祖母の年金だけで4人の極貧生活、炊飯器を投げ裸でうろつく母親…水とお菓子で空腹に耐えた少女の地獄
プレジデントオンライン / 2024年3月23日 11時15分
ある家庭では、ひきこもりの子どもを「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーができるのか。具体的事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。
今回は、4歳の頃に母親に置き去りにされ、祖母に育てられたものの、母親に苦しめられ続けてきた40代の女性の家庭のタブーを取り上げる。彼女の「家庭のタブー」はなぜ生じたのか。彼女は「家庭のタブー」から逃れられたのだろうか。
■あなたなんて母親じゃない
中部地方在住の蓼科里美さん(仮名・40代・独身)の母親は20代の頃、通っていた大学で10歳ほど年上の大学職員と交際に発展し、結婚。23歳の頃に蓼科さんを妊娠・出産した。ところが、その後すぐ母親は大学職員の家を追い出され、離婚した。
離婚後、生後間もない蓼科さんと共に実家に戻った母親は、娘を祖母に預けて働きに出るが、スナックや工場勤務など、何をやっても長続きせず、勤め先ともめては辞めていた。家には男性が出入りするようになり、祖母とは連日喧嘩ばかり。幼い頃、蓼科さんは、2人がののしり合う張り詰めた空気や怒鳴り声、暴れる母親が怖くて仕方がなかった。
4歳くらいの頃、母親は蓼科さんに言った。「お母さんと一緒に来る? ここに残る?」
蓼科さんは母親がたずねている意図が分からず、「ここにいる」と即答。その数日後、母親は荷物をまとめて実家を出て行った。状況を察した蓼科さんは、泣き叫びながら数十メートル追いかけたが、母親は一度も振り返らずに行ってしまった。
「そのとき私は、『あなたなんて母親じゃない』と固く心を閉ざしました……」
母親はスナックで出会ったやはり10歳ほど年上の男性と再婚したのだった。それからというもの、継父(母親の再婚相手)と母親が暮らす家へ、蓼科さんは祖母に連れて行かれるようになる。そこにはいつしか弟が生まれていた。
「弟のこちはかわいいと思っていましたが、いつも決まって帰りに祖母から母の愚痴や悪口を聞かされるのは嫌でした。祖母は実の娘である母のことを、寝タバコをする。男にだらしない。お金遣いが荒い……などと言い、私はまるで祖母の感情のはけ口でした。私は帰宅するといつも、自分が責められているように感じて泣いていました」
祖父は祖母の他に愛人がおり、長く別居状態。蓼科さんには祖母は優しかったが、気性が激しい面もあったようだ。
蓼科さんは幼稚園に入園すると、ほどなくして蓼科さんは、軽いいじめに遭うようになった。蓼科さんが祖母に相談すると、祖母は「やられたらやり返せ!」と言った。しかし蓼科さんにはできない。あまりにも蓼科さんが幼稚園に行きしぶるため、結局祖母は幼稚園を退園させることにした。
蓼科さんが小学校に入学すると、母親と継父の間には、2人目の息子が生まれた。ところが蓼科さんが2年生になったある日のこと。弟たちが暮らす家が火事に見舞われ、蓼科さんの下の弟が全身大火傷で亡くなってしまう。
「後で知りましたが、火事の原因は母の寝タバコと、弟のガスコンロ遊びでした。もしも一緒に住んでいたら、私は今ここにいなかったかもしれません……」
蓼科さんはその後、学校で担任教師から火事について、さまざまな質問を受ける。一緒に住んでいたわけではないうえ、まだ小2の蓼科さんに答えられるはずがない。自分が責められているように感じた蓼科さんは、学校が怖くなっていった。
■おかしくなった母親
火事で火傷を負い、入院した母親は退院後、一人で実家に戻ってきた。母親の育児能力が問題視されたのか、継父と生き残った上の弟は、継父の実家へ移り住み、別居することになったようだ。
当時60代の祖母の家には小2の蓼科さん、母方の叔父の3人暮らしだったが、ここに母親(30歳)が加わると、蓼科さんにとっての地獄が始まった。
母親は、家の一番奥の部屋に引きこもり、仕事もせず昼夜逆転生活を始めた。真夜中に独り言をぶつぶつ言い、壊れた人形のように突然ケタケタ笑う。
ある晩、母親がケタケタ笑っているため、蓼科さんが、「何で笑っているの?」とたずねると、「私、泣いてるのよ」と焦点が合わないうつろな目をして言った。
「母が来てからというもの、家の中は地獄のようでした。母は夜中に異常に興奮して急に走り出したり、突然近所に『うるさい!』と言って怒鳴り込んだり、自転車を盗まれたとかスリに遭ったとか、ありもしない盲言や虚言を吐き散らかしたり、お客さんが来ていても平気で家の中を裸でうろついたり……」
この頃から蓼科さんは学校へも行き渋るようになっていく。原因は男子からのいじめと担任教師への不信感、家庭でのストレスだった。しかし祖母に「学校に行きたくない」と訴えても聞き入れられず、引きずるようにして登校させられる。
