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笠置シヅ子の引退ステージは紅白歌合戦ではなかった…ブギの女王が最後に挑んだ意外なジャンルの新しい音楽

プレジデントオンライン / 2024年3月23日 10時15分

美空ひばり『サンケイグラフ』1954年8月1日号(産業経済新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

笠置シヅ子は本当に1956年大晦日の紅白歌合戦で歌手活動を止めたのか。『笠置シヅ子 ブギウギ伝説』を書いた娯楽映画研究家の佐藤利明さんは「実は笠置のラストステージは舞台だった。ブギの女王と呼ばれた笠置は、1957年の年明けに歌手引退を宣言し、5月の引退公演では意外なジャンルの楽曲に挑戦した」という――。

■「東京ブギウギ」発売の9年後、笠置は歌手を辞めることを決断

連続テレビ小説「ブギウギ」(NHK)がクライマックスを迎えた。笠置シヅ子をモデルにした「ブギの女王」福来スズ子(趣里)の前に、次世代の若手歌手・水城アユミ(吉柳咲良)が現れる。時は昭和31年(1956)、経済白書が「もはや戦後ではない」と記し、世の中がダイナミックに変化してきていた。

石原裕次郎がデビューし、エルビス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」をリリースしたのもこの年。若者たちの音楽はロックンロールとなり、流行歌では美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人娘」が溌剌(はつらつ)さで人気を博していた。「ブギの女王」笠置シヅ子の時代が、ゆるやかに終わりを告げ始めていた。

さて話は1947年(昭和22)にさかのぼる。敗戦後、長くつらい戦争が終わり、疲弊した焼け跡の人々にとって、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」(作詞・鈴木勝 作曲・服部良一)の明るい歌声、パワフルなパフォーマンスは、最高の「復興ソング」となった。歌詞の「ズキズキ」は、何もかも喪失していた人々の胸の痛みであり、それを「ワクワク」に変える魔法のリズムが「ブギウギ」だったのである。

それから9年の歳月が流れ、40代を迎えた笠置シヅ子は、全盛期のような全身全霊のパフォーマンスは「ああ、しんど」となっていた。1956年1月、有楽町・日劇で上演された「爆笑ミュージカルス」の主題歌「たよりにしてまっせ」(作詞・吉田みなを、村雨まさを)」と「ジャジャムボ」(作詞・村雨まさを)をリリース。いずれもマンボ・アレンジが際立っていて、よりリズムが強調されている。これが、彼女にとって最後の新曲レコードとなった。

■1956年末のNHK紅白歌合戦では4度目の出場で大トリに

さて、笠置シヅ子と服部良一のコンビは「ブギウギ」ブームの後も、ジャズのビバップを取り入れ、マンボ、コンガなど、次々とニューリズムをアレンジして最先端の音楽であり続けていた。しかし時代は大きく変わりつつあった。

それが1956年である。笠置シヅ子はこの年の大みそか「第7回NHK紅白歌合戦」に4度目の出場を果たした。しかも紅組の大トリとして東京日比谷の宝塚劇場のステージに立った。歌ったのは、1948年(昭和23)4月にリリースした「ヘイヘイブギー」(作詞・藤浦洸)だった。

このとき、50組の歌手が出場した。淡谷のり子、二葉あき子、渡辺はま子、ディック・ミネ、霧島昇、灰田勝彦など戦前からのベテランに加え、越路吹雪やペギー葉山、三橋美智也といった戦後のスターも登場。小坂一也がプレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を歌ったのが象徴的である。

■美空ひばりは裏番組に出演し、大トリで笠置と比べられた

ドラマ「ブギウギ」では、大晦日の「第7回オールスター男女歌合戦」で若手歌手・水城アユミが、スズ子のデビュー曲「ラッパと娘」を歌い、スズ子がトリで「ヘイヘイブギー」を歌って、新旧人気歌手の世代交代を描く。しかし水城アユミの「モデルか?」とされた美空ひばりは、前年に引き続きこの年の紅白には未出場。前年に開局した民放、KRテレビ(現在のTBS)が、紅白の真裏、同時間帯に、浅草国際劇場で「1956年オールスター歌合戦」を開催、それがテレビとラジオでサイマル(同時)放送されている。

