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「あの頃は楽しかったね」70歳でガンのため死去した笠置シヅ子の最期の言葉…家族のために生きた愛情深き人生

プレジデントオンライン / 2024年3月29日 8時15分

服部良一(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

笠置シヅ子をモデルにしたドラマ「ブギウギ」(NHK)が3月29日で最終回を迎える。ライターの田幸和歌子さんは「笠置シヅ子や同時代を生きた芸能人の生涯を調べると、肉親のために献身的に生きた人が多い。敗戦後の苦境の中、人々を歌で勇気づけた笠置が、歌手を辞めたあとも女優として活動し、娘を育てた」という――。

■「ブギウギ」最終週はスズ子と羽鳥の師弟関係が描かれた

朝ドラとして親しまれた「ブギウギ」最終週となる第26週では、「オールスター男女歌合戦」を大トリとして堂々と務め上げた福来スズ子(趣里)の「ブギの女王」復活が、華々しく報じられる。しかし、スズ子はある決意を胸に、作曲家・羽鳥善一(草彅剛)のもとに向かう。その決意とは、歌手を引退することだった。

スズ子と二人三脚で歩んできた羽鳥は絶縁宣言し、引退に猛反対のマネージャー・タケシ(三浦りょう太)は家を出て行ってしまうが、それでもスズ子の決意は揺るがない。一方、茨田りつ子(菊地凛子)はスズ子が引退を決意するに至った思いに真摯(しんし)に耳を傾ける。

羽鳥との絶縁が心に引っかかっていたものの、スズ子は引退会見にのぞむ。絶縁状態になってしまった二人だが、スズ子はりつ子に、羽鳥は妻・麻里(市川実和子)に、きちんと向き合うよう言われ、苦楽を共にしてきた師弟が話し合いを持つのだった。

ドラマは序盤からラストに至るまで、スズ子にとっての名パートナー・羽鳥と、ライバルであり親友・りつ子の3人組がメインとして描かれた。そして、最終週はまさに師弟の物語が主軸だった。

■服部は笠置と出会ったとき、その「別格感」に魅せられた

羽鳥のモデルとなった服部良一は、スズ子のモデル・笠置シヅ子の第一印象を自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)で「薬びんをぶらさげ、トラホーム病みのように目をショボショボさせた小柄の女性がやってくる。裏町の子守女か出前町の女の子のようだ」とし、その夜の『クイン・イザベラ』の舞台稽古を見た驚きを次のように記していた。

「三センチほどもある長い付けまつげの下の目はバッチリ輝き、ぼくが棒をふるオーケストラにぴたりと乗って、『オドッレ、踊ッれ』と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子とは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと、納得した」
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

また、少女歌劇に入った笠置は、踊りでは世に出られないと見切りをつけ、声楽へ転向。松竹楽劇団に入るため上京し、服部と出会うが、当初はソプラノの高い声で歌っていたところ、スイングは地声でなければいけないという服部の持論により、地声で歌うようになったことから、歌手として成功する。

■笠置が人生のどん底にいたときも二人三脚で曲を発表

笠置が妊娠し、恋人・吉本エイスケが亡くなり、娘・ヱイ子を一人で育てる決意をしたときは、服部に「センセ、たのんまっせ」と懇願。笠置の苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうという服部の思いから、敗戦の悲嘆に沈む日本人の力強い活力につながる歌『東京ブギウギ』が生まれた。また、美空ひばりや江利チエミなど、若い才能が台頭してきたときには、笠置の相談を受け、服部作曲の笠置の曲を歌うことを笠置と共に禁じているし、二人はあらゆる場面で二人三脚として歩んできた。

笠置は自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)で「私と服部先生の関係はいまや人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない間柄で、独立してから十年間に先生以外の作曲者のものはたった二曲しか歌っておらず、今後の私の死命も先生の掌中にあるといってよいのです」と綴(つづ)っているほどだ。

