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高知「よさこい祭り」は、徳島「阿波踊り」に対抗してできた…文化や伝統を「守るべき」という人が誤解しがちなこと

プレジデントオンライン / 2024年4月26日 8時15分

高知よさこい祭り2005(写真=工房 やまもも/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

伝統や文化はどのように守っていけばいいのか。桃山学院大学の大野哲也教授は「文化や伝統は、創造と変化を繰り返している。起源の歴史をたどれば、そのことがよくわる」という――。

※本稿は、大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「タータンチェック柄のスカート」は一企業の作業着だった

スコットランド文化の一つに、男性が着用するタータンチェック柄のスカートがある。現代社会では主に女性ファッションのアイコンであるスカートを男性が着るので、違和感を伴って見覚えがある人も多いのではないか。いまでは世界中の人たちがスコットランドの伝統として了解しているこの衣装は、じつはきわめて新しい時代に創造された発明品であることがわかっている。

1600年代、スコットランド人は上半身から膝までを覆うコートを身につけるようになった。軍では、将校はズボンを着用していたが、一般兵は肩からかけた布で全身を包み、ウエスト部にベルトをして留めていた。布の丈がそれほど長くないうえに裾がスカート状になっていたので、何かの拍子に内側がすぐに丸見えになった。一般的には「ベルトつきの肩かけ」と呼ばれていた。

社会的には圧倒的に認知度が低いスタイルが1700年代に、突如社会にデビューする。この衣服に興味を抱いたイングランド人の実業家トマス・ローリンソンが、自身が経営する鉄工場の作業着として採用したのだ。ただし「ベルトつきの肩かけ」というデザインのままでは、溶鉱炉での作業に支障をきたした。そこで彼は肩掛けの部分とスカートの部分を分離して、スカートにはプリーツ(ひだ)を新たに付け足した。

こうして作業服としての「小キルト(タータンチェック柄スカート)」が誕生した。地域社会の「普段着」を作業着化することは、現地社会の人びとを工場へと誘引する効果があった。

■禁止されたことで「スコットランド社会の伝統」に昇華

なぜ一企業の作業着がスコットランド社会の伝統に昇華したのだろうか。

1745年、フランスに亡命していたチャールズ・エドワード・スチュアート(1720~1788)が王位奪還を目指してイギリス政府軍と戦った、いわゆる「ジャコバイト蜂起」は、結局政府軍の勝利で終わった。そして政府はスチュアート側に加担したスコットランドを罰するため、当該地方の文化である「タータンチェック柄」や「肩掛け」などの衣服の着用を禁止した。この法令は35年間も効力を持ち続けた。

こうして禁止されると、スコットランド社会の文化的象徴としてかえって真正化され、正統性を帯びることになった。「長期間禁止しなければならないほど、重要な意味と価値がある」と解釈することができるからだ。

その後タータンチェック柄のスカートは、軍服としての採用が検討されたり、貴族などの上流階級によって「先祖の衣服」として着用されたりと、伝統として定着していった。普段着や作業着であった過去は忘れ去られたのである。

■祇園祭の華やかな飾りつけは安土桃山時代から

次は毎年京都でおこなわれる祇園祭について考えてみよう。真夏の古都を1カ月にわたって彩るこの祭りには1200年近い伝統があるといわれている。869年に京都で疫病が流行したとき、それを封じ込めるために66本の鉾を立てて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのがはじまりとされる。その後、応仁・文明の乱(1467~77)がおこり巡行は途絶するが1500年に再興された。

重要なのは現在のように鉾が豪華絢爛に飾り付けられるようになったのが安土桃山時代から江戸時代にかけて、ということだろう。それまでは華やかな飾り付けは物理的にできなかった。貿易が活発化して輸入品が流通するようになって加飾されるようになったのだ。

祇園祭という伝統と文化は原初の様式を堅固に保存しているが、過去から現在に至るまで途切れることなく続いてきたわけではない。長期間にわたる中断を含みつつ、そのプロセスで何度も姿かたちを変化させながら現在に至っているのである。

祇園祭・後祭(あとまつり)の山鉾(やまほこ)巡行で、196年ぶりに復帰した「鷹山」=2022年7月24日、京都市内
写真=時事通信フォト
祇園祭・後祭(あとまつり)の山鉾(やまほこ)巡行で、196年ぶりに復帰した「鷹山」=2022年7月24日、京都市内 - 写真=時事通信フォト

