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本人だけでなく弟・秀長も超優秀…豊臣秀吉が「百姓から天下人」という異例の出世を遂げられた謎を推理する

プレジデントオンライン / 2024年4月13日 11時15分

月岡芳年「月百姿 志津ヶ嶽月 秀吉」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

なぜ豊臣秀吉は天下人になれたのか。直木賞作家の今村翔吾さんは「秀吉の出自には謎が多いが、おそらく各地を飛び回ってさまざまな人物と会い、学びを得たのではないか。そうした知識や経験が、秀吉を異能の武将にしたのだろう」という――。

※本稿は、今村翔吾『戦国武将を推理する』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

■とにかく謎だらけの秀吉の青年期

庶民から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉ほど、「立身出世」という言葉が似合う人物はいません。同じ三英傑でも織田信長や徳川家康は大名出身ですし、幕末の英雄でも西郷隆盛や坂本龍馬はいちおう武士階級ですから、秀吉がナンバー1の「成り上がり」でしょう。

信長は行動と決断がダイナミックですが、秀吉は出自からの立身出世のプロセスがドラマチックです。『五葉のまつり』など、私の小説でも秀吉は多く出てきます。信長や家康と比べて武将との関わりのバリエーションが多く、さまざまな登場場面があります。

秀吉の生年月日は天文5年(1536)1月1日とされていましたが、これは『絵本太閤記』による創作です。「天下人なんやから、1月1日生まれにしたほうが箔がつくやろ」という狙いで、正月生まれに“設定”されたのではないでしょうか。伊藤秀盛という家臣が飛騨国の石徹白(いとしろ)の白山中居神社に奉納した願文の記述などから、現在は天文6年(1537)2月6日生まれ説が有力視されています。

生年月日もそうですが、若い頃の秀吉はとにかく謎だらけです。小説家としては、出自が曖昧なぶん幼少期のエピソードを自由に描ける面白みがありますが、生年をどこに設定するかで人物のイメージも変わるので、そこは悩みどころです。とはいえ、秀吉はキャラクターとして描きがいがあるので、自分の小説の中では一番好きな人物です。

■百姓であったのはほぼ確実

秀吉に関するエピソードとしてほぼ確かなのは、彼が尾張国中村の百姓の家に生まれたということです。秀吉の母なか(大政所)、姉、弟の秀長(小一郎)といった証言者がたくさんいるので、これは間違いないでしょう。ただし、ひと口に百姓といっても、現代の私たちが抱いている百姓像とは少し違っていたのではないでしょうか。

この時代、兵農が完全に分離されていなかったため、足軽雑兵は百姓と足軽の二刀流で生きる人が多数を占めていました。戦いの後には食料や金品、時には人までを掠奪する「乱取り(乱妨取り)」が行われ、それを目的として合戦に参加する人もいました。

秀吉の父といわれる弥右衛門も、江戸時代初期に成立した『太閤素性記』では足軽と伝えられています。

なかには、秀吉の出自を「山の民」に求める小説家の方もいます。私は、秀吉は百姓と下級武士の間、今風にいえば「季節労働者としての契約社員の息子」くらいの感じだったと考えています。結局どれが正解なのかわからないので、いかようにも描けるのが、秀吉の幼少期です。

■最初に仕えたのは今川方の武将

若い頃の秀吉のエピソードはいくつもありますが、史料にその名が出てくるのは永禄8年(1565)のこと。調略によって寝返らせた松倉城主の坪内利定宛の知行安堵状に、「木下藤吉郎秀吉」の名が出てきます。この頃には、すでに織田方の一員として活躍していたとみられます。

逆にいえば、そこに至るまで秀吉の経歴は本当に謎だらけです。通説として語られているのは、父・弥右衛門の死後、母なかが再婚した養父・竹阿弥との仲が悪く、家を出て諸国を放浪したというものです。針売りをしていたとか、どじょうすくいだったとか、家譜や歴史書によって描かれていることがバラバラです。

その中で、今川氏の重臣・飯尾氏の配下で遠江国頭陀寺(ずだじ)城の城主だった松下之綱(ゆきつな)に仕えたというエピソードが、『太閤素性記』に記されています。今川氏の滅亡後、之綱は徳川家康に仕えますが、天正11年(1583)に秀吉から3000石を与えられています。

その後、遠江国久野に1万6000石という所領を授かったことから、秀吉が之綱に仕えたのは事実と思われます。秀吉が九州攻めの際に記した文書には、「松下加兵衛(之綱)の事、先年御牢人の時、御忠節の仁に候そうろう」とあります。