マイクの前で歌う笠置シヅ子
写真=毎日新聞社/時事通信フォト
マイクの前で歌う笠置シヅ子、1949年 - 写真=毎日新聞社/時事通信フォト

■親密すぎて男女の仲ではないかと誤解されたことも

笠置が歌手を引退するとき服部が絶縁宣言をしたかどうかは笠置、服部両者の自伝には記述がない。また、ドラマでは第17週にスズ子が愛助(水上恒司)と結婚するため、歌手をやめると言い出し、それに対して羽鳥が「君が歌手をやめるなんて、僕が音楽をやめるようなもんだよ!」と猛反対するくだりが描かれており、二度目のスズ子引退大反対&羽鳥の駄々こねとなったわけだが、実際の笠置と服部の仲も、それに近い親密度だったと思われる記述が笠置の自伝に見られる。

二人がコンビを組み始めた帝劇時代には、部屋が少ないことから、服部がいつも笠置の楽屋にいて、スタッフ会議で「笠置君がやめるなら僕もやめさせて貰う」と言ったことから、笠置と服部の仲が誤解され、ゴシップの種となったエピソードを挙げ、笠置は「幕内の経験が浅いのと、芸術家肌の直情から先生の失言となってしまった」と振り返っているのだ。

実際、1950年代にはブギは下火となっており、キューバのペレス・プラードなどによって世界的ブームとなったマンボが日本にも広がると、笠置&服部も1955年に「ジャンケン・マンボ」「エッサッサ・マンボ」を発表する。しかし、笠置のマンボは注目されなかった一方、美空ひばりの「お祭りマンボ」(52年)、江利チエミの「パパはマンボがお好き」(55年)、雪村いづみの「マンボ・イタリアーノ」(55年)がヒット。時代はすでに三人娘の人気へと移行していた。

■敗戦後の日本を元気づけた笠置のブギは役割を終えた

そうした流れを受け、笠置は1956年に日劇「ゴールデン・パレード」と日劇「たよりにしてまっせ」の公演を終えると、舞台出演を中止。「ジャジャムボ」「たよりにしてまっせ」の2曲を吹き込み、年末のNHK紅白歌合戦に出場、大トリで「ヘイヘイブギー」を歌った翌57年早々に歌手を廃業、これからは女優業に専念したいと公表する。

その前年には「もはや戦後ではない」が流行語になり、57年にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」も一種の流行語となった。同年のレコード売り上げ1位は、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」、2位は美空ひばりの「港町十三番地」で、戦後の日本に元気を与えたブギはすでにその役割を終えていたようだ。

歌手廃業の理由について笠置はこう語ったという。

「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」

さらに後年、笠置は自分が太ってきて踊れなくなったからだと述べている〔砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)〕。

しかし、そもそも笠置はドラマのスズ子と同じく、エイスケとの結婚を考えたとき、歌手引退を考えていた。自伝でも「私も、そうすることがエイスケさんを幸福にする道ならば、断ち切り難いキヅナを切って仕事を放擲(ほうてき)しようと思いました」「私は非常にわがままな女なのですが、ひとたび身心を捧げる立場になれば、日本女性の御多聞に漏れず、ヌカ味噌くさい世話女房になる型なのです」と書いているように、エイスケが早世していなければ、とっくに廃業していたはずだ。

歌手引退2年前の笠置シヅ子
歌手引退2年前の笠置シヅ子(写真=『アサヒグラフ』1955年12月7日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■俳優専業に転身したのは娘を養っていくためだった

そんな中、未婚の母となった笠置は、娘・ヱイ子を養うため、歌い続けなければならなかった。俳優としての活動を始めたのもまた、娘のためだった。

笠置の自伝に収録された、映画・演劇評論家、テレビプロデューサーの旗一兵の寄稿に、こんな記述がある。

「ヱイ子ちゃんを育てながらの舞台や映画では疲れる。疲れ休めに林芙美子女史(編集部註:笠置と親交のあった作家)に熱海へ連れて行かれても、温泉宿にジッとしていない。用もないとこへ顔出したり、ヱイ子ちゃんの馬鹿可愛がりで余計疲れて帰ってくる。そういえばヱイ子ちゃんを甘やかし過ぎるほど彼女は可愛がっている。だから少しわがままになっている。彼女の留守の間、これをお守りする人は骨だろうと思う。『そんなこと百も承知ですが、父のいない不憫な子だと思うと、どんなに甘やかしても甘やかし過ぎることはないと思うんです』。この彼女の心情はよくわかる。そしてひとたび、わが子が不憫だと思うと、とめ度もなく盲愛することも彼女らしい」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)

