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頭のよさ、健康管理、誠実さ、どれも違う…「経営の神様」松下幸之助が田原総一朗に語った"出世する人の条件"

プレジデントオンライン / 2024年3月30日 12時15分

松下幸之助=1978年11月23日 - 写真=時事通信フォト

出世する人にはどんな特徴があるか。ジャーナリストの田原総一朗さんは「かつて松下幸之助さんは抜擢する人の基準として『その人が来ると、会議の空気が冷え冷えする。そういう人間はダメだ。明るい人間がいい』と言っていた。」という――。(第1回)

※本稿は、田原総一朗『無器用を武器にしよう 自分を裏切らない生き方の流儀』(青春新書インテリジェンス)の一部を再編集したものです。

■社長に抜擢されるのはどんな人材か

松下電器の創業者である松下幸之助さんに会った時、社長なり役員を抜擢(ばってき)する際、どこを見て判断するのか、と聞いた。まず「頭の切れる人間、つまり頭の良し悪しで評価するんですか」と訊(たず)ねたら、松下さんは、こう言った。

「頭は関係ない。むしろ頭がいい人間より頭が悪いほうがいい……」

松下さんが言うには、頭のいい奴は小才がきいて、小回りきかせて、ずるいことを考えて、自分はうまく立ち回ろうとか、得をしたいとか、ロクな考えをもたないと。だから頭のいい奴は、どっちかっていうと不まじめで性格が悪いのが多いからよくないと言うんだね。

「私は小学校もロクに出ていません」と、松下さんは自分の学歴についても説明した。どうも大学へ行くと、余計なことを覚えてくると。高校を出た社員ならば入社してすぐ給料を払っていいけど、大卒は、大学に行った4年間は、ロクなこと習ってないから4年かけて悪いものを全部取り除かなければならない。したがって入社4年間はむしろ給料をあげるんじゃなく、授業料が欲しい。

もちろん、偏差値の高い大学も何も関係なく、大学の4年間はムダだと、こう言ってました。

■「むしろ不健康で良かった」

次に、僕は、「会社の幹部になるには、健康が大事ですか? 丈夫じゃないといけませんか」と質問した。すると松下さんは、「いや、健康も関係ない。私は結核患者だ。治ったわけじゃなくて、進行が止まっただけの半病人だ。それがむしろ良かった」という。

どういうことかと言うと、健康な人間は陣頭指揮をとりたがって、つい、俺について来いというワンマン経営になりがちだと言うんです。往々にして、後ろを振り返ると誰もついてこなくて自滅するパターンが多いんだ、と。しかし、自分は半病人だったから、後方経営、いちばん後ろからトコトコとついて行くと。これはシンドイよね。

だって後ろから経営者がついてきたら、やっていることが丸見えなんだから。でも、これが経営の基本だと松下さんは言う。後方経営、つまり全員参加です。皆、わからないながら前を走っていくわけで、ボトムアップの経営でしょう。

若い人間でも思い切ったことができるから、互いに活性化する。だから、健康である必要はないと言うわけ。

握手を交わすビジネスマン
写真=iStock.com/mapo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mapo

■暗い人間に人はついていかない

頭の良し悪しも、健康も関係ない、じゃ誠実さで評価するのですか? と僕は重ねて質問した。すると、誠実さも関係ない、と言い切るんです、松下さんは。

というのは、どんな誠実そうに見える人間も、窓際にポーンと左遷されたとたんに誠実じゃなくなると言うんです。サボタージュしたり、やる気を失うでしょう。会社に対するグチがはじまる。逆に、陽の当たる、いいポジションにつけば誰だって誠実になれるんだと。だからむしろ社員が誠実でなくなったとすれば、それは経営者の責任であると言うわけです。

「じゃあ、どこを見て、その人間を抜擢するのか?」と聞いたら、松下さんは、しばらく考えこんでいた。そして、こう言った。

「強いて言えば……、明るさかな」

その人が来ると、会議の空気が冷え冷えする。そういう人間が実際にいるけど、そいつはダメだ、と松下さんは断言した。明るさのない暗い人間が幹部になると、皆、ヤル気を失う、熱気がなくなる。そういうことが、まずあるでしょうね。