それでも学校に行きたがらない蓼科さんに、祖母はだんだん登校を強要しなくなり、小3、4の2年間はほとんど学校に行かなかった。
■子どものような母親
母親と祖母の喧嘩は日に日にエスカレートしていった。同居している叔父は口では諌(いさ)めようとするが、喧嘩真っ只中の2人の耳には届かない。まだ幼い蓼科さんは耳をふさいで嵐が過ぎ去るのを待つだけだった。
ある晩、祖母に生活態度を注意されたことで母親が激昂。母親は祖母に炊飯器を投げつけ、もみ合い状態になり、祖母の首を締め、ネックレスを引きちぎった。
翌朝、祖母は家の中から消えていた。
「お祖母ちゃんがいない」と奥の部屋に蓼科さんが言いに行くと、母親はわれ関せずな様子で空返事をした。
このとき蓼科さんは10歳。まだ家事を教えてもらっておらず、おこづかいももらっていなかった。家庭科の授業は小5からだ。蓼科さんは、水と残されていたお菓子などで空腹に耐えるしかなかった。
母親との喧嘩から4日目に帰ってきた祖母は、痩せ細った蓼科さんを見てこう言った。
「こんな難民の子どもみたいなお腹になって……! お母さんは何もしなかったのか……?」
母親も叔父も自分たちだけ食べて、蓼科さんに食べ物を与えなかったのだ。
蓼科さんが小5になると、担任の教師が変わったため、再び学校に行けるようになった。
一方で母親は相変わらず引きこもり、たまに蓼科さんに「返事の仕方が悪い」などと難癖をつけては頭を叩いてくるなどの暴力をふるうようになった。それに対して蓼科さんは、容赦なく対抗した。
「私はとっくの昔に母と決別していましたから、一日中寝ているか遊んでいる母親には躊躇(ためら)わずに反撃できました。祖母が安全地帯になってくれたから、母に抵抗できたのだと後から自覚しました」
蓼科さんの態度が気に入らない母親がちゃぶ台をひっくり返すなどして暴れ出すと、蓼科さんはお菓子の鉢をひっくり返し、母親の頭から菓子鉢に溜まったクズを浴びせかけて反撃した。
「母はたぶん養育者としての責任が理解できないまま子どもを産んでしまったのでしょう。小5の私から見てもまるで子どものようでした。おそらくそのせいで、祖父母やきょうだいたちからもまともに扱われてこなかったのでしょう。それでも私は母が羨ましかった。大人なのに子どものようなふるまいが許されていたから。私は祖母や叔父に気を使い、面白いことを言って場を和ませ、本当の自分を出せず、ひたすら祖母の愚痴を聞くまるで小さな無料カウンセラーでした。3〜4日食事を与えられなくても文句ひとつも言わない透明な存在でした……」
■一難去ってまた一難
祖母はある宗教を信じていた。
幼い頃から蓼科さんは、祖母に好かれたい一心でその宗教の会合にも参加していた。祖母と一緒に仏壇に向かい、お経をひたすら唱え続けた。
ところが小6になったある日のこと。学校から帰ってくる途中で、近所の人から「お宅の猫がうちの敷地に勝手に入ってくるから何とかしてくれ。あと、母親がうるさいから何とかしろ!」と苦情を言われる。
帰宅後、蓼科さんは、悔しさのあまり号泣してしまった。
「いくら信心しても幸せになれません。母もおとなしくはなりません。私は大人たちの言うことを素直に聞いて、全部言う通りにやっているのに……。私が悪いのでしょうか? 私だってグレて母のように大暴れしたかった。大人たちを困らせてやりたかったです」
中学校に上がると、自動車修理の仕事をしていた叔父が大怪我を負い、会社を辞めてしまう。祖母の年金だけで一家4人の生活は回らなくなり、蓼科さんの学校で必要なものが買い揃えられないようになった。さらに、電気やガスが止められる事態に陥ることも少なくなかった。
蓼科さんが中2になったある晩、母親が突然「騒音がうるさい!」と言って近所に殴り込みに行って通報され、精神病院への措置入院が決まる。
「母が恥ずかしくてたまらず、恨む気持ちもありましたが、それ以上に母がいなくなって心底ほっとしました。母が引きこもっていた奥の部屋にフロイトの夢判断の本があったのですが、自分の症状がメモしてあり、人知れず母も悩んでいた様子が窺えました。でも私が育った環境は、母以上に過酷でした。私は誰を憎めば良かったのでしょうか? 母も私も、わからないからお互いを憎み、神経をすり減らしながら耐えるしかなかったのだと思います」
実家から母親がいなくなり、平穏が訪れたものの、今度は学校でいじめが始まり、再び蓼科さんは不登校に。
しばらくは強制的にでも学校に行かせたい祖母と対立するようになったが、次第に祖母は蓼科さんの気持ちに寄り添うようになり、学校に行かせることを強要しなくなっていった。(以下、後編に続く)
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ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
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