「1956年オールスター歌合戦」には、デビューしたばかりの石原裕次郎や勝新太郎も出場。美空ひばりは、三門博の「唄入り観音経」を隠し芸として披露し、番組の最後のトリに「やくざ若衆祭り唄」(作詞・作曲・米山正夫)を歌っている。史実では、ドラマのように同じステージでの新旧対決ではなく、NHKとKRテレビの「歌合戦」の「紅組トリ対決」だったのだ。

余談だが、水城アユミは、「存在」は美空ひばりを想起させるが、「設定」は父親が戦前からのジャズ・ピアニスト股野義夫(森永悠希)で、スズ子の憧れの大先輩・大和礼子(蒼井優)の遺児である。現在は父・股野義夫がアユミのマネージメントをしている。その点では、江利チエミと重なる。

■笠置が紅白に初出場したのはラジオ放送時代の第2回

江利チエミの父・久保益雄は、戦前は外国航路のジャズバンドのピアニストで、戦後は娘のマネジャーをして、天才少女歌手をスターに育てた。その江利チエミは、第7回紅白歌合戦で、4回目の出場を果たし「おてんばキキ」(作詞・Roger Lucchesi 作曲・Andre Popp)を歌っている。ちなみに雪村いづみにも出場依頼があったが、体調を崩してこの年は出場がかなわなかった。

さて、ここで「笠置シヅ子と紅白歌合戦」を振り返ってみよう。笠置シヅ子が初めて紅白に出場したのが、1952(昭和27)年1月3日に開催された「第2回」から。この頃は大晦日ではなく、年始のオンエアだった。会場も劇場ではなく、内幸町にあったNHK東京放送会館・第1スタジオからラジオでの生放送。紅組は暁テル子、池真理子、菅原都々子など、白組が伊藤久男、霧島昇、藤山一郎など、それぞれ12組、24名の歌手が出場した。

ここで笠置シヅ子が歌ったのが、1950(昭和25)年6月にリリースしてビッグヒットとなった「買物ブギー」(作詞・村雨まさを)だった。「ホンマによう言わんわ」が流行語となり、全国の人々がこの曲で「大阪弁」の面白さを知った。

ラジオの世界では昭和26年9月から民間放送がスタート、番組も一気に多様化した。ヒット曲「東京ブギウギ」を歌う笠置シヅ子(=1951年12月・東京都)
写真=毎日新聞社/時事通信フォト
ラジオの世界では昭和26年9月から民間放送がスタート、番組も一気に多様化した。ヒット曲「東京ブギウギ」を歌う笠置シヅ子(=1951年12月・東京都) - 写真=毎日新聞社/時事通信フォト

■テレビ中継となった第4回では「東京ブギウギ」で沸かせた

笠置シヅ子は翌年、1953年(昭和28)1月2日、「第3回」に2回目の出場を果たした。ここで歌ったのが、1949年(昭和24)7月、空前の野球ブームのなかリリースした「ホームラン・ブギ」(作詞・サトウハチロー)だった。この曲をステージで歌うとき、笠置は応援団長のポーズでパワフルなパフォーマンスを披露。ある時、勢い余ってオーケストラボックスに落ちてしまったとか。

この時はまだラジオ中継なので紅白でのパフォーマンスはラジオのみだった。しかしこの年の2月1日、NHKがテレビジョンの放送を開始。テレビ時代が幕開けする。初放送のゴールデンタイムには、日比谷公会堂から人気歌番組「今週の明星」がラジオとテレビで生中継された。記念すべき最初のテレビの歌番組に笠置シヅ子が、買物カゴにかっぽうぎ姿で登場、「買物ブギー」をコミカルに歌い踊った。こうしてテレビ時代が幕開けした。

この年、1953年の大晦日、「第4回NHK紅白歌合戦」が開催された。紅白としては初のテレビ放送ということもあり、有楽町の日本劇場に観客を入れてのスタイルとなる。笠置シヅ子にとっては、敗戦の年、戦争で閉鎖されていた日劇が再開を果たした1945年(昭和20)11月「ハイライト」公演に出演。1947年(昭和22)10月にはレコード発売前の新曲「東京ブギウギ」を東京で初めて歌った劇場でもある。いわばホームグラウンド。朝ドラ「ブギウギ」の「日帝劇場」は、この「日劇」とお堀端の「帝劇」をモデルにしている。

■毎月新作ミュージカルを発表していた2年間は紅白に出場せず

この「第4回」で笠置シヅ子が歌ったのは「東京ブギウギ」。1947年、最愛の人・吉本頴右に先立たれて、失意のなか愛娘を出産。シングルマザーとして生きていく決意をした時に「先生たのんまっせ」と服部良一に依頼して誕生したのが「東京ブギウギ」だった。敗戦後の人々の復興ソングであり、笠置シヅ子の復活ソングでもあったのだ。