暗い人間って、いろんなもののマイナス点ばかり見て、とかく批判的になる。物事というのは、表と裏が必ずあって、いろんな見方ができる。ところが暗い人間というのは、物事のマイナス面、欠陥、アラばかり見てしまう。人は、その欠陥ばかり指摘されれば、誰だってヤル気をなくしますよ。

■トップになる人間の条件は「運がいいこと」

さらに悪いのは、上の人間が欠陥ばかり目をつけていると、部下も、それを見習うでしょう。

だって、部下がいい面を見て主張すれば、上司にお前は楽天家、ノーテンキな奴だと、バカにされてしまう。だから上のネクラに迎合して下の人間も、皆、批判的なことを言いはじめる。となると自分じゃ何もしない集団になってしまって、物事が前へ進まなくなる。

これも、松下さんに聞いた話ですが、トップになる人間の条件として、「運のいい奴じゃないとダメだ」と、彼は言った。「人の運なんてわかりますか?」そう問いただしたら、松下さんは「わかる」と、はっきり言った。この辺が松下流なんだね。

運命というのは明るさと結びつく、明るけりゃ運は開けるんだというのが、彼の主張だった。確かに、僕ら子供のころ教わったのは、「運・鈍・根で生きろ!」と。僕は、滋賀県出身で、近江商人の末裔(まつえい)ですから「商人てのは、運・鈍・根、この3つだ」と、よく言われた。

鈍とは、バカってことだ。利口なのはダメだと、バカになってやりなさいと。相撲だって、野球選手だってバカになってガンバッてるでしょう。目先の得を考えて小回りをきかせたり、手抜きするような小利口なのは、やっぱりダメ。バカになってやることがとても大事でしょう。

■バカになって根気よくやれば道はひらける

根というのは、根気。あきらめないでコツコツやる。バカになって、根気よくやれば、必ず運が開けてくるというわけだ。というのは、失敗する。失敗して、運が悪かったからだと言う。いや、これは違うんだ。失敗というのは、あきらめた時が失敗。

そうでしょう。何度も何度もやってれば、まぐれで成功するかもしれないけど、あきらめたら、それでおしまい。つまり失敗だ。ズーッとあきらめないで、鈍・根でいつまでも頑張っていれば、確かに運は開けて成功するものです。もっといえば、運を開くのは、明るさ。明るさとは、失敗にめげないことでしょう。

失敗して暗くなると、批判的になって、アラばっかり言うようになって、結局、運も開けてこない。もっとも、僕は本当はネクラな人間でね。だからこそ、運・鈍・根という発想に、体で反発しながらも、面白いと思うんだ。とにかく、自分をアピールしたいと思ったら、自分の明るい面を出さなきゃいけない。ネクラのアピールなんて誰も乗ってこない。

暗い部屋でパソコンを使用する人
写真=iStock.com/dusanpetkovic
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/dusanpetkovic

■そもそも人間は愚痴っぽい

僕の学生時代? 愚痴っぽくて暗い時代だった。僕は大学に7年もいたけど、明るければもっと早く卒業できた。何をやってもダメで、わが青春はほとんど闇……。ひとつには、若い時は、明るく振る舞うことはレベルの低い人間とされるわけ。世の中を批判的に言ったほうが、一家言ある奴だと認められたりするでしょう。若い時ってそういう錯覚に陥る。僕もそうだった。バカだね。

じつは、人間というのは、みんな暗いんです。じめじめしているんですよ。俺、ダメだなって、みんな思うでしょう。みんな愚痴っぽくってね、これは、会社の上司も同じで、基本的にみんな暗いんです。だからこそ、人の暗さなんて見たくない。社長も、部長も。

だって自分の暗さを知っているのに、それがイヤでイヤでたまらないのに、目の前で若い者がグチグチと言ってたら、「あっちへ行けッ!」って怒鳴りたくなる。つまり、愚痴って、ある意味で怠惰であり、甘えでしょう。そこにいかないようにみんな頑張っているわけ。虚勢を張りながらギリギリまで頑張っていくんでしょ。それが明るさなんだから。

もっといえば、明るい面をアピールすることで、暗い面が影になって発想が立体的になる。もともと暗い人間が暗さをアピールしても、平板で奥行きも感じられない。それどころか単なる穴ボコだ。あるいは、明るさだけの人間も、これは本当のバカ、としか見られない。

