまれる場合は、話の展開が面白くない時ではないでしょうか。

だらだらとたいして面白くもないトークを続けているから、せめてオチくらいバシッと決めてくれという意味でツッコんでいるのでしょう。トークの内容が面白ければ、わざわざ話の腰を折ってまで「オチは?」などとは聞かないのではないでしょうか。

■「面白い」にもさまざまな種類がある

一般的に、「面白い=笑える」と思っている方が多いでしょう。もちろんそれも大きな要素ですが、「面白い」は笑いだけではありません。

たとえば「このミステリー面白いよ」と誰かに薦(すす)める時、多くの場合そこに笑いはありません。ハラハラ、ドキドキ、アッと驚く謎解きが「面白い」のです。サッカーの試合だと、芸術的なシュート、神がかりのキーパー、針の穴を通すようなパスの応酬で点を取ったり取り返したりの試合は「面白い試合」ですが、この「面白い」も、笑いではありません。

向かい合って話し合うビジネスパーソンの手
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

「へ〜、そうなのか」と感心するのも、「なるほど!」と納得するのも、「すごい!」と驚くのも、「面白い」。「ええ話やなあ」も「せつないなぁ」も、「ワクワクする」も「感動する」も「泣ける」も……すべてが「面白い」。「面白い」にはそういう広い意味があります。

語源というのはどれもコジツケの感があるのですが、「目の前(面)」が「パッと明るく(白)」感じるから「面白い」、だと言われています。たしかに「そうだったのか!」とか「すごい!」は目の前がパッと明るくなる感じ。笑いもそうです。ですから、笑いというのは「広い意味での面白い」の中にある「狭い意味での面白い」だと思った方がいい。

芸人さんは目の前の人に笑ってもらいたいから、そこにこだわるのはよくわかります。けれど普通の人ならば、あまり「面白い=笑い」に縛られると、身がすくんでトークなんかできなくなります。そう、トークは笑えなくてもいいんです。

■「フリー」は完全な自由という意味ではない

ここでも誤解をしないように急いで言っておきます。もちろん人に笑ってもらうのは嬉しいし、場の雰囲気もよくなる。笑えるトークはいいことです。けれど、笑わせることが目的ではなく、なにかを伝える時に笑いもあるといいね、なくてもいいけど、ということ。こうやって見てくると、「エピソード」にも「オチ」にも「笑い」にも、そんなに縛られなくてもいいと思いませんか?

もっと自由に喋ってもいい。その自由さが「フリー」なのです。そう思うと、ちょっとは気が楽になります。とはいえ、「なにをどう喋ろうと、まったくの自由。好きにやっていいよ」と言われたら、人はかえってとまどうものです。

唐突ですが、フィギュアスケートに「フリー」という演技があるのはご存じでしょう。あれを自由気ままに滑っていると思っている方はいない。スピンとかジャンプとか、あらかじめ決められたいくつかの要素を盛り込んだ上で、組み立て方や表現は自由にしていいよという意味の「フリー」です。だから音楽は自由に選び、(たぶん)スケート技術とは関係ないポーズをとったりもします。トークもそれに似ているかもしれません。

まったくの自由でなんの予定もない状態では喋れません。フィギュアのように、いくつかの要素があって、それをどう組み合わせるかを考えた方がやりやすい。その中でわりと手堅い要素が「オチ」や「笑い」です。これが決まると、恰好がつく。

■大技でなくても印象に残る表現方法はある

フィギュアだとそれは「トリプルアクセル」とか「4回転ルッツ」とかの大技にあたるのかもしれません。「イナバウアー」は、荒川静香さんの金メダル演技(2006年トリノオリンピック)で「こんな大技もあるのか!」と驚きました。

ところが、フィギュアスケートに詳しい人によると、イナバウアーそのものは要素間のつなぎに使われるテクニックとのこと。それを荒川さんは、あの大きく背中を反らせる演技で、魅せる要素にしたのです。トークの場合も同様ではないかと思います。とりたてて大きな出来事ではなくても、その人なりのやり方で面白くなる、と。

そうすると、「面白いトーク」とはなんだろうということになります。私は、「興味を持って話を聞いてもらえること」ではないかと思っています。お笑い芸人がトークを聞いてもらいたいのは、笑ってもらいたいから。笑いという目的を達成する手段としてのトークです。笑いのためには必ずしも喋りである必要はなく、顔芸でも一発ギャグでもいいわけです。

■目的のないトークはなんのためにあるのか

ビジネスマンのトークは、トークそのものが目的ではありません。その先にある商談をまとめたいから、商品を買ってもらいたいからです。これも手段としてのトーク。では、私たちが仲間内でするトークは?

藤井青銅『トークの教室 「面白いトーク」はどのように生まれるのか』(河出新書)
藤井青銅『トークの教室 「面白いトーク」はどのように生まれるのか』(河出新書)

なにかを売るためにやっているわけではありません。笑ってもらいたい時もあるけど、笑いなしの話をする時もある。そういう意味では、純粋トーク。ただ、話を聞いてもらいたいのです。結局のところ、「私の話を聞いてほしい」というのは「私に興味を持ってほしい」ということなのかもしれません。流行りの言葉でいう「承認欲求」でしょうか? たぶん、人はいつの時代も、誰かに話を聞いてもらいたいのです。

とはいえ、声高に「聞いて、聞いて!」と言っても誰も耳を傾けてはくれません。他人の自慢話にはつきあいたくありません。いわゆる「かまってちゃん」が繰り返すマイナスな発言も、煩(わずら)わしいだけです。トークではないけれど、SNSへの書き込みを見ていればわかります。長文でしつこく自己主張をされても、(本人は満足でしょうが)読む気にはなりませんから。

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藤井 青銅(ふじい・せいどう)
放送作家
1955年生まれ。山口県出身。第一回「星新一ショートショートコンテスト」入賞。以来、作家・脚本家・作詞家・放送作家の活動を開始。ライトノベルの源流とも呼ばれる『オールナイトニッポン』をはじめ多くのラジオ・テレビ番組の台本や構成も手がける。著作に『一千一ギガ物語』(猿江商會)、『「日本の伝統」の正体』、『ハリウッド・リメイク桃太郎』(いずれも柏書房)、『幸せな裏方』(新曜社)、『ラジオにもほどがある』(小学館文庫)、『ゆるパイ図鑑』(扶桑社)、『トークの教室 「面白いトーク」はどのように生まれるのか』(河出新書)などがある。

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(放送作家 藤井 青銅)

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