この後、2年間、笠置シヅ子は紅白に出場していないが、実は多忙を極めていた。舞台公演に加えて、新しいメディアであるテレビジョンで服部良一と共に、毎月新作のミュージカルを披露する番組「ミュージカル・ショウ」に挑戦していたのだ。月1回のペースで1953年から1955(昭和30)年末まで、24本もの新作ミュージカルが生放送されている。

■最後の紅白出場では淡谷のり子が笠置に「ヘイヘイ」

やがて「もはや戦後ではない」の1956年である。笠置シヅ子は、この年の大みそか「第7回紅白歌合戦」に紅組のトリ、しかも白組の灰田勝彦に続いて「大トリ」として出場。「ヘイヘイブギー」をパワフルに熱唱した。この時の音源がNHKアーカイブに残されているが、「あなたが笑えば 私も笑う」と楽しそうに笠置が歌うと、淡谷のり子をはじめとする紅組の女性歌手たちが「ヘイヘイ」とレスポンスする。まさに祝祭空間! である。

実はこの時、笠置シヅ子は緩やかに歌手引退を決意していた。愛娘が10歳となり、何不自由ない生活ができるようになった。最愛の人を失って「自分でこの子を育てる」と決意して10年、思うところがあったのだろう。

笠置シヅ子は42歳。小学校を卒業して少女歌劇の世界に入ってからちょうど30年目である。少女歌劇で10年、スウィングの女王で10年、ブギの女王として10年。彼女は日本のショウビジネスを牽引してきた。そのラストショーが「第7回」の「ヘイヘイブギー」でもあった。

■ラストステージで挑戦したのは服部作曲のロックンロール

翌、昭和32年(1957)5月、新宿コマ・スタジアムでのステージ「クルクル・パレード」が最後の主演舞台となる。服部良一が笠置のために用意したのは、なんとロックンロールだった。さまざまなニューリズムに挑戦してきた笠置が最後にロックンロールを歌った。笠置と服部の音楽への挑戦は日本のリズム・音楽史でもあった。その後、俳優に転向した笠置シヅ子は「大阪のおばちゃん」キャラで親しまれ「生涯現役」を貫くことになる。

佐藤利明『笠置シヅ子 ブギウギ伝説』(興陽館)
佐藤利明『笠置シヅ子 ブギウギ伝説』(興陽館)

笠置シヅ子は、13歳で少女歌劇の世界に入り、10年のステージキャリアで、ダンスの基礎を学び、歌手としての素地を作った。生来の愛嬌(あいきょう)もまたコメディエンヌとして、大きな魅力となった。その才能を見いだした服部良一が、さらに「地声で歌うこと」を指導して、戦前、笠置シヅ子は「スウィングの女王」となった。その実力は、デビュー・レコード「ラッパと娘」を聞けば明らか。最近、その頃のパフォーマンスを記録した短編映画が発見されたが、その表現力はすでに完成されていたことがわかる。

「東京ブギウギ」は、映画『春の饗宴』(1947年・東宝)で歌唱シーンとして記録されているが、彼女が敗戦後の厳しい時代を生きた人々を魅了したことがよくわかる。そして、没後39年、歌手引退からは67年の今年、「ブギウギ」のモデルとなったことで、服部良一と笠置シヅ子コンビが残した60曲近いレコーディング音源に、気軽にアクセスできるようになった。

また、「ブギの女王」時代に出演した25本の映画に記録されたパフォーマンスには、今見ても、ただただ圧倒される。笠置シヅ子は、まさにワン・アンド・オンリーの偉大なシンガーなのだ。

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佐藤 利明(さとう・としあき)
娯楽映画研究家、オトナの歌謡曲プロデューサー
1963年、東京都生まれ。笠置シヅ子、榎本健一、古川ロッパ、渥美清など、昭和の喜劇人やアーティストについてのコラムを執筆。著書に『笠置シヅ子 ブギウギ伝説』(興陽館)、『クレイジー音楽大全 クレイジーキャッツ・サウンド・クロニクル』(シンコーミュージック)、『寅さんのことば 生きてる?そら結構だ』(幻冬舎)などがある

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(娯楽映画研究家、オトナの歌謡曲プロデューサー 佐藤 利明)

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