■話を遮るのは“スタンドプレー”が過ぎるとき

バブルの時代というのは、酔っ払って暗さを忘れた時代だった。不況という暗さを、すっかり忘れてしまったでしょう。ただ銀行から金を借りて土地を買い、それを転がしていっただけで金持ちになった。それだけのことですごく能力があるんじゃないかと思ったわけでしょう。

暗い影と明るい光の面とをもった立体的な発想が必要なんです。暗さがなければ薄っぺらな紙切れに等しいわけだから。まず自分の暗さを認識した上で、明るさをいかにアピールするかが大事なことなんです。

話は飛ぶけど、僕が『朝まで生テレビ』などで、パネリストたちの意見をさえぎる、途中で強引に止めさせてしまうのはけしからん、とよく怒られるけど、これは誤解なんです。僕が「それは止めて欲しい」「違いますよ」というのは、相手の、いわゆるスタンドプレーが過ぎるとき。パネリストが自分の言いたいこと、主張を表現するためにいろんな手段を動員する、パフォーマンスをする。これはいい。だけど、スタンドプレーだけでは困る。この違いが実は大事なんです。

たとえば、清原や長嶋などの野球選手が、懸命にプレーする。これはいわばグランドプレーです。グランドプレーがあって、その上で客のサービスのためのパフォーマンスをするのは必要だろう。しかしグランドプレーなしのスタンドプレーは困る。討論会でも同じで、僕が話をさえぎるのは「グランドプレーなしのスタンドプレー」が出たときなんです。

会議での口論にうんざりする人
写真=iStock.com/fizkes
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fizkes

■喜んでもらうことが「本当の自己アピール」

そういうスタンドプレーってむなしくなるでしょう、テレビを見てても。だから僕は怒るんだ。「それは違うよ。誰もそんなことなんか聞いてない!」って。

野球選手はグランドでプレーするわけでしょう。彼らが最高のプレーをしたときに観客が喜ぶ。それをグランドプレーというんです。観衆目当てのプレーをしたって誰も喜ばない。つまり自分の本来の土俵から外れたところでどんなかっこいいことを言っても、それはスタンドプレーに過ぎない。自分のグランド内で最高のプレーをして喜んでもらえるのが、自己アピールでしょう。

会社でもアピールとしてのグランドプレーは必要です。でもスタンドプレーはダメ。ゴマすりってのは、どちらかというと、スタンドプレーに近い。これは、たとえ上に認められても、長続きしない。だって上司なんか、いつか変わるわけ。変わったとたんにゴマすり男はアウトだ。つまり、その上司以外、みんな「あのヤロー!」って思ってるわけでしょう。

■「人づきあいがいい」だけじゃ意味がない

何もゴマすりじゃなくても、スタンドプレー的なものは山ほどある。たとえばつき合いなんかがそうだ。

田原総一朗『無器用を武器にしよう 自分を裏切らない生き方の流儀』(青春新書インテリジェンス)
田原総一朗『無器用を武器にしよう 自分を裏切らない生き方の流儀』(青春新書インテリジェンス)

よく、最近の若い奴はつき合いが悪くなった、と上司がグチを言うでしょ。カラオケぐらいできなきゃダメだとかね。確かにそういったつき合いは、人間関係を円滑にする場合もあるけど、いいんです、そんなことは。ゴルフもできない、カラオケもダメだといえば、なさけない話に聞こえるけど、でも仕事ができればいいわけでしょ。つき合いはできないけど仕事は人一倍やる、と。周りに合わせるだけの「スタンドプレー」じゃしょうがないんだ。

もっと言えば、やりたいことがなきゃ話にならない。つき合いがよくて、お世辞が上手で、カラオケもうまくて、それで、いったいあんた、何をやりたいの? と聞かれて何もない人間は、これは、いったい何のためのアピールなのか。だってアピールするってのは何かしたいことがあって、そのために自分をアピールするもんでしょう。カラオケ? ゴルフ? そんなのは自分のグランドプレーじゃない。だったらプロの歌手になったほうがいい。

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田原 総一朗(たはら・そういちろう)
ジャーナリスト
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所へ入社。テレビ東京を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。著書に『起業家のように考える。』ほか。

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(ジャーナリスト 田原 総一朗)

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