■「彼女は幸福な人だ。いつも愛情の中にいる」と書いたエノケン

また、喜劇俳優・タナケン(生瀬勝久)のモデルとなったエノケン(榎本健一)も、笠置の自伝への寄稿でこう記している。

「彼女は気の毒な人だという。しかし、私はそうは思わない。彼女は幸福な人だ。いつも人々の愛情の中にいつくしまれている。そして自分も思う存分に愛情を表現してきた。まことに彼女は青春に悔いがないだろう」
笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)
映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右)
写真=プレジデントオンライン編集部所有
映画版『お染久松』のエノケン(榎本健一)と笠置シヅ子(右) - 写真=プレジデントオンライン編集部所有

実は「ブギウギ」の登場人物のモデルには、1つの共通点がある。それは、笠置と同じく、「家族を盲愛した」人たちだということ。

服部の自伝には「最愛の妹」として、末の妹・富子の名前が頻繁に登場する。服部の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)によると、「両親が家業にいそがしかったため、ぼくが一種の親がわりをつとめた。小学校の面接や父兄会、学芸会にも出席した」特別な存在だが、服部が東京に行きたいと告げると、即座に賛成。東京に行きたくて苦しんでいた兄の気持ちを知っていたと言い、背中を押すのだった。

■服部は実妹の富子をかわいがったが、富子は肝硬変で早世

そんな富子は宝塚歌劇団に所属していたが、歌手に転向し、「満州娘」が大ヒット。しかし、1981年には、肝硬変で早世する。「わたし絶対に死なないわネ、死ぬのはいやヨ」と言い、「ベートーベンは日本にもいるわネ、兄ちゃんよ。ニチベン、私の兄ちゃんは日本のベートーベン、ニチベン」と服部の手を握って言ったエピソードが切々と綴られているのだ。

また、りつ子のモデル・淡谷のり子もまた、青森の大きな呉服商の娘として生まれたが、実家の全焼と父の女道楽で没落した家を支えるため、また、栄養失調で失明の危機に瀕した妹の治療費を稼ぐために美術学校のヌードモデルまでしていた。

エノケンもまた、自身の病気「特発性脱疽」に苦しみ、自殺未遂をしたことと、金の工面に苦しんだこと、最愛の息子に先立たれたことが自伝の後半の大部分を占めている。

■70歳でガンのため死去した笠置の最期の言葉とは?

笠置は1985年(昭和60)3月30日、卵巣がんのため70歳で死去した。入院中に放送された服部の伝記ドラマ「昭和ラプソディ」で自分の役を演じている研ナオコを見ながら、「日劇時代は楽しかったね」とつぶやいたのが、最期の言葉だったという。やはりブギの女王として一世を風靡(ふうび)し、日本劇場(現在の有楽町マリオン)で服部の楽曲を歌い、聴衆を熱狂させた日々が懐かしかったのだろう。告別式の葬儀委員長は77歳の服部が務め、先に旅立った愛弟子の死を悼んだ。

戦後の世の中を、人々を照らし、元気や生きる力を与えた人々――笠置も、服部も、淡谷も、エノケンも、皆、私生活では数々の悲しみや苦しみを経験し、それゆえに「家族」に深い愛情を注いでいた。

「ヘイヘイブギー」の一節「あなたがほほえむときは わたしも楽し あなたが笑えば わたしも笑う」という言葉が当てはまるのは恋愛の関係だけではなく、ドラマでもそう描かれたように笠置と愛娘の関係もそうだ。これこそ、まさに「ブギウギ」のテーマである。そうして、愛する家族との幸福を希求してきたのは、きっと笠置だけでない、戦後のエンタメに生きた人々の願いだったのだろう。

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田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など

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(ライター 田幸 和歌子)

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