今村翔吾さん
撮影=小松士郎
今村翔吾さんは「秀吉が現代に生まれていたら、きっと社長や総理大臣までのし上がったのでは」と考える - 撮影=小松士郎

■1万6000石は口止め料

しかし、旧主である松下之綱の石高が1万6000石にとどまったのは、之綱の秀吉に対する扱いがそこそこだったからではないかと思います。仮に之綱が秀吉の立身出世の手助けをしていたら、もっと多くの領地が与えられていたはずです。ひどい扱いはされていないけれど、良くされたわけでもない――そのため、おそらくこのような石高になったのではないでしょうか。

一方で、秀吉が之綱に与えた1万6000石には、「口止め料」の意味合いがあったという見方もできます。松下時代の秀吉は本当に下の下という感じで、雑多な仕事をしていたと思います。

天下人となった今、そんな下積み時代のエピソードを暴露されたら威信に傷がつくので、本来なら大名になるはずがない之綱を取り立てたのかもしれません。

ちなみに、之綱が亡くなったあと、後を継いだ子の重綱は関ヶ原の戦いであっさりと東軍についています。物語では深い絆が描かれがちな秀吉と之綱ですが、実際は割とドライな間柄だったのでしょう。

■どうやって信長のもとで出世したのか

秀吉が信長に取り立てられた際の逸話としてあまりに有名なのが、いわゆる「草履取り」のエピソードです。実際、秀吉が信長に気に入られるまでにはさまざまな紆余曲折があったのでしょうが、それを「草履を懐で温めて信長を喜ばせた」という物話にギュッと凝縮させているのだと考えます。

本当のところはどうだったかというと、おそらくいつの間にか織田家中に入り込み、如才なく仕事をこなして出世したと思われます。

「武辺をば今日せず明日と思ひなば、人におくれて恥の鼻あき(明日こそ功名を立てる、そうした考えでは人に後れをとり、人の鼻を明かすどころか恥の上塗りになってしまう。好機は今ここで掴みとれ)」という秀吉の言葉も伝わるくらいですから、仕事は早く、抜群に出来たのでしょう。

信長には古くからの譜代家臣が少なく、実力があれば新参者でも抜擢され、出世しやすい環境でした。同じく謎の出自から出世した織田家臣として滝川一益、明智光秀などもおり、秀吉の出世も不自然ではなかったのです。宿老が主君の脇をガッチリと固める武田氏なら、(信玄に見初められない限り)重臣の列に加わるのは難しかったでしょう。

■人には言えない秘密の仕事

秀吉が信長に仕えたあと、どのような仕事をこなして出世したのかについても謎に満ちています。

有名な話としては、清須城の塀の修繕を3日で完遂させたとか、墨俣城を一夜で築いたというエピソードがありますが、これらも本当にあった話かどうかは定かでありません。

とはいえ、秀吉が短期間で出世したのは紛れもない事実です。「戦国時代あるある」として、信玄家臣の高坂弾正昌信のように主君の“お気に入り”で出世する例はありますが、秀吉はそういうタイプではありません。墨俣一夜城に匹敵する手柄や功績を挙げているはずですが、それははたしてどんな仕事だったのか――。

おそらく後年栄達した後も周囲には語りたくない働き、例えば、敵方を内部で対立させ、組織を切り崩す調略やスパイ工作活動、あるいはそれ以上の“裏の汚れ仕事”で信長の期待に応え、するすると出世していったのかもしれません。

稲葉山城を落とすために行った西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)の調略も秀吉の仕事だったとされます。

■なぜ青年期の自慢話が残っていないのか

昭和的な話ですが、功なり名を遂げたお偉いさんが銀座のバーで話すことといえば、若い頃の武勇伝というケースが思い浮かびます。ところが秀吉の場合、今に語り継がれている出世話の多くは、後世の創作とみられるものばかりです。

黄金の茶室をつくるほど自己顕示欲の強い男ですから、聚楽第や伏見城で大名やその家臣に自分の若い頃のエピソードを誇らしげに話し、それが後世に伝わったとしても不思議ではありません。それがほぼないということは、初期の秀吉は人にいいにくい仕事をこなし、時には倫理的に褒められない行為にも手を染めていたのではないかと考えられます。

秀吉は「陽」か「陰」かでいえば、圧倒的に「陽キャ(陽気なキャラクターの略語、人づきあいが得意で活発な人)」であったことは想像がつきます。ただし、人間には誰しも「陰」の部分があって、若い頃は仕事の面も含めて、「陰」の要素が強かったと考えられます。

世に出てからは「陰」を捨てて「陽」の男として走り始めますが、それでも彼の中にある出自などのコンプレックスを払拭することはできず、天下人になった後もまとわり続けました。

陽キャの光が強かった分、陰(かげ)の濃さも後年、際立ったのかもしれません。

■百姓出身なのに「豊臣兄弟」が優秀だったワケ

秀吉の立身出世を下支えしたのが、弟の秀長です。戦働きから事務的な調整や資金調達までもこなした非常に優れた人物で、最終的には大和・紀伊・和泉に河内国の一部を加えた約110万石余りを領しています。従二位権大納言まで昇ったことから、「大和大納言」と呼ばれました。彼もかなりの立身出世です。