■高知の「よさこい祭り」ができたのは1954年

これは祇園祭に限ったことではない。他でも類似の過程は確認できる。

高知のよさこい祭りも近年の発明品だ。誕生したのは江戸時代でも明治時代でもない。なんと第二次世界大戦後の1954年のことである。当時、隣の徳島県で人気沸騰していた阿波踊りにあやかって、高知でも同様の祭りをしようという気運が高まった。それによって県民と地域経済を活気づける狙いもあった。

祭りは先祖崇拝、五穀豊穣、疫病や災害の予防・救済を願うものとして始まったケースが多いが、よさこいにはそのようなバックグラウンドは一切ない。阿波踊りに熱狂する隣県を模して、思惑を持って創られたのだ。

祭りは1992年に北海道に「輸出」され、現地で「YOSAKOIソーラン祭り」に再創造されたのをきっかけにして、全国展開されるようになっていった。

■バリ島「ケチャダンス」はドイツ人によって創られた

インドネシア・バリ島の観光アトラクションの一つにケチャダンスがある。上半身裸の男性が50名ほどで円をつくり「チャッ、チャッ、チャッ」と合唱しながら呪術的な踊りを舞う。古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』をベースにした舞踏劇である。現地を訪れるツーリストのほとんどはバリ島の伝統芸能だと思っているが、じつはそうではない。近代的な発明品である。しかも創作したのはインドネシア人ではなくドイツ人の芸術家ヴァルター・シュピース(1895~1942)だ。

第一次世界大戦後の1923年ごろにインドネシアに渡った彼は、その後バリ島に住み着いた。当地の文化や宗教がもたらすヨーロッパ人にとってのエキゾチシズム(異国情緒)、美しい自然、そして人びとの人間性に魅了されたのだ。

大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)
大野哲也『大学1冊目の教科書 社会学が面白いほどわかる本』(KADOKAWA)

当時のバリ島は、現在のように観光を基盤とする経済的な安定を築いていなかった。現地の貧困と窮状を目の当たりにした彼は地元の力になれる方法を考えるようになっていった。そんなある日、ひらめいたのが伝統文化としてのケチャダンスの発明だった。「これを観光資源化することで地域社会に経済的な安定をもたらすことができるのではないか」と。

音楽、ストーリー、ダンスといった要素は日を追って改良されていき、1930年代半ばには鑑賞するべきアトラクションとして広く認知されるようになった。

ケチャダンスは土着化していったが、この「発明された文化」→「伝統芸能化」という流れは単なる一方通行ではない。文化となることで現地社会のアイデンティティや人びとの考え方を刷新していくからだ。そしてこの意識の変革が舞踊の改良やさらなる伝統文化の発明につながっていくのである。

■文化や伝統は、日々更新され続けている

これらの例からみても理解できるように、文化は過去から現在に至るまで連綿と続いてきた伝統的遺物ではなく、近代に入って「創られた」ものとして捉えることができる。

文化や伝統は過去の遺物が冷凍保存されたまま、変質することなく現在まで存在し続けているわけではない。創造と変化を繰り返しながら、日々更新され続けているのである。

こうやって創られた起源を暴露することは、我々を自由にするかもしれない。「男は仕事をし、女は家庭を守るべき」「愛し合う伴侶と生涯添い遂げるべき」といった価値観もある時点から発生したものであることがわかれば、その拘束力が絶対ではないことがわかるからだ。

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大野 哲也(おおの・てつや)
桃山学院大学社会学部 教授
1961年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科指導認定退学。博士(人間・環境学)。桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部を経て、現在、桃山学院大学社会学部教授。大学の体育学部卒業後、高知県の山奥にある全校生徒11名の中学校の教員になる。現職参加制度を利用して青年海外協力隊に参加し、パプアニューギニアでスポーツ指導に従事。教員を退職して、5年間自転車で世界を放浪。旅のあと、大学院に入学して社会学と文化人類学を学ぶ。著書に『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(世界思想社)、『20年目の世界一周 実験的生活世界の冒険社会学』(晃洋書房)がある。

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(桃山学院大学社会学部 教授 大野 哲也)

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