豊臣秀長画像
豊臣秀長画像(画像=春岳院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかし、気になる点が一つあります。兄の秀吉もそうですが、百姓の家に生まれた秀長が、なぜ武将として有能だったのでしょうか。

この兄弟は明らかに二人とも相当に優秀です。尾張国中村で必要な教育を受けていたわけではなさそうなので、地頭がよかったとしても、謎が残ります。

永禄8年(1565)までの秀吉に関する記録がないので、何をしていたのかはわかりません。信長の家臣としてさまざまな仕事をしていたと思いますが、一つの仮説として、それ以外の時間はずっと学んでいたのではないでしょうか。そういう勤勉さが弟の秀長にもあって、兄弟で切磋琢磨したのでしょう。

とはいえ、机上の勉強だけで天下人までのし上がるのは難しかったはず。そこで考えられるのが人脈、そして実地での“学び”です。秀吉が人たらしだったのは多くの人が知るところですが、若い頃からさまざまな人物と交流しています。

■スゴ腕の営業マン

五奉行として豊臣政権を支えた前田玄以は、若い頃は尾張国の小松原寺で住職を務めていたといわれています。まだ「木下藤吉郎」と名乗っていた頃の秀吉と親しい間柄で、ある日、秀吉は「今は乱世なので、運に恵まれれば儂のような者でも大名か将軍になれるかもしれない。それが実現したら、貴殿の望みを何でも叶えて差し上げよう」と玄以にいいました。

玄以は笑いながら「それならば、京都所司代にしてください」と答え、のちに実現するわけですが、秀吉が武将にすらなっていない頃の話ですから、あくまで逸話の一つという位置付けではあります。

また、秀吉が鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚え、寺小姓だった石田三成から茶を差し出されたという有名な三献の茶のエピソードもあります。こうした玄以や三成の逸話からわかるのは、秀吉がさまざまな場所を巡り、人と会っていたということです。

ひと昔前の営業担当は、よく歩き、多くの人に会う人が優秀とされていましたが、秀吉はさながらスゴ腕の営業担当という感じだったのでしょう。

まずは尾張国内を巡り、地理はどうなっているのか、優秀な人間はいないかなど常に探っていました。そして、歩きながら色々と思考をめぐらせ、考え続けたのではないでしょうか。

■誰から教えを受けたのか

秀吉は若い頃に中村の家を出ているので、秀長は兄との共通の体験がそこまで多くはなかったと思われます。しかし、外で鍛えられて成長した兄の姿を見て、秀長も大いに刺激を受けたはずです。自分が励まないわけにはいかないので、兄弟で教え合って、それぞれ武将としての素養を身につけていったのでしょう。

気になるのは、秀吉や秀長が誰から教えを受けたのかという点です。例えば、家康や今川義元は太原雪斎、上杉謙信は天室光育、伊達政宗は虎哉宗乙など、後世に名を残した戦国武将は、いずれも当代随一の学識がある人物から教えを受けています。

今村翔吾『戦国武将を推理する』(NHK出版新書)
今村翔吾『戦国武将を推理する』(NHK出版新書)

小瀬甫庵の『太閤記』では、8歳のときに光明寺に入れられ、寺を追い出されてからは商家に奉公に出て、ひと通りの手習いは習得していることになっています。

大名の子息は教育を強制的に受けさせられましたが、秀吉は自ら学び、吸収していったと思われます。おそらく他のどんな武将よりも「学ぶ喜び」は大きくて、学びに対する渇望も強かったはずです。文字も最初は書けなかったけれど、努力して書けるようになって、それがうれしくて筆まめになったのかもしれません。

信長や家康も多くの手紙を書いていますが、秀吉は自筆書状が130通ほど残っています。「その書は達筆と言えるようなものではなく、誤字脱字や破格の書き方も見られますが、大変個性的」(東京国立博物館・田良島哲、特別展「和様の書」)と評されているように、私は秀吉の力強い字(筆跡)が好きです。

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今村 翔吾(いまむら・しょうご)
小説家
1984年京都府加茂町(現・木津川市)生まれ。関西大学文学部卒。小学5年生のときに読んだ池波正太郎著『真田太平記』をきっかけに歴史小説に没頭。32歳のとき『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』でデビュー。2022年『塞王の楯』で第166回直木三十五賞受賞。著書に『イクサガミ 天』『イクサガミ 地』(いずれも講談社文庫)、『八本目の槍』(新潮文庫)、『教養としての歴史小説』(ダイヤモンド社)など。近影撮影=小松士郎

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(小説家 今村 翔吾)

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